心に残る一冊 その120 「樅ノ木は残った」 その七 「くびじろ」(2)

「くびじろ」を追いながら甲斐はまず弓を取って弦を張ります。それから音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いま鳴き声のしたほうをうかがいます。やはりなにも見えず、なにも聞こえません。
「しかし紛れはない」

甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸び上がってくびじろの通路にあたる山つきの低地を見やります。くびじろは阿武隈川を渡ると、正覚寺山から甚次郎山へぬけるか、谷地をまわってやまにはいり、丘陵へ向かうかのどちらかの通路を通るのがいつもの例でした。こんどは谷地を川上のほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら決して見失う心配はありません。

オスジカ                   知床半島 ウトロ森林地帯

甲斐は雪払いの動作を止めて息を呑みます。視野の端になにか動くものの姿を認めたからです。二段ばかり先の枯れ木林の中からすっと一頭の鹿がでてきます。粉雪のとばりのかなたにそれはなんの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立ち停っています。くびじろだ、、、、、

鹿がこっちへ動き出したのです。甲斐は弓を持ち直し矢をつがえます。風は北から吹いています。くじびろは風上からこっちへきます。用心深くときどき鼻を上に上げ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいてきます。距離は三十尺、甲斐が立ち上がったとき、くびじろもぴたりと足を止めます。甲斐は弦をひきしぼり、矢の幹がききと爽やかにきしみ、弦はいっぱいにしぼられます。その瞬間くびじろが頭を右に振り、甲斐は矢を射放します。矢はくびじろの肩に当たります。くびじろはするどく叫び、頭を振り躍り上がります。

くびじろは逃げ去ることなく、甲斐のほうに跳躍しながら雪しぶきをあげなが甲斐に跳びかかってきます。甲斐はすぐはね起き、弓を拾い矢をぬいて弓につがえながら向こうを見ます。距離は約四間。呼吸が合って、まさに矢を射放そうとしたとき、弓弦が音をたてて切断してしまいます。くびじろは甲斐に突きかかり、その角で甲斐の軀をはねとばします。甲斐の軀はおおきく跳ね上がれ、雪を被った笹の斜面へ投げ出されます。

甲斐はじぶんの肋骨の折れる音をきき、二間あまり斜面を転げ落ちるとすくに腰の山刀を抜きます。くびじろは斜面を駆け下りてきました。甲斐は立とうとしますが、激痛のためにうめき声をあげ、雪の中に横倒しになります。斜面を駆け下りてくるくびじろのみごとな大角をみながら、甲斐は左の肱で半身を支え右手の山刀の切尖をあげます。視界が一瞬ぼうとかすみます。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかったきます。