ナンバープレートから見えるアメリカの州ユタ州・Greatest Snow on Earth

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ユタ州(Utah)のナンバープレートには、4つのフレーズが記名されているのがあります。「世界で最も素晴らしい雪」(Greatest Snow on Earth)、「高められる命のアーチ」(Life Elevated Arches)、「神に信頼を」(In God We Trust)、そして「ハイウエイよさらば」(Off-Highway Vehicle)です。塩と雪の白さで観光客が魅了される州といえましょう。

License Plate of Utah

この地域には紀元前1万年前に人が住んでいました。プエブロ族(Pueblo)が住みつき、ショショーネ族(Shoshone)、ユート族(Ute)、パイユート族(Paiute)などの集団が続きます。18世紀後半にはスペインの宣教師がユタを訪れます。1821年にメキシコに返還されます。アメリカ人開拓者ジム・ブリッジャー(Jim Bridger)は、1824年にグレート・ソルトレイク(Great Salt Lake)を見た最初の白人といわれます。

Map of Utah

この地域の最初の定住者はモルモン教徒(Mormons)で、初代教祖ジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith, Jr.)がイリノイ州で殺されると、1847年に教徒らはブリガム・ヤング(Brigham Young)に率いられてグレートソルト・レイクの谷に導かれます。この教会は末日聖徒イエスキリスト教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)と呼ばれます。

人口は事実上ほとんどがヨーロッパ人で、主に北欧人(northern European)です。アジア人、ヒスパニック(Hispanics)、アメリカ先住民、アフリカ系アメリカ人も少数ですが住んでいます。さらに20世紀後半には、ハワイ人や他の太平洋島民の数が増加しました。彼らの多くはモルモン教に改宗し、ソルトレイク・シティ(Salt Lake City)に移住しました。アメリカ先住民を除いて、少数民族人口のほぼ5分の4が、ソルトレーク、デイビス(Davis)、ウェーバー(Weber)のワサッチ(Wasatch)3郡に住んでいます。

Arches National Park

サンフアン(San Juan)郡の人口はアメリカ先住民の約半分であり、州のアメリカ先住民総人口のほぼ3分の1が含まれています。これらは主にナバホ族(Navajo)で、主にナバホ居留地のフォーコーナーズ(Four Corners)地域に住んでいます。ユート族はユインタ(Uintah)とオーレイ(Ouray)居留地に住んでいます。南パイユート族の多くは、部族の中でも最も経済的に貧しく、ユタ州南部のいくつかの小さな保留地に住んでいます。

ヒスパニック系の人々は州最大の少数派グループを構成しています。このグループの多くは農業、鉱業、製造業、サービス業の低所得労働者であり、教育と文化変容の問題にますます注目が集まっています。ユタ州ではモルモン教徒が宗教信者の大多数を占めていますが、ローマカトリック教徒も州全体で見られます。バプテスト、ルーテル派、その他のプロテスタント宗派、および非キリスト教の信者も居住しています。

メキシコ戦争後にアメリカが獲得したこの地域は、1850年にユタ準州(Utah Territory)として組織され、1868年には現在の州の面積に縮小されます。1857年から1858年にかけて、モルモン教徒と連邦政府との間でユタ戦争(Utah War)と呼ばれる対立が起こります。ユタ州で発生したルモン教徒とアメリカ陸軍との内乱のことです。モルモン教徒が一夫多妻制(polygamy)を放棄するまで州昇格は認められませんでした。

Monument Valley

1847年に始まった初期のモルモン教徒の入植者は、農業、手工業、小規模工業に基づいた自給自足の経済を営みました。1860年代後半に他の多数の入植者が到着すると、この組合経済は、モルモン教の教義に反する鉱石採掘と貿易に専念する非モルモン教徒の活動と競合していきます。州発足後、州の輸出可能な資源は、外部の企業によってますます搾取されるようになります。州の農業は牧畜牛、羊毛、そして牧草(alfalfa)や甜菜などの商品作物に向けられるようになります。一夫多妻制を放棄したユタ州は、1896年に45番目の州として連邦に加盟します。20世紀初頭以降、モルモン教会は公式には政治的中立を保っていますが、経済的な影響力が注目されています。

1921年と1930年代の経済不況は深刻でしたが、連邦政府のプログラムとモルモン教会の福祉プログラムのおかげで州は回復します。第二次世界大戦中、いくつかの防衛施設や空軍基地が建設され、ユタ州南東部ではウラン(uranium)ブームが起こりました。1950年代後半、ミサイル用のロケットエンジンを製造するためにワサッチ(Wasatch)地帯に沿っていくつかの大きな工場が建設されました。ユタ州は石炭と石油の埋蔵量が多く、世界最大のベリリウム(beryllium)の生産地でもあります。主要産業は農業と観光業です。

Bryce Canyon

州の経済は非常に多様化しています。農業および鉱業部門は、軽工業および重工業、金融、運輸、観光によって補完されてきました。ソルトレイク・シティは地域の金融と貿易の中心地であり、多くの大企業がオフィスを構えています。現在でもモルモン教徒が全州人口の約60%を占めているといわれます。敬けんで穏やかなモルモンの人々が育んできた風土のせいか、全米でも治安も良いことで知られています。ユタ州立大学(Utah State University)のあるローガン市(Logan)は小規模都市を含めて全米一位の治安のよいところのようです。

Utah State University

空からソルトレイク・シティに近づきますと、地上は真っ白。その名の通り塩の大地が広がります。しかし、州の中央部には海抜三千メートルの山脈があり、北海道のような粉雪で深く、世界的に名高いスキーリゾートとなっています。ユタ州の西部は起伏が続いています。ですが大部分が不毛の砂漠となっています。岩だらけの風景の中にひときわ目立つのがモニュメント・バレー(Monument Valley)です。しばしば西部劇の映画などで登場しました。

ソルトレイク・シティでは、モルモン教会合唱団の演奏を聴くのがお勧めです。この合唱団は「Mormon Tabernacle Choir」といい、神の幕屋教会合唱団と呼ばれます。世界一流オーケストラとの数々の共演や世界各地での演奏会で知られています。リハーサルは毎週木曜日午後8時から開かれ、その後に聴衆からの質問のやり取りがあります。私も一度このリハーサルの日時を確認してから幕屋教会に出掛けました。ユタ州立大学(Utah State University)を訪ねたついでのことです。

Salt Lake Temple


(2024年5月10日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アーミッシュ・ウィスコンシン州対ヨーダ裁判

アメリカ合衆国のどの州も義務教育年限は12年間となっています。中等教育を子どもに受けさせるのが保護者の義務なのです。ところが、信教や思想の自由によって義務教育は8年でもよいという判決が出たことがあります。ウィスコンシン州のマディソンの近くにあるニューグレラス(New Glarus)という町に住んでいたアーミッシュの住民が、子どもの就学を拒否してウィスコンシン州教育委員会を相手に裁判を起こした有名な事例です。これは「ウィスコンシン州対ヨーダ裁判」(Wisconsin v. Jonas Yode)と呼ばれます。それを紹介します。アメリカ中西部にはペンシルバニア州と同様に多くのアーミッシュの人々が暮らしています。

Horse_buggy

1972年5月15日、合衆国最高裁判所(U.S. Supreme Court)は、ウィスコンシン州(Wisconsin)の就学義務教育法(Compulsory School Attendance Law)を、アーミッシュ、主にオールド・オーダー・アーミッシュ(Old Order Amish)やメノナイト(Menonite)教会の会員に適用するのは違憲であるとの歴史的な判決を下します。オールド・オーダー・アーミッシュとは18世紀に主にドイツから渡ってきた移民を祖先とする敬虔なキリスト教徒で、厳格に教義に基づいて世俗に染まらない生活を旨としています。裁判では、裁判官7人全員一致の評決となり、義務教育法の援用は、信教の自由行使(free exercise of religion)という憲法修正第1条(First Amendment)の権利を侵害するものであると裁定したのです。憲法修正第1条とは、1791年12月15日に採択された「権利章典」(Bill of Rights)を構成する10の一つで次のような内容です。

Old Order Amish

「連邦議会は、国教を樹立し、もしくは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。また、言論もしくは出版の自由、又は人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない」

この裁判には、ジョナス・ヨーダ(Jonas Yoder)、ウォレス・ミラー(Wallace Miller)、アディン・ユッツィ(Adin Yutzy)というアーミッシュの3人の父親が原告となり、自らの信仰に基づき、14歳と15歳の子どもたちが8学年を修了した後、公立または私立高校に入学させることを拒否したのです。

ウィスコンシン州の就学義務教育法は、子どもたちは少なくとも16歳まで学校に通うことを義務付けているのを理由として3人の保護者を訴えます。初審はグリーン・カウンティ(Green County)裁判所で開かれ、裁判所は州法は統治における「合理的かつ合憲的な行使を規定している」と結論付け保護者は同法違反で有罪となり、それぞれ5ドルの罰金を科されます。しかし、ウィスコンシン州最高裁判所は、アーミッシュへの法律の適用は憲法修正第1条の信教の自由行使条項に違反するとの判決を下します。この判決を不服としてウィスコンシン州教育委員会は最高裁に上告したのです。

Amish Families

1972年5月15日、この訴訟は米国最高裁判所で審議されます。このときの長官はリチャード・ニクソン(Richard Nixon)に任命されたウオーレン・バーガー(Warren Burger)です。最高裁判所は9名の判事からなりますが、この裁判ではウィリアム・レンクイスト判事(William Rehnquist) とルイス・パウエル判事(Lewis F. Powell, Jr.)は評決には参加しませんでした。最高裁は、アーミッシュに対する包括的な調査を行い、「彼らの宗教的信念と生活様式は切り離すことができず相互依存しており、何世紀にもわたってその基本は変わっていない」と判断します。そして最高裁はさらに、中等教育は、アーミッシュの子どもたちを彼らの信念に反する態度や価値観にさらし、彼らの宗教的発達とアーミッシュのライフスタイルへの統合を妨げるだろうと結論付けたのです。最高裁は加えて、アーミッシュの子どもに8年生以降の公立または私立高校への入学を強制すれば、「彼らは信仰を捨てて社会全体に同化するか、他のより寛容な地域への移住を強いられる」ことになるだろうとも結論づけたのです。

Amish Classroom

こうして最高裁は、「義務教育制度に対するウィスコンシン州の利益は、アーミッシュの確立された宗教的慣習にも譲歩しなければならないほど切実な懸念となる」というウィスコンシン州の主張を退けます。そしてたとえ1年か2年の中等教育がなくても、子どもたちが社会の負担になることはなく、彼らの健康や安全が損なわれることもないと判断します。

US Supreme Court Judges

最高裁は、アーミッシュの子どもたちが正式な教育を受けなくとも家族と共に働き、勤労という「非公式な職業教育を継続する代替手段 」を好意的に評価したのです。アーミッシュは学校教育に全て委ねるのではなく、家庭や農場での実践を通して、良き市民を育ててきた長い実績があることを評価されたのです。こうした知見に基づき、最高裁は憲法の信教の自由行使条項に基づき、ウィスコンシン州の就学義務教育法は、アーミッシュには適用されないとの画期的な判決を下したのです。

この裁判では、少数意見をウイリアム・ダグラス(William Douglas)という判事が述べています。つまり、憲法修正第1条の言論や表現、結社、宗教の自由、さらに修正第14条にある市民の広範な権利は保障されるべきであること、しかし、コミュニティにおける8年の教育で十分であるという主張は、果たして子どもの幸福を保障するものかは疑問であるという立場です。ウィスコンシン州対ヨーダ裁判の判例は現在も生きています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ペンシルベニア州・Keystone State

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ペンシルベニア州(Pennsylvania)は合衆国の北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。これがナンバープレートに印字されています。その他、「自然を護れ」(Conserve Wild Resources) 、「友達がいる」(You’ve got a Friend in)というフレーズのもあります。

License Plate of Pennsylvania

ペンシルベニア州の名前の由来から始めます。17世紀にヨーロッパ人がやってきたとき、この地域にはショーニー族(Shawnee)やデラウェア族(Delaware)などのインディアンが住んでいました。ペンシルベニア州は険しい地形のため、ヨーロッパ人の入植はゆっくりと進みました。

最初に人々はフィラデルフィア(Philadelphia)から西へ北へ移動していきます。入植地が西のペンシルベニア州中央部のリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域に広がるまでには約80年かかったといわれます。州西部では、最初の入植者がヴァジニア州(Virginia)から到着し、ポトマック川(Potomac River)を経由して西に進み、モノンガヒラ川(Monongahela River)に沿って北上し、1750年代にピッツバーグ(Pittsburgh)に到着します。1840年頃に入植者は最後に残った未開発地域、つまり州の北中部の険しい地域に到達しました。こうして最初の開拓地が開発されるまでには、最初の入植から160年位かかります。

Amish in Piedmont

1664年にイギリス人がこの地域を掌握し、1681年にイギリス国王がウィリアム・ペン(William Penn)に勅許を与え、1682年に宗教的寛容に基づくクエーカー教徒(Quaker)がコロニー(colony)を設立します。コロニーとは植民地という意味です。ペンがアメリカに到着する前、ペンシルベニアには数人のスウェーデン人(Swedish)、オランダ人(Dutch)、フィンランド人(Finnish)が入植していました。ペンは宗教的寛容を説き、その実践と民主的な統治の在り方によって、他のグループがペンシルベニアに定住することを奨励します。ペンはクエーカーで、やがてペンシルベニア植民地総督を務め、後にフィラデルフィアを建設した政治家でもあります。フィラデルフィアという単語は、「philos」(愛する)と「adelphos」(兄弟)から生まれています。

William Penn

ドイツ人はペンシルベニア州に移住した最初の主要集団でありました。彼らのほとんどはプロテスタントであり、主流のルター派や(Lutheranism)、カルヴァン派(Calvinism)から、アーミッシュ(Amish)、メノナイト(Mennonite)、モラヴィア派(Moravians)、シュヴェンクフェルダー派 (Schwenkfelders)、ダンカー派(Dunkers)などのさまざまな敬虔な宗派に属していました。アメリカ独立戦争の頃までに、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)、より正確にはペンシルベニア・ドイツ人(Pennsylvania Germans)として知られていたドイツ系グループが人口の3分の1を占めていました。

ペンシルベニアに定住した次に主要なグループは、北アイルランド(Northern Ireland)出身のスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)などの人々です。彼らは農地を探して西のピードモント州 (Piedmont)西部やリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域にやってきました。革命の時点では、彼らは植民地の総人口の4分の1を占めていました。4番目の主要な移民グループであるアイルランド人(Irish)は、1840年代と50年代にアイルランドのジャガイモ飢饉 (Potato Famine)のために祖国からアメリカに渡ってきます。

Declaration of Independence

当初、イギリスのクエーカー教徒は、デラウェア渓谷(Delaware valley)を占拠する最も重要なグループでした。 フィラデルフィアは、近隣のチェスター郡(Chester)やバックス郡(Bucks)とともに、最初に繁栄した農業商業地域となります。フレンチ・インディアン戦争の戦いの多くはこの地で起こりました。第1回と第2回の大陸会議(Continental Congresses) はフィラデルフィアで開催され、1776年に独立宣言が署名されます。

ペンシルベニアは連邦の原初州の一つであり、1787年に合衆国憲法を批准した2番目の州でもあります。南北戦争中は軍事活動の中心地となりました。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「sylvania」にPennをつけたというわけです。その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されてはいましたが、ペンらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書きいています。そしてイギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、その後のアメリカ合衆国憲法の基本となります。

産業革命は、ペンシルベニア州のダイナミックな経済の発展を促します。国内人口が必要な労働力を供給するのに不十分だったため、ペンシルベニア州にはイタリア人(Italian)、ポーランド人(Polish)、ロシア人(Russian)、ウクライナ人(Ukraine)、そしてバルカン地域(Balkan)から大規模な人々が定住していきます。こうして1890年から1900年にかけて州の人口は100万人以上に膨れあがります。この現象は主に鉱山地域や新しい産業の中心地へ人々が移住したことにもよります。20世紀になると、アフリカ系アメリカ人が南部から州に移住し始めます。彼らは現在、州の総人口の約10分の1を占めています。

Pittsburgh

戦後は経済、産業、人口が大きく成長し、商業大国としての地位を固めます。農業、鉱業、製造業、ハイテクを基盤とする経済で、最も繁栄した州のひとつです。州の特産品である鉄鋼の多くを生産し続け、石炭も豊富です。自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィアと重要な河港を持つピッツバーグは主要港であり、優れた教育、文化、音楽機関が存在しています。州都はハリスバーグ(Harrisburg)。エリー湖(Erie)やオンタリオ湖(Ontario)に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形が横長の州です。

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)やペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)などです。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra)はこの州にあります。

州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカ最大のアーミッシュ(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじるのです。

ほとんどのアーミッシュはペンシルベニア・ダッチ語を話します。「Dutch」とは古いドイツ語のことです。インディアナ州のスイス・アーミッシュはアレマン語の方言(Alemannic dialects)も話すといわれます。2023年現在、377,000人以上のオールド・アーミッシュ(Old Order Amish)がアメリカに、約6,000人がカナダに住んでいます。アーミッシュの教会グループは、非アーミッシュの世界からある程度分離された状態を維持しようとしています。一般的にアーミッシュから、アーミッシュ以外の人々は「英国人」と呼ばれ、外部からの影響はしばしば「世俗的」(worldly)として忌避しています。アーミッシュとペンシルベニアとの関わりは次回に紹介することとします。
(投稿日時 2024年4月2日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州フロリダ州・Sunshine State

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日本人にもフロリダ州(Florida)はよく知られています。フロリダ州のナンバープレートには「Sunshine State」とあります。文字通り太陽の降り注ぐ温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。

License Plate of Florida

子どもや親にとってはフロリダ州はわくわくするところです。ディズニー・ワールド(Disney World)やアメリカ航空宇宙局 (NASA) のジョン・F・ケネディ宇宙センター(John F. Kennedy Space Center)があります。数々のロケットやスペースシャトルが打ち上げられてきたところです。軍事用の偵察衛星や通信衛星、気象衛星、そして惑星探査機の打ち上げにセンターが使われています。

フロリダの歴史です。1513年頃にフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)によって探検され、「La Florida」と名付けます。1565年にスペイン人がセント・オーガスティン(St. Augustine)を建設します。フロリダはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリス領となります。1783年のアメリカ独立戦争後、この地域はスペインの支配下に戻りますが、1812年戦争(War of 1812)中はイギリスが作戦の拠点として使用しました。第一次セミノール戦争(First Seminole War)でアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)がペンサコーラ(Pensacola)を占領したことにより、1819年にフロリダがアメリカに割譲され、その後フロリダは1845年に州となります。

Map of Florida

セミノール戦争とは、フロリダ地方に住むセミノール部族(Seminole)と合衆国との間で1816年から1858年まで続いた長い戦争のことです。子孫の大部分を占める約2,500人のセミノール人が抵抗したのが、アメリカ史上でいわれるインディアンとの戦いといわれます。3次の戦争を経て武力にまさるアメリカが勝利を収め,セミノール族の土地を領土としたのです。という経緯でフロリダの元々の住民であるネイティブ・アメリカンは、現在では人口のほんの一部にすぎません。1861年に連邦(Union)から脱退し南部連合(Confederate)に加盟します。南北戦争後は1868年に連邦に再加盟します。

1822年にアメリカが有効な市民の受け入れ制度を確立すると、ヨーロッパ系のかなりの人口が増加し始めます。第一次世界大戦の頃にスペイン北部からの移民がタンパ(Tampa)にやって来て、特に葉巻産業を拡大しその将来の発展に惹かれていきます。スペイン語を話すコミュニティも設立され、さらに第一次世界大戦後はイタリア人も大勢フロリダやって来ます。

メキシコ湾(Gulf of Mexico)のウォーターフロントにある小さな町で、ギリシャ系(Greek)アメリカ人が多く住むのがターポン・スプリングス(Tarpon Springs)です。この町はグリークタウン(Greektown)と天然スポンジ産業で有名になりました。1880年頃にギリシャ人が定住し、1905年までに祖国の伝統を活かしてスポンジ産業を開始して有名にしたのです。マイアミ – マイアミビーチ(Miami–Miami Beach)の大規模なユダヤ人コミュニティからマサリクタウン(Masaryktown)のスロバキア人(Slovak)居住地に至るまで、州全体が特徴となるような多様な民族の貢献がみられていきます。こうして非ヒスパニック系白人が州人口の最大部分を占めるようになっていきました。

Disney World

フロリダは20世紀後半には全米で最も急成長した州のひとつとなります。観光業が主要産業で、ディズニー・ワールドはその代表的なアトラクションです。州、特にキューバ人(Cuban)が多く住むマイアミ市(Miami)は、カリブ海(Caribbean)地域で主要な経済的役割を果たしています。多くのレクリエーション・エリアにはエバーグレーズ国立公園 (Everglades National Park)があります。

オーランド(Orland)から車で約一時間ほどの所にあるのが、ジョン・F・ケネディ宇宙センターです。フロリダ州の東海岸メリット島(Merritt Island)にあるこのセンターはフロリダ州の主要な観光地の一つとなっています。ケネディセンターでは、同センター及びケープカナベラル(Cape Canaveral)空軍基地の公開ツアーが組まれています。州経済の推進力はアメリカ軍にもあります。州内に24の基地があり多額のドルを落としています。電子機器製造も重要で航空宇宙産業では数千人を雇用しています。

オーランドにあるディズニーワールド(Disney World)は世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れのものです。その敷地内には、タイフーン・ラグーン(Typhoon Lagoon) 、マジック・キングダム(Magic Kingdom)などの4つのテーマパークを中心に、ウォーター・パーク(Walter Park)、エンターテイメントエリア(Entertainment Area)、マリーナ、ゴルフ場、牧場、キャンプ場などが配置されています。

Kennedy Space Center

どれをとっても娯楽の粋を集めてそのアイディアを競っています。レストランにはミッキーマウスや小熊のプーさんがテーブルを回って写真を一緒に撮ってくれます。子どもたちはもう大喜びです。夢を子ども達に与えるのがこうしたテーマパークの「テーマ」といえましょう。オーランドにはユニバーサルスタジオ(Universal Studio)もあります。ディズニーワールドとあわせて毎年6,000万以上の人々がオーランドを訪れるというのです。

あまりにもフロリダの観光業は知られ過ぎているので、目立たないのですが、フロリダの主要な産業は農業となっています。フロリダ州の面積の約半分は、商業森林、国有林、州立森林、州立公園および連邦公園、湖、ビーチ、軍事保留地で構成されています。森林活動は主に州の北部で盛んです。州の中央部と南部の広大な草原では家畜の飼育が行われています。州の約5分の2は農地であり、その多くは牧草地または森林にあります。フロリダの全土地のうち、作物の収穫で利用されるのは一部だけとなっています。

オケフェノキー沼(Okefenokee Swamp)という広大な湿地帯があります。広さは1773平方キロの黒い水の沼で、サウスジョージア(South Georgia)とフロリダにまたがっています。多くの人はこの名前を「震える大地」(land of the trembling earth)のような意味に翻訳していますが、ヒッチティ(Hitchiti)というジョージア州南部の先住民族の言葉で「泡立つ水」(bubbling water)を意味するようです。沼地の固い土地のように見えるもののほとんどは、実際には浮遊植物または泥炭の塊であり、触れると揺れ始めるのです。それで「震える大地」と呼ばれるようです。ここは国内最大の国立野生動物保護区 National Wildlife Refugesの1つであり、合衆国東部では最大の国立野生動物保護区となっています。

Okefenokee Swamp

畑作物が重要なフロリダ北部では農場が一般的ですが、そこでも広大な森林地域が広がっています。柑橘類の果樹園はフロリダ中央部と東海岸の大部分を占めています。特にオレンジで有名なフロリダは、国内の柑橘類の大部分を生産しており、野菜の生産量ではカリフォルニアに次ぐ第2位です。

柑橘系の果物は農場の収入のかなりの部分を占めており、フロリダ州のグレープフルーツの生産量は国内最高であるだけでなく、世界全体の大きな部分を占めています。グレープフルーツの主な輸出先は日本などとなっています。トマトも主要な野菜作物です。サトウキビはフロリダ州の主要な畑作物であり、全米の約半分を生産しています。

西海岸と柑橘類地帯の南北には広大な牛の牧場が広がっています。州南部では、オキチョビー湖(Lake Okeechobee)周辺でサトウキビと野菜の栽培が行われ、現在のプランテーション農業に相当するものが生み出されています。小規模な私有農場は、機械化と出稼ぎ労働者の参入に取って代わられています。移民労働者の低所得などの厳しい状況は大きな社会的な話題となっています。企業農業の台頭により、農場の規模は必然的に増大し、結果として農場数は減少しています。

Grapefruit

商業漁業(commercial fishing)は長い間州経済の重要な要素でありましたが、1990年代に生産性が低下し始めました。それでも水産養殖(aquaculture)も重要であり、水族館用の水生植物や熱帯魚の飼育、および食用のさまざまな貝類やひれ魚(finfish)の飼育が今も盛んです。映画「フォレストガンプ」(Forrest Gump)の終わりのところで、ベトナムの戦友と再開しエビ捕りにでかけるシーンがあります。

フロリダ人を指す単語に「フロリダ・クラッカー」(Florida Cracker)があります。この言葉は、植民地時代に今のフロリダに定住したスコットランド(Scotland)やアイルランド(Ireland)らの入植者のことで「White Southerners」とも呼ばれています。この用語は今に至るまでの彼らの子孫、および南部白人のサブカルチャーに適用されます。Crackerとは「楽しみ」または「娯楽」といった意味のようです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ナンバープレートから見えるアメリカの州マサチューセッツ州・Spirit of America

注目

マサチューセッツ州(Massachusetts)のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。州都はボストン(Boston)です。

License Plate of Massachusetts

イギリス人探検家でジェームスタウン・コロニー(Jamestown Colony)にいたジョン・スミス(John Smith)は、マサチューセッツ族(Massachusetts)にちなんでこの州を命名したとされます。「Massachusetts」とは、もともと「大きな丘の近く」(near the great hill)という意味だったといわれます。マサチューセッツ州といえば、ボストンを第一に挙げなければならないでしょう。その名前の由来です。チャールスタウン・コミュニティ(Charlestown Community)は「聖ボトルフの町」(St. Botolph’s town)として知られていたようですが、後に「ボストン」に改名されたといわれます。

1602年に最初のイギリス人入植者バーソロミュー・ゴスノルド(Bartholomew Gosnold)が到着したとき、この地域にはアルゴン族(Algonquian)が住んでいました。プリマス(Plymouth)は、1620年にメイフラワー号(Mayflower)で到着したピルグリム(Pilgrims)やピューリタン(Puritans)によって開拓されます。マサチューセッツ湾(Massachusetts Bay)植民地はマサチューセッツ・ベイ社によって設立・統治され、ピューリタン(Puritan)の入植に拍車をかけていきます。1643年にニューイングランド連合に加盟し、1652年にメイン州を獲得します。

Mayflower in Plymouth

マサチューセッツ州は、その歴史と文化が合衆国全体のものよりも古いという点が特徴的といえます。ピューリタンらが大英帝国(British Empire)の統治から逃れて新世界に定住し、最終的に信仰の自由を得ようとしました。1620年にメイフラワー協定(Mayflower Compact)や初期の法典である1641年の「自由の基盤」(Body of Liberties)などの文書により、政府は個人の表現や同意を保護する保証に基づいて統治すべきであるという概念が定められます。

こうした個人の自由の概念は、大英帝国の一部であった植民地の地位と衝突するようになります。アメリカ独立戦争はマサチューセッツ州で始まり、イギリスの植民地支配に対する最初の抵抗が始まりました。ボストン茶会事件(Boston Tea Party)に代表されるように、入植者たちが代表権のない課税に反対の声を上げ、叫んだのはマサチューセッツ州民であります。マサチューセッツ入植者の活動は他の人々に影響を与え、1775年のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)で「世界中で聞こえた銃声」“shot heard round the world”で最高潮に達します。

Battle of Lexington-Concord

州の南東部と中央部の入植地は1675年にフィリップ王の戦争 (King Philip’s War)を経験します。1684年に最初の勅許を失った後、1686年にニューイングランド自治領(Dominion of New England)の一部となります。1691年の2度目の勅許により、メイン州とプリマスを管轄することになります。1680年頃から、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

18世紀、マサチューセッツはイギリスの植民地政策に対する抵抗の中心地となります。独立後の1788年には合衆国憲法を批准した6番目の州となります。19世紀になると産業革命の最前線となり、織物工業で知られるようになります。

今日の州の主要産業はエレクトロニクス、ハイテク、通信技術です。多くの高等教育機関があることでも知られています。観光業は、特にケープコッド(Cape Cod)地方とバークシャー地方(Berkshires)が知られています。マサチューセッツ州は、この新しい国が農業経済から工業経済への転換を始めた先駆的な州であります。貿易によって富を得たフランシス・ローウェル (Francis C. Lowell)のような州の商人は、1812年の米英戦争で深刻な損失を被りますが、より安全な投資を模索していきます。その結果、繊維、ブーツ、機械の製造はマサチューセッツ州やロードアイランド州(Rhode Island)で始まり、やがて繁栄の基礎を築いていきます。北東部の州で工業化や都市化が進みます。1870 年代半ばまでに、マサチューセッツ州は合衆国で初めて、地方よりも町や都市に住む人の方が多い州となります。

Lowell Mills

19世紀を通じて、マサチューセッツ州は主要な製造業の中心地となりました。20世紀前半の南部との競争は大規模な経済衰退をもたらし、その結果、州全体の工場が閉鎖されていきました。しかし、第二次世界大戦と冷戦は、国防支出という連邦政府の巨額に依存する新たなハイテク産業を生み出します。他方、金融、教育、医療などのサービス活動も拡大し、ボストンを中心とした新たな経済が発展します。2004年、マサチューセッツ州は同性結婚を合法化(same-sex marriage)した最初の州となります。この法律は、個人が所属する重要な組織から特定の国民を排除することは個人の自治と法的平等の原則に反すると規定します。地域社会のニーズに配慮しながら、個人の自由を尊重しようとするマサチューセッツ州の長い闘いの結果、アメリカの特徴である民主主義の原則と資本主義の推進の連携が生まれるのです。

1840年代、均等となったヤンキー(Yankee)社会に、アイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)の惨状から逃れてきたローマ・カトリック教徒のアイルランド人の波が押し寄せます。同様に1860年代、カナダの農業貧困のため、ヤンキー起業家(Yankee entrepreneurs)が開拓した新しい工場システムの労働者として大量のフランス系カナダ人(French Canadians)がマサチューセッツ州に流れてきます。ヤンキーと移民の間で深刻な対立と敵意が生じましたが、19世紀の産業の繁栄はこれらの対立を改善するのに役立ちます。

17世紀には、土地に飢えたイギリス人入植者がアメリカ先住民を強制的に追い出し始め、また非常に多くの先住民がヨーロッパの病気で亡くなります。こうしたプロテスタントのイギリス人入植者、またはヤンキーといわれる人々は、200年以上にわたり支配的な人口となりました。1890年代までに、20世紀の最初の数十年間に至るまで、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、東ヨーロッパから新たな移民がやって来て、繁栄していた州の工場で働くようになりました。1920年までに人口の3分の2が移民か移民の子どもとなり、ヤンキースは明らかに少数派となっていきます。そういう状況で1924年に連邦移民法(Immigration National Act)が可決され、移民は大幅に削減されていきます。

Boston Tea Party

プリマス(Plymouth)は州都ボストンから車で一時間のところにある港町です。ここにメイフラワー号(Mayflower II)のレプリカが停泊しています。メイフラワー号は1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くてつらい大西洋の航海だったようです。

最初の移民の多くは聖教徒でした。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はプリマス開拓地(Plimoth Patuxet)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。プリマス開拓地に入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、鍛冶屋、洋服屋、パン屋さんなどいろいろです。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。次ぎのような会話が交わされます。

Plimoth Plantation

  観光客:当時は電気はありましたか?
  働く人:電気ってなんですか?
  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。
  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。 
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ここは1620年頃なのだな、、、」と合点がいきます。舞台が昔の開拓地であるという発想と働く人々の演技にえらく感心します。

ボストンはアメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたことから、この時期の史跡の一部は、ボストン国立歴史公園(Boston National History Park)の一部として保存されています。その多くは、「フリーダムトレイル」(Freedom Trail)というルートに沿って歩いて見て回ることができます。フリーダムトレイルは、地面に赤い線が引かれた約4kmのウォーキングコースです。ボストンコモン(Boston Common)から始まり、州議事堂(State Capitol)、パークストリート教会(Parksteet Church)、オールドサウス集会所(Old State House)、旧州議事堂(Old State Capitol)、ボストン虐殺事件跡地(Boston Massacre)、オールドノース教会(Old North Church)、チャールズタウン(Charlestown)のバンカーヒル記念塔(Bankerhill Monument)など、16の公式スポットを巡るのです。ファニエル・ホール(Faneuil Hall)という商店街や会議場や、近くのクインシー・マーケット(Quincy Market)は、ショッピング、食事、各種イベントが楽しめ、観光客や市民が集まる場所となっていて年間1800万人以上がここを訪れます。

Battle of Bunker Hill

ボストンには、著名な美術館もいくつかあります。ボストン美術館(Museum of Fine Arts)がその代表です。エジプト美術から現代美術まで45万点以上の収蔵作品を誇ります。特に浮世絵をはじめとする日本美術、中国美術は、西洋でも屈指のコレクションとして知られています。ボストン公共図書館(Boston Public Library)は、1848年創設の歴史をもち、アメリカ最古の公立図書館であり、人々に無料で公開されています。かつて小澤征爾が音楽監督をしていたボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)もここにあります。

ボストンはその文化的風土が高く評価されて、「アメリカのアテネ」(Athens of America)との名声を得ています。その理由の一つは学問的な名声にあります。ボストンの文化は大学から発している部分が大きいといわれます。ボストン都市圏内に50を超える単科・総合大学があり、教育・研究活動行っています。ボストンとケンブリッジ(Cambridge)だけでも、大学に通う学生は25万人を超えるといわれます。その中心はなんといってもハーヴァード大学(Harvard University)でありマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)といえましょう。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

注目

ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

Nat Turner Rebellion
Governor’s Palace, Williamsburg

南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

Monticello,VA

観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

Jefferson Memorial

1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

College of William & Mary

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネブラスカ州・The Good Life

注目

ネブラスカ州(Nebraska) のナンバープレートには「The Good Life」とあります。「楽しく住めるところ」といった感じですね。「Give a good life」「Beef State」「Cornhusker State」というフレーズのもあります。。「Cornhusker」 とは「トウモロコシの皮をむく人とか機械」という意味です。ネブラスカ州人の俗称です。プレートには、小麦や鳥、大平原と煙突のような岩山が描かれていて素敵なデザインです。

License Plate of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国のほぼ真ん中に位置しています。北はサウスダコタ(South Dakota)に、東はアイオワ(Iowa)とミズーリ(Missouri)に、西はワイオミング(Wyoming)とコロラドに、南はカンザス州に囲まれています。州都はオマハ(Omaha)。州の大部分は平坦な大平原が広がります。トウモロコシを中心とする穀物地帯です。牛肉や豚肉の生産でも知られています。

Map of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国中西部の州の一つであり、第一次世界大戦中、主に北部と西部の豊かな罠猟の国、および山岳地帯と太平洋地域の入植地と鉱山の辺境に移住する人々の中継地でした。19世紀の半ば、南北戦争(1861~1865年)後の鉄道の発展とそれに伴う移民により、ネブラスカ州の肥沃な土壌が耕され、その草原では牧畜産業が生まれました。その結果、同州は発足以来主要な食料生産国となります。

紀元前8000年頃には先史時代のさまざまな民族がこの地域に居住していたといわれます。この地域に住むネイティブ・アメリカンの部族には、東部と中央部にポーニー族(Pawnee)、オト族(Otho)、オマハ族(Omaha)、西部にオグララ族(Oglala)、スー族(Sioux)、アラパホ族(Arapaho)、コマンチ族(Comanche)が住んでいました。アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてフランスからこの領土を買い取ります。

ヨーロッパの探検家がネブラスカ州に到着する何世紀も前に、ネイティブ・アメリカンがこの地域に住んでいました。1854年の入植地開放に伴い、連邦政府はネブラスカ州北東部にオマハ族(Omaha)の保留地を設け、その後その一部はウィスコンシン州から避難してきたホーチャンク族(Ho-Chunk)の保留地となります。ミネソタ州のサンティー・スー族(Santee Sioux)の一部はネブラスカ州北東部の居留地への移住を余儀なくされます。オマハ・ホーチャンクおよびサンティー・スーの居留地は今も存在しています。さらに、アイオワ族(Iowa)、ソーク族(Sauk)およびフォックス族(Fox)のそれぞれの居留地が州の最南東の隅にあります。21 世紀初頭までに、州人口の約1パーセントがネイティブ アメリカンで構成され、オマハ(Omaha)とリンカーン(Lincoln)に住んでいました。

Chimney Rock

1804年、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がミズーリ川(Missouri River)のネブラスカ側を訪れます。1854年のカンザス・ネブラスカ法によりネブラスカ準州の一部となります。ネブラスカ州は1867年に37番目の州として連邦に加盟します。その後まもなく人口が増加し、開拓時代のインディアンの抵抗がなくなると、入植地はネブラスカ州の細長く伸びたパンハンドル(panhandle)にまで広がります。

ネブラスカ州には国東部からの白人入植者に加えて、19 世紀後半に多数のヨーロッパ人移民がネブラスカ州に定住しました。最大の移民グループはドイツ人で、1890年には72,000人を数えました。スカンジナビア諸国(Scandinavia)、特にスウェーデン、ボヘミア(Bohemia)、ブリテン諸島(British Isles)からの移民、そしてアメリカに移住する前に最初にロシアに移住した別の異なるドイツ人グループもネブラスカ州に定住しました。

Old Gas Station

ボヘミア、ドイツ、アイルランドからの多数の人々はローマカトリック教徒(Roman Catholics)でした。ドイツとスカンジナビア出身のルーテル派の教徒、そしてドイツ系ロシア人移民の中のメノナイト(Mennonites)は、ネブラスカ州の宗教的や世俗的な生活に多様性をもたらしていきます。非英語を話すグループの言語的アイデンティティは世代ごとに薄れてきましたが、彼らの多様な文化遺産は今も生き残っています。

川はネブラスカ州の地理と居住地にとって重要でした。ネブラスカ州人の大多数はミズーリ川とプラット川(Platte River)の近くに住んでおり、州の大部分は人口が少ないです。ミズーリ川は、19世紀初頭、ミシシッピ州西部へ向かう主要幹線道路であり、プラット川はネブラスカ州の歴史においても重要な役割を果たしてきました。実際、州の名前はオトインディアンOto Indianの言葉で「平らな水」(Flat Water)という意味のネブラスカ(Nebrathka)(に由来しています。

Corn Field

20世紀に入ると、短期間ではありましたがポピュリスト運動という政治変革が起こります。改革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民による政治を目指す運動のことです。1937年には国内唯一の一院制議会を設置したのもネブラスカ州です。州の大部分は農業で、食品加工や機械産業が盛んです。主な鉱物資源は石油で、リンカーン(Lincoln) のほか、オマハが州の文化・産業の中心地となっています。

ネブラスカに関するエピソードがあります。学校の教師らとでネブラスカへ行ったとき、入国手続きをしたデトロイト空港でのことです。家内の番になりまして審査官との間で次のような会話が交わされました。

 審査官 「入国の目的は?」
 家内 「観光です」
 審査官 「これからどこへ行くのか?」
 家内 「ネブラスカです」
 審査官(けげんな表情で)「ネブラスカのどこで観光するのか?」
 家内 「リンカーンです」
 審査官 「観光でネブラスカへ行く日本人に会ったのはあんたが初めてだ、、、」

デトロイト経由の乗客の中で、観光でやってくる日本人の99%はニューヨークとかボストンとかフロリダへ行くのです。審査官も驚いたのでしょう。「ネブラスカに観光へ」には審査官は苦笑いしていましたね。

ネブラスカの西部にはチムニー・ロック(Chimney Rock)など巨大な岩で知られています。このあたりはでは沢山の恐竜が発掘されています。きわめて保存状態が良く恐竜の骨格がはっきりしています。それを展示しているのがネブラスカ大学リンカーン校(University of Nebraska-Lincoln)です。ここの恐竜博物館(Dinosaur Museum)は圧巻ものです。大勢の児童生徒が社会勉強であるフィールドトリップにあの黄色い車体のスクールバスでやってきます。

Soy Bean Field

ネブラスカ大学にDlwyne Harnischという教授がいました。兵庫教育大学にも客員教授として6か月間招いたことがあります。教育統計学の専門で多くの日本人研究者を暖かく招いてくれました。。ネブラスカ大学のフットボールチームはBig Ten Conferenceで何度も優勝した強豪です。そのときのコーチはのちにレジェンドと呼ばれたトム・オズボーン(Tom Osborne)で255勝49敗という戦績を残します。後にネブラスカ州からの共和党の連邦下院議員となります。
(2024年3月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

注目

ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューメキシコ州・Land of Enchantment

注目

ニューメキシコ州(New Mexico)のナンバープレートには「Land of Enchantment」(魅了してやまない地)とあります。晴天に恵まれた気候と風光明媚な観光スポットが観光客を惹きつけます。山々や高原にはバケーション・リゾート(Vacation resorts)がたくさんあります。カールスバッド洞窟(Carlsbad Caverns)やホワイトサンズ国立公園(White Sands National Parks)では、ユニークな自然の驚異が見られます。史跡や手つかずの自然が広がる地域は、他の国立公園地域や州立公園、国定記念物に保存されています。

License Plate of New Mexico

この地域への人類の定住は、おそらく1万年前に及ぶといわれます。15世紀にナバホ族(Navajo)とアパッチ族(Apache)がやってくる前に、プエブロ(Pueblo)インディアンの農耕文明が灌漑システムや断崖住居を発展させます。その遺跡が州内の至る所に残っています。16世紀にメキシコからのスペイン人がこの地域をスペイン領とし、1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vazquez de Coronado)が探検してきました。最初の入植は1610年のサンタフェ(Santa Fe)だったようです。

Map of New Mexico

ニューメキシコ州は最も若い州の1つですが、米国西部で最も古い白人入植地です。ヴァジニア州(Virginia)ジェームスタウン(Jamestown)の設立から3年後の1610年、スペイン人入植者がサンタフェを設立します。スペイン人は16世紀に征服したメキシコから北に来て、リオグランデ川(Rio Grande)の北の土地を「ヌエボ メキシコ」(Nuevo Mexico)、またはニューメキシコ(New Mexico)と呼びました。「メキシコ」という呼び名は、スペイン人が到着したときにそこを支配していたアステカ族(Aztec)の別名である「メキシカ」(Mexica)に由来しています。

1600年代にはキリスト教の宣教師が活躍します。1821年にメキシコの一部となり、米墨戦争(Mexican-American War) 終結後の1848年にアメリカに割譲されます。ニューメキシコ準州は1850年に連邦議会によって設立され、1912年にアメリカの47番目の州となり、フロンティアのイメージを保持していきます。第二次世界大戦は経済と社会の変化に拍車をかけ、ロスアラモス(Los Alamos)を含む研究施設ができます。今日の経済は原材料の輸出と連邦政府の支出に大きく依存しており、石油と天然ガスも重要となっています。観光業はニューメキシコの主要産業となっています。

Santa Fe

ニューメキシコを訪れた人の多くは、再びそこに定住し、ネイティブアメリカン、ヒスパニック系(Hispanic)アメリカ人、アングロアメリカンといった多様な人口構成となり、3つの文化が融合しています。この州は、英語とスペイン語の2つの公用語がある唯一の州です。しかし、この巨大な州には依然として人口がまばらです。面積では50州中5位ですが、人口密度では45位にすぎません。

平野の大部分は牛や羊の放牧に使用されています。国土の約5分の1が森林となっています。水が利用できる場所では、ニューメキシコ州の支えて非常に肥沃な土壌がトウモロコシや小麦などの生産を支えています。しかし、重要なダムや灌漑プロジェクトが完了したにもかかわらず、水の保全は依然として州にとって大きな問題となっています。

Los Alamos

この州の最大の都市はアルバカーキー(Albuquerque)です。今では伝説的となりましたが、かつてビル・ゲイツ(Bill Gates) がパソコンのOSを開発した町です。現在、人口の45%がヒスパニックです。加えて、今でもネイティブ・アメリカンが全米で第三位を占める位、多く住んでいます。ですが面積からするとアメリカで最も人口密度が低い州といわれています。州都は、かつてメキシコの総督府が置かれていたサンタ・フェです。歴史・芸術・文化の豊かな州都です。観光はサンタ・フェの経済を支えています。温暖な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれています。

芸術の町サンタフェには、ジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。アメリカを代表する画家の一人です。彼女は高校時代をウィスコンシンのマディソン(Madison)で育ち、その後シカゴとニューヨーク市で美術を学ます。そこで写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と結婚しました。1920年代初頭までに、『Black Iris』(1926年)などに代表される、非常に個性的な画風を示します。

Georgia Okeefe

オキーフの主題は、動物の頭蓋骨やその他の骨、花や植物の器官、貝殻、岩、山、その他の自然の形態の拡大図などでした。遠近感のない空間を背景にした彼女の神秘的で暗示的な骨や花のイメージは、エロティック、心理的、象徴的なさまざまな解釈にインスピレーションを与えてきました。彼女の後期の作品は、1946年に夫の死後に移住したニューメキシコ州の澄んだ空と砂漠の風景を称賛しています。批評家からは、彼女は最も独創的で重要なアメリカの芸術家の一人とみなされており、彼女の作品は一般大衆の間でも非常に人気があります。

Museum of Art

サンタフェのダウンタウンの歴史地区、特に総督府に隣接するプラザ(Plaza)にはメキシカンフードの人気レストランが立ち並んでいます。町並みは日干しの土で作られた建築物アドービ(Adobe)です。砂、砂質粘土とわらなどの素材でつくられる建材です。熱を吸収してもゆっくりと放出するので建物の中は涼しく、ニューメキシコのような暑くて乾いた地に適しているといわれています。ニューメキシコ州は、そびえ立つ山々、赤い岩、不毛の砂漠が広がる風光明媚な高地です。その自然の美しさの中に、歴史的なアメリカ先住民の村、スペインの伝道所、そして初期の祖先プエブロ族が残した素晴らしい崖の住居があります。

Downtown Santa Fe

ナバホ、プエブロ、アッパチインディアンが住む居留地で作られる民芸作品、各地にある大小の博物館の展示物、そして大自然が観光客を魅了しています。ネイティブ・アメリカンとメキシコの文化と芸術を最も身近に接することができる州といえましょう。これらの観光スポットは観光産業の繁栄を支え、この州の「魅惑の国」というニックネームを不動のものとしています。

ニューメキシコは日本にとって忘れることのできない州です。砂漠のど真ん中にある町、ロスアラモスは巨大な研究都市です。国防総省が武器を開発しています。ここで製造された原子爆弾(Little Boy)が博物館に展示されています。複雑な思いのする場所です。私はこれまで二度ニューメキシコ州を訪れました。ウィスコンシンから家族を呼んで再会した所でもあります。
(投稿日時 2024年3月2日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州サウスカロライナ州・Smiling Faces, Beautiful Places

注目

サウスカロライナ州(South Carolina)のナンバープレートには「Smiling Faces, Beautiful Places」とあります。このモットーは他には見られないほど輝いて珍しいです。北部でノースカロライナ州、南部と西部でサバンナ川(Savannah River)を境に位置するジョージア州、及び東部で大西洋と接している、いわば南部の州です。州都で最大の都市はコロンビア(Columbia)です。サウスカロライナ州は温暖な気候に恵まれています。イギリスの植民地下の影響が、建物などにもその面影があちこちに残っています。ウスカロライナ州は広い海岸平野と、内陸のなだらかな山麓地帯(piedmont)から成ります。

License Plate of South Carolina

17世紀後半に白人ヨーロッパ人がこの地域に定住するまで、先住民は現在のサウスカロライナ州に何千年も住んでいました。ヨーロッパとの接触後、人口は急速に減少しましたが、数千人のアメリカ先住民が今でも州内に住んでいます。カトーバ族(Catawba)とピーディー族(Pee Dee)は、サウスカロライナ州のアメリカ先住民グループの中で最大ではありませんが、連邦と州の両方から認められています。カトーバ族は、サウスカロライナ州の北中部に居留地を有する唯一のネイティブ・アメリカン・グループです。

1521年にサウスカロライナ州を最初に訪れたヨーロッパ人は、イスパニョーラ島(Hispaniola)出身のスペイン人探検家サント・ドミンゴ(Santo Domingo)でした。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイヨン(Lucas Vásquez de Ayllo)は、1526年にサウスカロライナ州に最初の白人ヨーロッパ人入植地と考えられる拠点を定めますが、このスペイン植民地は数カ月以内に崩壊します。ジャン・リボー(Jean Ribaut)率いるフランスのプロテスタントは、1562年にポート・ロイヤル(Port Royal)の地域を占領しようと試みましたが失敗します。数年後の1566年にスペイン人が戻り、近くのパリス島(Parris Island)にチャールズフォート-サンタエレナ(CharlesFort-Santa Elena)を建設しました。ここは1587年まではスペインの重要な拠点でした。チャールズ・フォート-サンタエレナ遺跡は、フランス人の入植地の考古学的遺跡が含まれていて、1562年に定住し、翌年に放棄されます。後のスペインの遺跡には、放棄されたチャールズ要塞の遺跡の上に直接建てられた砦が含まれています。この砦と他の近くの建造物非常に良い保存状態なので、初期のフランスとスペインの植民地生活を理解する上での重要性から、2001年に国定歴史建造物に指定されます。

Charlesfort SantaElena

1665年、初代クラレンドン伯爵(Clarendon)のエドワード・ハイド(Edward Hyde) と他の7人のイギリス貴族は、チャールズ2世(Charles II)から緯度29度から36度30分の広大な領土にカロライナ植民地を設立するという勅許状を受け取ります。これら8人の譲受人はカロライナの領主所有者として知られ、土地を自由に処分することができました。イギリス人は1670年にこの地域で最初の定住地をアルベマール ポイント(Albemarle Point)地域のアシュリー川(Ashley River)西岸に作りました。10年後、政府とほとんどの住民はチャールズ・タウン(Charles Town)に建設され、それが今日のチャールストン(Charleston)となります。

植民地は次第に成長し、1720年までに人口は約19,000人になり、ほぼ海岸沿いに定住しました。先住民との貿易と鹿皮の輸出が主な収入源であり、1710年以降は海軍の物資であるテレビン油、タール、その他の松製品が盛んに輸出されました。

Map of South Carolina

1729年、植民地は北と南の2つの州に分割されました。ジョージア州は1731年に南部から切り離されて設立されます。王室統治下でサウスカロライナ州は繁栄し、アメリカと藍色の染料であるインディゴ(indigo)の輸出がその富の増大に貢献しました。この貿易の成功に基づいて、チャールストンは黄金時代を迎えます。次第に洗練された文化的な都市として認識されるようになりました。

ペンシルベニア州から陸路に流入したスコッチ系アイルランド人(Scotish Irelander)の入植者が1760年以降に内陸部で急増し、その後の政治的代表の要求により、海岸側のローカントリー(Low Country)のプランテーション所有者と内陸側のアップカントリー(Up Country)の小規模農民との間で紛争が発生しました。アメリカ独立戦争中にイギリス軍がチャールストンを占領しますが、サウスカロライナ州では、主にイギリスからの自由を要求する愛国者と王室を支持する忠誠派の間の内戦が起こりました。アメリカの2つの大きな勝利は、キングス・マウンテン(Kings Mountain)とカウペンズ(Cowpens)での戦いです。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて綿花プランテーションが拡大したため、数万人のアフリカ人が奴隷としてこの若い地に運ばれてきます。南北戦争の後、特定の地域の解放された奴隷は自分たちが働いていた土地を所有することができました。それによって何世代にもわたって自分たちの伝統とコミュニティを定着させることができました。

Brookgreen Gardens

サウスカロライナ州の海の島々(Sea Islands)の大部分は20世紀になっても地元のアフリカ系アメリカ人の手に残り、21世紀初頭になっても黒海の島民(Black Sea Islanders)の中には英語から派生したガラ語(Gullah)を話すことができる人もいました。ガラ語とは、プランテーション時代にまで遡る西アフリカの言語です。19 世紀後半には、サウスカロライナ州の総人口の約5分の3が黒人でしたが、特に20世紀の大移住の間、大部分が都市化された州への北方への大量の移住により、この割合は大幅に減少しました。20世紀後半以来、アフリカ系アメリカ人はサウスカロライナ州の人口の約10分の3を占めています。

Fort Sumter

アメリカ独立戦争の間、いくつかの軍事作戦がサウスカロライナで戦われました。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つがこのサウスカロライナ州となっています。1788年にサウスカロライナは合衆国憲法を批准した8番目の州となり、1860年には連邦から離脱した最初の州となりました。1860年に共和党のリンカーンが大統領となります。そして黒人差別の撤廃政策などを訴えます。それに反対したサウスカロライナ州は連邦から離脱し、アメリカ連合国(Confederate States of America: CSA)を結成します。これに賛同した州はミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州です。そして南北戦争(Civil War)が始まります。

南北戦争の最初の行動は、CSA軍によるサムター要塞(Fort Sumter)攻撃で起こりました。4年間続いた戦争は合衆国の北軍の勝利となります。この戦争では、両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70~90万人に上るとされています。これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数といわれます。連合国は1868年に連邦に再加盟します。しかし、1895年の憲法改正で州のほぼすべての黒人の権利が剥奪され、人種隔離の厳格な政策が1960年代半ばまで続きました。サウスカロライナは合衆国の繊維製造業のリーダーであり、大規模な産業基盤を持っています。観光業は第2位の産業となっています。農業も経済に貢献しており、主な作物はタバコ、大豆、綿花などです。

Charleston


南部の人種差別の強い州ではありましたが、最近は海外企業の招致に積極的で経済発展に著しい面をみせ、人口の増加が著しい州となっています。チャールストンは聖なる市(The Holy City)としても知られています。当初の13植民地の中で、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市という歴史があります。そのためでしょうか、合衆国南部で最古のユダヤ教正統派のシナゴーグ(synagogue)(会堂)があります。チャールストンには一大海軍基地もあります。

「Smiling Faces, Beautiful Places」というライセンスプレートのフレーズは珍しいです。この言葉だけでどの州の車かはわからないですね。椰子の木が真ん中にあるので、南部の州だろうとは想像できます。
(投稿日時 2024年2月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

注目

ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

Kentucky Derby

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

Country Road

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

Stephen Foster

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州オハイオ州・Buckeye State

注目

オハイオ州(Ohio)のナンバープレートに関する話題です。州の大都市デイトン(Dayton)は、ライト兄弟(Wright Brothers)が初めて有人動力飛行機を組み立てたところで知られています。そのために、ナンバープレートには「Birthplace of Aviation」(飛行機発祥の地)とあります。別名「バッカイヤ州」(Buckeye)とも呼ばれています。

Ohio License Plate

初期のヨーロッパ人探検家たちは、この地域にマイアミ族(Miami)、ショーニー族(Shawnee)、その他のインディアンたちが住んでいるのを発見します。フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)の後、この地域はフランスからイギリスに割譲されます。やがて1803年に17番目の州となります。19世紀には、その立地、輸送施設、石炭、石油、天然ガスなどの天然資源により、最初の大工業州のひとつとなります。製造業が最も重要な経済活動ですが、州の3分の2近くは依然として農地となっています。

Map of Ohio

ところで、「Buckeye」とは州の木のことです。針葉樹の一種で、なんとなく木形といい大きさといい、北海道に多いカシワに似たところがあります。ドングリも秋になると沢山落ちます。州都で最大の都市はコロンバス(Columbus)です。他の大きな町はクリーブランド(Cleveland)、デイトン、トレド(Toledo), シンシナティ(Cincinnati)です。オハイオ州の経済は、工業製品などの製造業です。オハイオは、五大湖の一つエリー湖(Lake Erie)に面して、その岸は500キロに及びます。この地の利を使って製造業や海運業が盛んです。東はペンシルベニア、南はケンタッキー、イリノイ、西はミシガンに接しています。

オハイオ州の人口動態についてです。1830年以前は、ペンシルベニア州(Pennsylvania)のドイツ人やスイス人(Swiss)が北西部の地域から東中部地域にやって来ました。1830年以降、ドイツとアイルランドから直接入植者がやって来ます。多くのアイルランド人がオハイオ運河(Ohio canals)で働きに来て定住し、鉄道が建設されるとアイルランド人とドイツ人の労働者が定住者として残っていきます。北西部の湿地帯から排水を行ったドイツ人は、その結果生じた農地を開発するために残ります。

1830 年以降、南アイルランドからのローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)の移民がクリーブランド(Cleveland)、コロンバス(Columbus)、シンシナティなどの都市に定住し、1850 年までに外国生まれの住民の中でドイツ人に次ぐ数となります。しかし、ドイツ人移民とアイルランド人移民は両方とも広範囲に分散し、ランカスター(Lancaster)といった小さなコミュニティに定住することも多く、そこで都市を設立したペンシルベニアドイツ人(Pennsylvania Germans)に加わっていきます。

Ohio State University

19世紀初頭にには、ウェールズ人(Welsh)が、オハイオ州のいくつかの地域で鉱物資源を開発するために到着します。ウェールズ人は、特に南東部のジャクソン郡(Jackson County)に多く定住します。実際、ジャクソン郡は長い間ウェールズ文化との結びつきがあり、多くのコミュニティでウェールズ語が三世代に渡って存続していきます。

このように1850年では、州の主な人口はスコットランド系アイルランド人でしたが、ドイツ人とイギリス人のコミュニティも重要でした。しかし、1870 年までに、オハイオ州の総人口の14 パーセント、クリーブランドの総人口の 40 パーセントが外国生まれだったといわれます。やがて、それぞれの移民グループが独自の新聞、クラブ、社交生活、教会を設立するにつれて、初期のオハイオ州北部のニューイングランドの性格は変化していきます。

オハイオ州の大学はどこも優れた教育や研究をおこなっています。州都コロンバスにはオハイオ州立大学(Ohio State University)があります。この州の学術研究の中心的な大学です。多くの人材を輩出しています。宇宙飛行士のジョン・グレン(John Glenn)、ニール・アームストロング(Neil Armstrong) もオハイオの出身です。中西部には「Big Ten」という大きな大学の連合があります。ウィスコンシンやミシンガン、イリノイ、ミネソタなどの大学とともにBig Tenの一つとして、オハイオ州立大学は研究開発を競っています。スポーツもまた然りです。

Apollo 11 Crews

以前どこかのブログでノースカロライナ(North Carolina)を紹介したとき、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナと紹介しました。飛行機の発明と飛行については、ノースカロライナとオハイオとの論争がありました。これを紹介することとします。

1世紀以上前、オハイオ州のライト兄弟は最初の動力付き飛行機を製造し、世界を変えたいわれます。それ以来、オハイオ州は数多くの先駆的な飛行士の発祥の地であり、数え切れないほどの航空発明の本拠地となってきました。

しかし、1903年12月17日にライト兄弟がノースカロライナNorth Carolinaで初めて飛行を行って以来、ノースカロライナは航空発祥の地であると主張したのです。ノースカロライナは「ファースト・イン・フライト」(First in Flight)をのフレーズを導入し、そう主張したのです。これが州のナンバープレートとなります。オハイオ州は数年後に「航空発祥の地」(Birthplace of Aviation)というプレートを導入し、これに対抗します。ライト兄弟はデイトン出身で、その飛行機を自分たちの自転車屋で製造したのです。議会は2003年にオハイオ州がノースカロライナ上空の航空発祥の地であると宣言し、この論争に終止符を打ちます。造った所と飛ばした所が違うというのが両方の主張のようです。どちらが元祖かは、いろいろな話題で論争しあいますが、このようなライト兄弟の飛行話も可笑味があります。

Birthplace of Aviation

オハイオ州から7人の共和党員がアメリカ合衆国大統領に選ばれており、「大統領の母」というニックネームはヴァジニア州と分け合うものです。南北戦争では、功績の高い北軍の3将軍がオハイオ州から出ています。後に大統領となったユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、ウィリアム・シャーマン(William Sherman)、フィリップ・シェリダン(Philip Sheridan)という軍人です。

オハイオ州は産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」としても知られています。選挙の度に共和党・民主党両党に勝利者が変動する「スイング・ステート」(Swing State)(振り子の州)として知られ、1964年から2016年までオハイオ州で勝利した者が大統領に当選しています。それ故に「オハイオ州を制するものが大統領選を制す」といわれるほどです。ただし、2020年はトランプがオハイオ州で勝利したものの全米では民主党のジョー・バイデンが勝利し大統領に当選しました。過去に遡り、1960年の選挙では、民主党のジョン・ケネディ(John F. Kennedy)は、オハイオ州で共和党のリチャード・ニクソン(Richard Nixon)破れながらも当選した大統領となります。まさに(振り子の州)の呼び名に相応しい州です。
(投稿日時 2024年2月15日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十三 ワシントン州 「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)

この小説の作家はグッターソン(David Guterson)というアメリカ人です。これを今回は紹介します。小説の舞台はワシントン州北西部の小さな湾のジュアン・デ・フカ(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶ、人口5千の移民の島サンペデロ島(San Piedro)です。1954年12月、日系アメリカ人漁師のカブオ・ミヤモトは、同僚カール・ハイン(Carl Heine)を殺害したとして第一級殺人容疑で罪に問われます。カールは強い絆で結ばれる人々の中で慕われていた漁師でありました。カールの死体は漁網の中で発見され、彼の腕時計は午後1時47分を指していました。島全体を包む吹雪の中、戦争後の反日感情が広がっている時代です。

Ishmael & Hatsue

裁判を取材するのは、元海兵隊軍人であるイシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は、地元新聞サンペデロレビュー紙(San Piedro Review)の記者です。戦争中は激戦地タラワ島(Tarawa Island)で同胞の死に遭遇しています。幼い頃、イシュマエルは、高校時代にハツエという日系女性と同級で、ヒマラヤ杉の洞で愛を育くみます。青い目のイシュマエルと黒髪の美しいハツエは、密かに情を交わす関係にあったのです。しかし、二人の関係は太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれてしまいます。

検察側は、刑事のモーガン(Art Moran)と検察官のフックス(Alvin Hooks)です。カブオを擁護するのはグッダモドソン(Nels Gudmondsson)という老練弁護士です。何人かの証人の中でカブオが犯人であると主張するのがカールの母親のエッタ(Etta) で、人種差別や偏見の強い人物です。

裁判では、他に検死官(coroner)のワリー(Horace Whaley)やカールにイチゴを売る老人のジャーゲンセン(Ole Jurgensen)らです。裁判ではイチゴ畑が争点ともなります。この畑はもともとカールが持ち主でした。この土地に住んでいたのはミヤモトという一家で、ハイン家の人々にイチゴを売っていました。カブオとカールは幼馴染みでした。カブオの父親は、広いイチゴ畑を購入したいとハイン家に持ちかけます。しかし、エッタは反対しますが、カールは売ることに賛成します。支払いは10年間払いというものでした。最後の支払いが近づいた頃、真珠湾攻撃により大戦が勃発します。島に住んでいた日系人は強制収容所行きとなります。

1944年、カールの父親は心臓麻痺で亡くなります。エッタはジャーゲンセンにいちご畑を売却します。カブオが収容所から解放されて帰ると、エッタが土地を他人に売ったことを知り、酷く怒ります。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れると、カブオが土地を買い戻そうとする前に、カールは土地を購入したいと申し出ていたのです。裁判ではこうした土地を巡る家族や住民の間の確執が、カブオに対する殺人の容疑の背景となります

記者のイシュマエルは、カブオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。しかし、カブオの妻であり彼自身の幼馴染のハツエとの間の過去の恋愛関係に対する感傷の想いが断ち切れないでいます。また、日系アメリカ人への厳しい偏見と大戦という厳しい出来事によって、成就できなかった自分達の関係についてイシュマエル自身は心が整理できないでいます。彼がつかんだカブオが犯人でないという証拠をどのように扱うべきかで悩んでいたのです。

イシュマエルはポイントホワイト (Point White) という灯台付近で、午前1時42分頃、カールが釣りをしていたこと、丁度その頃、付近に大きな貨物船が通りかかったことをつかみます。カールの時計が指していたのは1時47分でした。カールの小舟が貨物船の航跡を受けて沈没したことを知ったのです。カールは小舟のマストに登り、灯を降ろそうとしたとき、貨物船の波で倒れてきたマストに頭を打ち、海に投げ出されたことも判明します。幼馴染のハツエにふられたイシュマエルは、カブオへの容疑が晴れる証拠をつかんでいたのです。

カブオは無罪として釈放されます。カブオと結婚していたハツエは、昔の恋人だったイシュマエルに、無実の証言をしてくれたことに感謝するのです。イシュマエルは、自分の不可解な感情が無神論者であったためだと考えるのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十三 ペンシルベニア州–その1 Amishとは

ペンシルベニア州といえば、キリスト教との一派であるアーミッシュ(Amish)と呼ばれる人々の文化と生活で知られる州です。これから3回に渡ってアーミッシュの文化や生き方の特徴を考えていきます。

Amish Family

アーミッシュとは、キリスト教の再洗礼派(アナバプテスト–Anabaptist)と呼ばれる人々です。成人してから自らの意志で洗礼を受けることを特徴とする一派です。こうしたキリスト教徒はメノナイト(Mennonite)とも呼ばれています。政教分離を唱え、政治的な宣誓や戦争を拒否します。良心的兵役拒否という姿勢です。

ヨーロッパの再洗礼派の教徒は、カトリック教会はルーテル教会などのプロテスタント教会から、異端とか熱狂主義者と呼ばれ非難され、反宗教改革的な存在として迫害を受けます。再洗礼派が次第に教会本来の純粋さを失ってゆくとともに、17世紀後半にスイス人のヤコブ・アマン(Jakob Ammann)がメノナイトを離れアーミッシュと称していきます。アマンは当時の正統的なキリスト教会やその教えに対して異議を唱え、迫害を受けます。彼とその信奉者は、フランス北部のアルザス(Alsace) やドイツ、オランダなどで布教活動を始めます。教会から異端視され迫害を受けていきます。

迫害が止まないために、18世紀の前半に信徒達はアメリカ大陸に移住を開始します。最初に植民地として選んだのが東部ペンシルバニア州です。その後オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ウィスコンシン州、ネブラスカ州などの中西部に移動し入植します。アーミッシュは、ドイツ系移民で、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)とも呼ばれています。ダッチ(Dutch)は、オランダ語のことではなく、ドイツ語の”Deutsch”に由来し、古くはドイツ人のことを指しました。

ナーンバープレート その四十二 ペンシルベニア州–Keystone State

ペンシルベニア州(Pennsylvania)の名前の由来から始めます。この地にイギリスからやってきた商人でクエーカー教徒(Quaker)であったWilliam Pennという人がいました。やがて貿易などで成功したPennにイギリスは領地を分け与えます。そして植民地とします。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「Sylvania」にPennをつけたというわけです。

Map of Pennsylvania


その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されていきますが、Pennらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書き、イギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えとなります。

ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。エリーやオンタリオ湖に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形は横長の州です。

州都はハリスバーグ(Harrisburg)。州の西には重要な河港を持つピッツバーグ市(Pittsburgh)、東には自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィア市(Philadelphia)があります。フィラデルフィアは独立後、1790年から1800年まで連邦政府の首都となります。南北戦争の激戦地でリンカーン大統領(Abraham Lincoln)の演説で有名はゲティスバーグ(Gettysburg)など史跡が多い州でもあります。ピッツバーグ一帯や東部のベツレヘム(Bethlehem)一帯には多くの製鉄都市があり、鉄鋼、機械、化学、繊維、食品などの製造業が発達しています。製鉄を支えるのはアパラチア(Appalachia)炭田で、全米の無煙炭の大部分を産出しています。

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、ペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、アイビーリーグ(Ivy League) の一つペンシルベニア大学などです。ペンシルベニア大学は1765年にアメリカで最初の医学部を設置します。今も医学や公衆衛生の分野でアメリカの開拓者的存在として知られています。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra) はこの州にあります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その三十八 ミネソタ州–10,000 Lakes

カナダと国境を接し、ウィスコンシン州の西隣に位置するのがミネソタ州(Minnesota) です。州都はセントポール(St. Paul)。その隣は最も大きな都市、ミネアポリス(Minneapolis)とです。この二つは隣合わせなので「双子の都市」(Twin Cities)と呼ばれています。

ミネソタ州の人口ですが、白人が88%を占めます。先祖は北欧やヨーロッパの移民のようです。ミネソタの風土や気候が似ていたからでしょう。あまりにも寒いところなので、有色人は少ないように思われがちですが、ラオス/タイ/ベトナムから多くの難民を受け入れている州としても知られています。これらの人々はアメリカではMon(モン族)と呼ばれています。

双子の都市ではプロ野球球団のMinnesota Twinsがあります。フットボールではMinnesota Vikingsが知られています。精密機器などの産業でも有名です。小麦や大麦など穀物の集散地であります。穀物市場を席巻するカーギル(Cargill)や3Mなどの本社もあります。カーギルは人口衛星を使い全世界の穀物の成育や生産状況、消費の情報を基に経営戦略を練り、穀物メジャーとも呼ばれています。

この州のナンバープレートには「10,000 Lakes」と印字されています。無数の湖で知られています。昔、氷河がミネソタ全体を覆っていたようです。氷河はゆっくり移動しますが、そのとき大地を削っていきます。それが基で湖が出来たというわけです。あまりに沢山の湖があるので、目的地に着くには大分迂回しなければならないということを友人から聞いたことがあります。湖が多いので蚊の大群に見舞われます。ミネソタ州の鳥(state bird)は蚊だ、というジョークもあります。

ミネソタ州といえば、ポール・バニヤン(Paul Bunyan)という巨人です。アメリカ合衆国やカナダの民話に出てくる伝説上の怪物です、西部開拓時代の怪力無双のきこりで、ベイブという大きな雄牛や愉快な仲間数人を連れて、アメリカ全土の木を伐って歩き、五大湖やミシシッピ川をつくったという民話があります。開拓民が苦しい生活から生み出した話です。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その三十五 ミシガン州–Great Lake State

ミシガン州(Michigan)のナンバープレートには「Great Lake State」と印字されています。州名は、チペワ(Chippewa)インディアン語で「大きな湖」から由来します。五大湖を指しています。ミシガンは北はカナダと国境を接しスペリオル湖(Lake Superior)・ヒューロン湖(Lake Huron)を抱え、西はウィスコンシン州、南はインディアナ州とオハイオ州に接しています。州都はランシング(Lansing)で最大の都市はご存じデトロイト(Detroit)です。デトロイト国際空港は6本の滑走路を有し、Delta航空の一大ハブ空港となっています。

Map of Michigan

ミシガンは林業が盛んで、そのために馬車の生産で有名となります。林業に変わって自動車が登場し、1908年にフォード(Henry Ford)が大衆車の大規模生産に乗り出します。その中心はなっといってもデトロイトでしょう。五大湖のうちの4つに囲まれるという地の利が自動車産業を支えてきました。ゼネラルモーターズ(GM)、フォード、(Chrysler(Chrisler))のビッグスリーの本社がデトロイトとその近郊にあります。そういえば、高速道路(US Highway)には自動運転車専用レーンもあります。

その他の産業も盛んです。アムウェイ(Amway)、穀物のケロッグ(Kellogg)、ダウケミカル(Dow Chemical)、ワールプール(Whirlpool)などもここにあります。研究開発はミシガン大学(University of Michigan)、ミシガン州立大学(Michigan State University)、ウェイン州立大学(Wayne State University)が担っています。

無人自動車専用レーン

ミシガンは一大レクリエーションの州でもあるのをご存じでしょうか。2005年の統計によるとミシガンはカリフォルニア、フロリダに続き全米で第三番目の観光客を集めた州といわれるほど自然に恵まれたところです。65,000の湖や沼が広がるというのですから、レクリエーション客を惹き付ける理由もうなずけます。4つの湖の側はどこも州立公園や観光地といってよいほどです。いくつかを紹介しましょう。

カナダの国境近くにはマキナック島(Mackinac Island)があります。夏はキャンプ、リゾート、、なんでも楽しめます。この島は車禁止。移動手段は「リムジン馬車」か自転車となっています。コロニアルスタイルの建物が並びます。生ガキとキャビア、魚料理の食事もいいです。のんびりと時間が流れるようなところです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その二十三 テキサス州–The Lone Star State

テキサス(Texas) はアメリカでは第二の面積を占める南部の大きな州です。1836年にテキサス共和国として一方的にメキシコから独立を宣言しますが、同年メキシコ軍の攻撃により敗れます。入植者がたてこもって抵抗した拠点がサンアントニオに(San Antonio) あるアラモ砦(The Alamo)。デビー・クロケット(Davy Crockett)、ウイリアム・トラビス( William Travis)など指導者の名前が浮かんできます。映画”The Alamo”も作られました。

現在の州都はオースチン(Austin) ですが、近年特に人気が高い町がリバー・ウォーク(River Walk)のあるサンアントニオです。リバー・ウォークは小さな河の両岸にレストランが並んでいます。散歩、船下りにも楽しいところです。今や年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても知られています。研究者を集める多くの学会もここで開かれています。

ブッシュ(George Bush)大統領親子はテキサスの出身です。メキシコ湾や内陸部に油田が多く、エクソンモービルなどの石油会社の本社があります。カウボーイ文化に象徴される放牧業や畜産業でも知られています。アメリカン航空、コンチネンタル航空、AT&Aなど多くの企業の本拠地となっています。カリフォルニア、ニューヨークと並ぶ商業や経済の中心です。

ナンバープレートには「The Lone Star State」とあります。メキシコからの独立という願いとして、テキサスの州旗に白い星を一つあしらったといわれています。これがLone Starの由来です。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その十九 コロラド州–Centennial State

コロラド(Colorado)は山岳地帯の州です。南北4500kmに及ぶ世界的なロッキー山脈(Rocky Mountains)が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原(グレートプレーンズ)が広がります。州都であり最大の都市は、デンバー(Denver)です。

デンバーは標高が約1マイル(約1,600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。 デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約14,000人。 「ロッキー時報」という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しいます。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク」がみえます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つとなっています。

この住み心地の良さを支えるのは、国防総省の巨大な施設によってもたらされる経済効果です。空軍士官学校や共同防衛組織があります。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。

Aspen, Colorado

私は小さいとき、「コロラドの月」というアメリカ民謡をしばしば聞いたことがあります。進駐軍の放送から聞こえたきたものです。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。恋の歌ですね。
 「コロラドの月の夜に
  想い出は いやます
   恋の日の しのばれて
    さびしさに 涙す
    むすびし 恋も
     あだに 君はいずこぞ
      コロラドの 月の夜に
       なれも 我をば待てる」
という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そしてデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。コロラド大学(University of Colorado)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その十五 カリフォルニア州 The Golden State

日本人に最も馴染みのあるカリフォルニア州(California) は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州に東はネバダ州・アリゾナ州に、最南端のサンディエゴ(San Diego) からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

州都はサクラメント(Sacramento)です。「アメリカの学校 その十四 サクラメントの学校」でも紹介していますが、ブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

動く石

カリフォルニアといえばロサンゼルス(Los Angels)やサンフランシスコ(San Francisco)、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッドを抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレー(Silicon Valley) をはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

サンディエゴ

この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていた。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいので、一度州知事になったアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Alois Schwarzenegger) も頭が痛かったようです。

サンフランシスコ

メキシコからの移民でヒスパニック系の人口は34%を占めています。ですからメキシコ料理はどこででも楽しめます。またイタリア料理、中華料理、ベトナム料理なども美味しいところです。サンフランシスコの中華街(China Town)は世界一といえる賑やかさです。
 
カリフォルニアはハワイと並んで、多くの日本人が移住したところです。1920年代の移民を禁じる排日移民法(Immigration Act of 1924) が制定され、太平洋戦争によってさらに差別や隔離政策が進みます。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人であるチャールズ・コバヤシ氏もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その十二 オクラホマ州–Native America

オクラホマ州(Oklahoma) 合衆国中南部に位置し、南はテキサス州(Texas)、東はアーカンソー州(Arkansas)、北はコロラド州(Colorado)とカンザス州(Kansas)に接しています。州都はオクラホマシティ-Oklahoma Cityです。合衆国でも経済的な発展の著しい州といわれ、特に航空機産業、エネルギー産業、テレコミュニケーションやバイオテクノロジーで著しい発展をとげています。

Map of Oklahoma

オクラホマ州には沢山のネイティブアメリカンの部族が住んでいます。少なくても25の言語があるということは少なくても25の部族がいるということです。ナンバープレートには「Native America」とあります。アメリカの元祖の州、アメリカらしい州という意味です。1901年の油田発見でオイルブームが訪れて一気に発展し、この州は石油ブームの焦点となり、急速に人口を増やしていきます。タルサ(Tulsa)市は「世界の石油首都」と呼ばれるほど石油で冨を蓄積しました。

Downtown Oklahoma City

面白い逸話ですが、オクラホマ州の公式ニックネームは「Sooner State」と呼ばれます。Soonerとは早者がちとか、一番乗りの者という意味です。昔、号令とともに我先にと土地の権利を求めて幌馬車を駆って先陣争いをしたのだそうです。

オクラホマでは、決められた時刻に特定の土地が開拓者に開放され、待ちかねた開拓者が一斉に駆け出すような仕組みが作られます。公式の解放時間前に境界を越えるという規則破りは “Sooner”「抜け駆け」「早い者勝ち」と呼ばれ、このSoonerがオクラホマ州の公式ニックネーム(Sooner State)にもなります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その二 スイカやポテト

アメリカのナンバープレートは、州や郡ごとに独自のデザインで発行されており、非常に色彩豊かです。各州の特徴を表現するキャッチフレーズのほかに、追加の手数料を支払えば自分のカラフルなナンバープレートを作ることもできます。通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

農産物や果物にまつわるキャッチフレーズを見てみましょう。その代表は「Peach State」といわれるジョージア州(Georgia)です。ここにはスイカやメロンも有名です。ルイジアナ州(Louisiana)は「Sugar State 」” 砂糖の州”です。少々地味ですが、「Famous Potatoes」のアイダホ州(Idaho)です。ここのジャガイモは大きいので知られています。1970年に沖縄に赴任したとき、市場で始めてアイダホポテトを知りました。

Georgia’s peach

観光や産業にあたるキャッチフレーズもあります。ミズリー州(Missouri)のナンバープレートのモットーは「Show Me State」です。さしずめ、「皆に見せたい州」といった感じです。この州の印象からすると少々違和感のあるモットーではあります。メーン州(Maine)は「Vacation Land」、そして「Aloha State」はもうお分かりですね。「Heart of Dixie」と呼ばれるのがアラバマ州(Alabama)です。Dixieとは南部という意味で、ジャズの本場というわけです。

Idaho potato

私の第二の故郷であるウイスコンシン州(Wisconsin)のは「America’s Dairyland」「アメリカの酪農の中心」というものです。北海道のような緯度にありまして、酪農に適したところです。土地があまり肥沃ではないのです。車で田舎道を走ると糞尿の匂いが充満します。「ウイスコンシンの香水」だと揶揄されています。最後は、アラスカ州(Alaska)です。「The Last Frontire」、最後の開拓地というフレーズで知られています。次回からはアルファベット順に州の特徴を紹介していきます。

旅のエピソード その48 「ジョージアからウィスコンシンへ」

U-Hallに10個位のスーツケースを載せてウィスコンシンへ向かう途中のエピソードです。車はGM製のシボレーマリブ(Chevrolet Malibu)という中型の中古車です。ジョージア(Georgia) にいた元宣教師さんから譲り受けました。中型のセダンといっても日本では大型車のようにゆったりしています。長距離運転にはたいそう楽です。

インターステイト(Interstate) という州を結ぶ高速道路を走り、テネシー州(Tennessee)やケンタッキー州(Kentucky) の景色も楽しみました。インディアナ州(Indiana) に入ったとき、車の調子がおかしくなりました。高速道路から外れて、小さな街に入りそこのサービスステーションで具合を調べてもらいました。トランスミッションの部品を交換する必要があるというのです。部品を取り寄せるので、修理は翌日となるとの見立てです。街にはモーテルはありません。

仕方なく従業員に頼んで持参していたテントを駐車場に張らせてもらいました。そこで野宿となりました。クーラーに詰めてあった食糧や飲み物で夕食をとっていると、不審者だと思ったのかパトカーがやってきて、「どうしたのか」と尋ねるのです。事情を説明すると「気をつけなさい」 という言葉です。日本人の家族がテントを張っているのは、この街では始めてではなかったでしょうか。

この経験から学んだことは、サービスステーションは給油だけでなく、車も修理をする所だということでした。従業員は車のことを熟知しているのです。このマリブは20万マイルも走って大分疲れていたようでした。32万キロという距離です。後に車輪のベアリングが摩滅して動かなくなったり、バッテリーが破損するなどのトラブルに見舞われました。アメリカで最初に乗った車でしたので、自分でも見よう見まねで簡単な修理をしました。エンジンオイル、トランスミッションオイル、スパークプラグなどの交換、ラジエーター液やフィルターの交換などの作業です。450ドルで手放すときは少々しんみりしたものです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

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旅のエピソード その6 「フライトアテンダントのジョーク」

フライトアテンダント(Flight Attendant) には、「スチュワード」(Steward)と「スチュワーデス」(Stewardes)がいます。男性と女性とで使い分ける単語です。今ではこの言葉は航空会社では使わなくなりました。スチュワードというのは、もともとは「仕える人」という意味です。仕える人になるための心掛けや礼儀作法のことをスチュワードシップ(Stewardship)といいます。

ある冬の真っ最中、ワシントンDC(Washington DC)からミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の便に乗りました。座席で離陸を待っていると、スチュワードが出発の案内を始めます。窓からは地上の係員が翼に不凍液を噴射しているのが見えます。

ミネアポリスはカナダに近く、DCよりももっと寒い町です。「ただいまから当機はハワイのホノルルに向かいます。」乗客は一瞬キョトンとして、一斉に「やった、やった、、」と大騒ぎです。なにせ皆寒いミネアポリスに向かう人ばかりですから、常夏のハワイへは夢のような旅です。

彼はすまし顔で、「残念ながら、機長の判断でミネアポリスに行くことにします。」こんなユーモアは日本ではひんしゅくものでしょうが、アメリカではとても受けるのです。罰せられるどころか、「実に面白いユーモアだ」とニュースになる位です。

こんなこともありました。離陸の際にフライトアテンダントが「ただ今からこの飛行機は、、、、、本便は、、、、、、」行き先を言わないのです。「失礼しました。行き先を忘れました、、、ああ、、当機はボストンへ向かいます。」こんなすべった調子でも誰も非難しません。ユーモアですむのです。

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旅のエピソード その3 「入国審査官との会話」

最近の成田国際空港の出入国審査官は、すこしゆとりや笑顔を見せるようになってきたように感じます。始めてやってくる外国人にとって入国審査官とのやり取りによってその国の印象が決まるといっても過言ではありません。入国審査を受ける番になると「ようやくこの国に来たな、、」と、気持ちが高揚します。

毎日何百人もの入国者を相手にする入国審査官は、入国者との生真面目で紋切り型の会話には飽き飽きしているかもしれません。審査官も実は会話をしたいと思っているはずです。私はアメリカへ行くときは、マイレージ(Mileage)を貯めるためにNW航空を使います。今はD航空に吸収されました。このハブ(hub)はミシガン州(Michigan)のデトロイト(Detroit)国際空港です。ここではいろいろな審査官に会いましたが、二つの思い出となるやりとりを紹介します。

私「こんにちは。」
 審査官 「入国の目的は?」
私 「ビジネスです。」
 審査官 「どんなビジネスか?」
私 「学会発表です。」
 審査官 「何の学会か?」
私 「障害児教育です。ハンディキャップです。」
 審査官 「それは大事な勉強だ。」
私 「そのとおりです。その学会でこれからミネアポリスへ行きます。」
 審査官 「ミネアポリスは初めてか。」
私 「ええ、初めてです。ですがミネソタツインズという強いプロ野球チームがあるのを知っています。」
 審査官「野球好きなのか?」
私 「大好きです。ヤンキースも好きです。イチローはシアトルで活躍しています。」
私 「デトロイトに野球チームはありますか?」
 審査官 「タイガースというのがあるよ。まあ、弱いけど。」
私 「それじゃイチローやマツイを引き抜いてはどうでしょうか。」
 審査官 「それはいい考えだ。(ここでニヤリとする)」
 審査官 「ではいい旅を。」
私 「ありがとう。」

実に他愛のない会話です。同じくデトロイト国際空港で、別な機会に家内と審査官とで交わした会話を隣で聞いていたときです。
入国審査官 「アメリカになんで来たのか?」
家内 「観光です。」
 審査官 「ニューヨークへ行くのか?」
家内 「いいえ違います。」
 審査官「フロリダのディズニーワールドか?」
家内 「いいえ、そこにも行きません。」
 審査官 「では一体どこへ?」
家内 「リンカーンです。」
(審査官は怪訝な表情)
 審査官 「リンカーンはどこにあるのか?」
家内 「ネブラスカです。」
 審査官 「ネブラスカでなにを観光するのか?」
家内 「とうもろこし畑です。」
 審査官 「あんたのような日本人は初めてだ。」
家内 「ネブラスカへ行ったことがありますか?」
 審査官 「あそこはアメリカではない。」
妻「、、、、」

こんなジョークをいう入国審査官もいるという実際の小話でした。

文化の日を考える その一 文化の定義とは

be14a071-396a-892f-0fa3-5722fc7d7fd0siba meiji_emperor sim「文化の日」が近づいています。再び「文化とは」ということを考えたくなる候です。文化とは誠に味わいのある言葉です。紛争や事件が耐えない今日、武力や刑罰などの権力を用いず、学問や教育によって人々を導くことが「文」。学芸は諸文物が進歩し、世の中が発展することが文明開化と呼ばれます。人間の理想の実現のために果たしてきた精神的な活動とその所産の総称が「文」といわれます。

「文化とは」を考える切り口は人によって違うでしょうが、私は愛読する佐伯泰英の時代小説と司馬遼太郎の「アメリカ素描」に書かれてある「文明」と「文化」の定義、そしてルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観に切り口を求めたくなります。

昨年、八王子にやってきた娘婿や孫娘らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日が話題となりました。もっとも日本はアメリカに比べて祝祭日が多いということが話題の端緒でした。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できます。アメリカにも似たような歴史的なことを記念する祝日があるからです。私はさらに、日本には成人の日、春分の日、秋分の日、みどりの日、文化の日などが祝日になっていることを説明しました。

娘婿が興味を示したのは文化の日です。実は筆者も文化の日を説明するのに窮したのです。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、娘婿の顔は得心するものではありませんでした。これではいかんと思い文化の日の謂われを調べました。もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するとあります。そういえば戦後しばらくの間、両親らが文化の日を明治節とか天長節と呼んでいたのを思い出しました。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも娘婿に説明しました。すると彼が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠に答えにくい質問をしてきました。このままでは、何十年後毎に祝日が増えるわけです。
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留学を考える その71—アメリカの酪農の中心と留学

大自然といえば、「Big Sky Country」“蒼穹の空”とも呼ばれるのがモンタナ州です。「Peace Garden State」はノースダコタ州、コロラド川が何億年もかけて削った谷「Grand Canyon」はアリゾナ州です。海のような五大湖を控えるので「Great Lakes」呼ばれるのがミシガン州です。「Green Mountain State」はヴァモント州。「Garden State」はニュージャージー州。「Ocean State」といえばロードアイランド州となります。いずれも大西洋岸にある小さな州です。「Sunshine State」”太陽が一杯”というのがフロリダ州です。

果物や農産物にまつわるキャッチフレーズを見てみましょう。その代表は「Peach State」といわれるジョージア州です。ここにはスイカやメロンも有名です。ルイジアナ州は「Sugar State 」” 砂糖の州”です。少々地味ですが、「Famouse Potatoes」のアイダホ州です。ここのジャガイモは大きいので知られています。

観光や産業にあたるキャッチフレーズもあります。ミズリー州のナンバープレートのモットーは「Show Me State」です。さしずめ、「証拠を見るまで信じない」といった感じです。この州は東海岸からみれば田舎の州。人が馬鹿にする傾向があったことに対する反論のような印象があります。メーン州は「Vacation Land」、そして「Aloha State」はもうお分かりですね。「Heart of Dixie」と呼ばれるのがアラバマ州です。「Dixie」とは南という意味です。ジャズの本場というわけです。

私の第二の故郷であるウイスコンシン州のは「アメリカの酪農の中心」というものです。北海道のような緯度にありまして、酪農に適したところです。土地があまり肥沃ではないのです。田舎道を運転していると糞尿の匂いが伝わります。「ウイスコンシンの香水」だと揶揄されています。最後は、アラスカ州です。「The Last Frontire」、最後の開拓地というフレーズで知られています。わざわざ「Prison Made」と印字されていたのがカリフォルニア州のものでした。

アメリカのライセンスプレートは、州や郡ごとに独自のデザインで発行されており、非常に色彩豊かです。各州の特徴を表現するキャッチフレーズのほかに、追加の手数料を支払えば自分のカラフルなナンバープレートを作ることもできます。通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

「留学を考える」シリーズは今回で終わりです。

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留学を考える その70—ライセンスプレートと留学

ライセンスプレートの特徴を取り上げて合衆国の大学を概観してきました。ライセンスプレートから各州の歴史や文化を伝ってきます。そして大学の成り立ちも伺い知ることができます。

我が家の小さな倉庫にライセンスプレートが80枚位あります。すべてアメリカ留学中に集めたものです。どうしてライセンスプレートに興味をもったかといいますと、そのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入るのですが、ナンバーは3から7文字程度のアルファベットと数字で構成されます。その中でも私の最も好きなのが州のキャッチフレーズやモットーが付いていることです。

ライセンスプレートにあるキャッチフレーズは、歴史、人、自然、特産物、観光などに分けることができます。まずは歴史からまいりましょう。アメリカで最初に定められた州はデラウエア州で「First State」。合衆国憲法が起草されたことを記念する州はコネチカット州で「Constitution State」と呼ばれています。面白いのは、「Live Free or Die.」 “自由を、さらば死を“とうたうのがニューハンプシャー州です。マサチューセッツ州は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。これは、独立の精神を意味するようです。「Empire State」という少々いかついのはニューヨーク州です。

次に、人にまつわるキャッチフレーズをみてみましょう。イリノイ州はエイブラハム・リンカーン大統領が生まれた地です。「Land of Lincoln」と呼ばれています。ノースカロライナ州は、ライト兄弟が最初に飛行機に乗ったところです。それで「First in Flight」というフレーズで知られています。インディアナ州 は「Hoosier State」”不器用な人の州”というのは滑稽です。オクラホマ州 は「Boomer State」、”一時的な人気者の州”というものです。オクラホマ州は「Sooner State」、”抜け駆け者の州”といって、我先に土地を所有しようとした人のことをいいいます。開拓時代を思わせます。”トウモロコシの皮を剥く人の州 ”「Cornhusker State」というのはネブラスカ州、トウモロコシ畑が続く大平原の州です。
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留学を考える その69—Pennsylvania Avenue

ワシントンD.C.には、建設以来大量の黒人が住むようになりました。今も全米の都市でも最もその割合が高い街となっています。そのようなわけで、ワシントンD.C.はアフリカ文化の普及や公民権運動の中心となりりました。市内の東側を流れるアナコスティア川(Anacostia River)付近には黒人をはじめとする低所得者が多く住んでいます。

第二次大戦後、白人はこの地区から大挙して郊外へと移住します。高速道路ができて通勤が便利になったこともその一因です。白人が居住し始めた地区は、コロンビア特別区とジョージタウン(George Town)に囲まれたあたりです。この辺りは、合衆国でも最も裕福な人々が住むところとなっています。

ランファンの都市計画によって造られた現在のペンシルヴァニア通り(Pennsylvania Avenue)は、幅が122mで大統領府と議事堂を1.9 kmで結んでいます。そのためアメリカのメインストリート(America’s Main Street)と呼ばれるようになりました。この通りで大統領就任式のパレードが行われます。ペンシルヴァニア通りは、メリーランド州(Maryland)のプリンスジョージ郡(Prince George’s County)まで続き、その長さは56.5 kmとなっています。

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591_1051925147 Pierre L’EnfantL'Enfant_plan  District of Columbia

留学を考える その68—Pierre L’Enfant

ワシントンD.C.の三回目です。合衆国の首都は、1776年の英国からの独立後、第一回と第二回の連邦議会の始まりとともにペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のフィラデルフィア(Philadelphia)に置かれました。フィラデルフィアでは、独立戦争時、議事堂で大陸会議が開かれ独立宣言が起草されます。現在独立記念館となっている建物でです。ですがこの街の首都は10年あまりで移ることになります。

1783年6月、独立戦争で闘ったかつての兵士が大挙して議会ホールに集まり、兵役に対する報酬を要求して決起します。それを押さえようとして連邦議会は、ペンシルヴァニア州知事のディキンソン(John Dickinson)に対して軍を出動させて鎮圧するように要請します。しかしディキンソンは兵士らの要求を正当と考え議会の要請を拒否します。その結果、ニュージャージ州のプリンストンに首都が移ることになります。

大統領のワシントンは、ランファン(Pierre L’Enfant)という都市計画家を新しい連邦首都の意匠を担うように指名します。ランファンは後にコロンビア特別区(District of Columbia)となる10平方マイルの連邦地域の計画立案と土地開発を監督します。そして1791年にランファンはポトマック川の北岸から東岸にかけて長方形の区画を首都として設計します。それが現在の首都ワシントンD.C.の基礎となります。

コロンビア特別区のあたりは、もともとアルゴンクイン族(Algonquian)というネイティブアメリカンが住んでいたところです。彼らはナコッチタンク(Nacotchtank)という名前で呼ばれていました。1812年に米英戦争というのが起こります。英国及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだアルゴンクイン族ら諸部族とアメリカ合衆国との間の植民地戦争のことです。米英戦争終盤の1814年8月、イギリス軍がアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.を攻撃し、市内を占領しホワイトハウスや議会議事堂など多くの政府関係の建造物に放火します。これが「ワシントン焼き討ち」(Burning of Washington)と呼ばれる事件です。

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2006-07 Tuition and Fees: $37,820 2007-08 Tuition and Fees: $39,210

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留学を考える その67 ワシントンD.C. –Holocaust Memorial Museum

スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが国立自然史博物館(National Museum of Natural History)といわれます。子ども達に人気なのが国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)でしょう。いつも家族連れや団体で一杯です。このほかに国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)、国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)、国立アフリカ美術館(National Museum of African Art)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭(Hirshhorn Museum and Sculpture Garden)、芸術産業館(Arts and Industries Building)などです。

是非訪ねていただきたいのはユダヤ人の虐待とその歴史を遺品や写真などで紹介するホロコースト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)です。イスラエルの歴史やユダヤ人の離散や迫害の歴史を辿ることができます。どの館も安い入場料あるいは無料で見学できます。モールを午前と午後に一つずつ見学してもゆうに一週間はかかります。

モールのすぐ南にタイダル・ベイスン(Tidal Basin)という池があります。ここにはかつて日本から贈られた約1,700本の桜の並木があります。1912年3月、尾崎行雄が東京市長在任中に高峰譲吉などと協力してソメイヨシノ2,000本を贈り、ポトマック河畔に植樹されます。しかし、虫害によって焼却されますが、後に3,100本の桜が新たに植樹されました。その返礼としてアメリカよりハナミズキ(Cornus florida)が贈られます。3月末は花見客で一杯となる合衆国で有数の桜の名所となっています。日本とアメリカの友好の歴史を物語る場所でもあります。尾崎行雄は後に憲政の神様といわれます。
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留学を考える その66 ワシントンD.C. –Taxation without Representation

アメリカ合衆国のいろいろな話題や特徴を通して、各州の大学を紹介をしています。今回は合衆国の首都ワシントンD.C. (District of Columbia)です。ワシントンD.Cは州ではありません。特別区というか準州のような扱いです。

ワシントンD.C. を紹介するには多くのページを必要とします。なにから始めたらよいか迷うほどです。まずはワシントンD.C.のライセンスプレートからいきましょう。プレートには「Taxation without Representation」とあります。このフレーズですが、D.C.は他の州とは違って、上院や下院への議員を選ぶ権利が住民にはないのです。にも関わらず高い住民税を払っています。これまで何度も議会に抗議したり訴訟を起こして、選挙権の獲得運動がありました。しかしいまだに実現していません。そこでD.C.はナンバープレートに抗議のフレーズを入れているのです。「税金払えど選挙権なし」という意味が込められています。他の州には、このような主張を込めたものは見当たりません。大抵は、産物とか自然を誇るフレーズです。その点でD.C.のは興味あるナンバープレートです。

ヴァジニア州(Virginia)やメリーランド州(Maryland)などと隣接するこの街は、世界の政治や経済の中心です。国権の最高機関である大統領府(White House)、連邦議会議事堂(Capitol)、議会図書館(Library of Congress)、連邦最高裁判所(Supreme Court)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、国立公文書館、日本銀行にあたる連邦準備制度(Federal Reserve System:FRB)、世界銀行(World Bank)や国際通貨基金(IMF)の本部、各国大使館などが置かれています。

街の中心はナショナル・モール(National Mall)と呼ばれています。モールの中心にはワシントン記念塔(Washington Monument)があります。モールの両端にはリンカーン記念館(Lincoln Memorial)と連邦議会議事堂が鎮座しています。スミソニアン協会(Smithsonian Institution)が運営する多くの博物館や美術館がモール内にあります。どれをとっても質・量ともに世界でもトップクラスであります。加えて、多くの国立記念建造物や碑が建てられています。例えば、第二次世界大戦記念碑、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、硫黄島記念碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑など数えられないほどです。

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留学を考える その65 ワイオミング州–Equal Rights

ワイオミング州(Wyoming)は北にモンタナ州(Montana)、東にサウスダコタ州(South Dakota)とネブラスカ州(Nebraska)、南にコロラド州(Colorado)、西にユタ州(Utah)とアイダホ州(Idaho)と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。人口は56万人。全米50州の中で最も少ないのですが、面積は二番目の大きいという特徴もあります。

Wyomingとはインディアンの言葉で「大平原」を意味するそうです。州の東側3分の1はグレートプレイン(Great Plains)、西側3分の2はロッキー山脈(Rocky Mountains)、といったように東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。ライセンスプレートには、馬に乗るカウボーイがイメージされています。

州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス、農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たるものです。イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)がこの州の北西部に広がります。年間600万人が訪れます。全米最古の国立公園で、シンボルになっている間欠泉(geyser)や温泉の見所で有名です。バッファロー(buffalo)、グリズリー(grizzly)、ムース(moose)、狼(wolf)などが生息し大切に保護されています。「Equal Rights」とか「Cowboy State」というの州のモットーとなっています。少々地味な印象ではあります。

ララミー市(Laramie)にあるのがワイオミング大学(University Of Wyoming)。農業、エネルギー、地質学などの研究が強いといわれています。当然ながら水資源とかの環境、天然資源の研究も盛んです。その他、キャスパーカレッジCasper College)、セントラル・ワイオミングカレッジ (Central Wyoming College)、イースタン・ワイオミングカレッジ (Eastern Wyoming College)などのリベラルアーツ教育も充実しています。

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留学を考える その64 ウィスコンシン州—American Robin

今ウィスコンシンはすっかり冬に突入しています。動物は冬眠しています。前回紹介したアナグマ(badger)も狸も深い穴の中で暖かくして眠っているでしょう。

多くの鳥も南のフロリダやメキシコ湾あたりに渡りました。ウィスコンシン州の鳥はロビン(American Robin)となっています。コネチカット州(Connecticut)とミシガン州(Michigan)もロビンを州鳥に指定しています。日本ではコマツグミと呼ばれていますが、American Robinの雄は色彩に富んでいます。雌は少々地味な色です。

この鳥は、厳しい冬に終わりを告げる二月末から三月にかけて戻ってきます。人々の待ち焦がれていた春がロビンで運ばれてくるかのようです。それでロビンは「春を告げる鳥」、「春の使者」(spring heralder)といわれるほど愛されています。鳴き声も綺麗なのです。頭と羽を除き、お腹は赤く実に姿勢が良いのです。

北米大陸に渡ってきた人々によってRobinという名前がつけられました。ヨーロッパにいた胸の赤い鳥(red-breast)に極めて似ていたからだといわれます。ロビンは北米大陸に広く生息しています。渡り鳥なのですが、大陸の南部と北部を行き来する渡り鳥です。夏はカナダにも飛来していきます。

ウィスコンシンが州鳥とした経緯です。1926年から1927年にかけて小学生が投票で決めたという記録が残っています。 子供に州鳥を決めさせるという発想がいいですね。

餌ですが、芝をつっついて虫やミミズを引っ張りだすのが観察されます。庭のどこでも見かけられるので「backyard bird」ともいわれるほどです。ロビンに似た鳥にフィンチ(finch)がいます。こちらは色とりどりで華やかな姿をしています。カーディナル(cardinal)もトサカがぴんと立って体全体が赤く実に綺麗な鳥です。ウィスコンシンでもなじみ深い鳥ですが、私は日本ではこの三羽をまだ見たことがありません。

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留学を考える その63 ウィスコンシン州—Badger State

どの州にも愛称があります。ウィスコンシン州には、アナグマであるバジャー(Badger)という少々平たい顔の動物が州のマスコット(mascot)となっています。それで「Badger State」と呼ばれるのです。アナグマの顔には白の縦縞の模様が入っています。昼間はめったに見られません。狸やスカンクが住宅地域に住み着くのは珍しくありませんが、アナグマは人里の近くには生息しません。

アナグマの分布です。北米大陸、アイルランド、英国やスカンディナビアの国にいます。絶滅危機の動物リストに入っていませんが、ウィスコンシン州の法律では狩猟は禁止されています。州自然局が動植物を管理しています。自然保護はどの州も厳しいのが合衆国に共通することです。

アナグマの棲み家の穴はセット(sett)といわれます。雄は”boar”、雌は”sow”、子供は”cub”と呼ばれます。アナグマは普段は柔和な性格ですが、追い詰められると闘うモードに入ります。大人の体重は18キロ前後で、長いしっぽを持っています。足は短く、穴掘りに適しています。昆虫、鳥、蛙、果実や根を食料としています。他の熊と同様に雑食動物です。

アナグマは”ウィスコンシン大学のマスコットにもなっていて、バッキーバジャー(Bucky Badger)の名で親しまれています。あらゆるスポーツ大会で登場し会場と観客を沸かせます。その他、子供のイベント、学校訪問などで活躍します。Bucky Badgerの誕生日は1940年10月2日として、ワシントンD.C.にあるアメリカ議会図書館(Library of Congress)に登録されています。なぜこの日なのかはもう少し調べる必要があります。著作権はもちろん設定されています。”Bucky”は雄なので、一時、 雌のマスコット名前として”Betty”とか”Becky”という名前が候補として挙がりました。ですが未だに実現していません。マスコットの誕生日や名前の登録とか、アメリカ人は可笑しいことを考えるものです。

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留学を考える その62 ウィスコンシン州–America’s Dairy Land

ウィスコンシン州の気候は内陸のために寒暖がはっきりして、夏は30度以上になることもしばしばです。冬の寒さといえば筆舌に尽くしがたいような日が何日も続きます。雪はそんなに深くは積もりません。風で吹き飛ばされます。
ライセンスプレートには「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と記されています。そして納屋とサイロが描かれています。乳製品で有名な州です。2010年度の第45回スーパーボウル(Super Bowl)を制したグリーンベイパッカーズ(Greenbay Packers)の本拠はウイスコンシン。そのときファンがかぶったのがチーズヘッド(cheese head)というチーズをかたどった帽子でした。

沢山の種類のチーズが楽しめます。ワイン、麦酒に欠かせないおつまみです。酪農の地ですから、ステーキもまた格別です。分厚いフィレミヨン(filet mignon)はいいです。肉をグリルで「焼いて」ステーキソースをかけるのが一般的な食べ方です。どの家庭にも野外で肉を焼くグリルがあります。

ウィスコンシンは北欧やドイツの移民が多い州です。そのためソーセージ類もまた沢山の種類がつくられています。スパイスをきかせた肉がたっぷりな巨大なソーセージ(brats)は、「アメリカの酪農の地」の名に恥じないものです。ポーランドかドイツからの移民が持ち込んだのでしょう。スポーツといえばアイスホッケーが盛んで、どの高校にもホッケー部があります。氷上の格闘技です。

ウィスコンシンは私の研究の基礎をつくり、3人の子どもに教育を授けた忘れられない州です。今も娘二人がマディソンで子どもと生活しています。私と長男の嫁を含めると全部で学士から博士まで10の学位を頂戴しています。大分投資もしましたがそのリターンは計り知れません。

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留学を考える その61 ウィスコンシン州–French and Indian War

アルファベット順にアラバマ州(Alabama)から始まった高等教育機関の紹介もようやくウィスコンシン州(Wisconsin)にやってきました。アメリカ合衆国の大陸を東から西へ、北から南へと通ってきました。アラスカやハワイをいれると合衆国はとてつもなく広大な国です。人種も誠に地理、自然、気候、歴史など多士済々です。人種、文化、言語、宗教などの多様性を特徴とする国がアメリカです。まさにモザイックなのです。

ウィスコンシン州は北はカナダと国境を接し、東はミシガン湖が広がり、南はイリノイ州に囲まれ、西はミネソタ州とアイオワ州と隣り合っています。大昔、氷河が覆い、そのため土をけずって大小の湖ができました。氷河は石や岩を運びながらなだらかな丘陵もつくってきました。氷河がモレーン(moraine)と呼ばれる氷堆石を残したので、農場に岩や石があります。そのために平たい農場は少なく、酪農が盛んになりました。北海道に似た景色が広がります。愛称は「The やが State(あなぐま州)または「Dairy Land(酪農の地)」といいます。

場所は違いますが、モレーンの影響は今もブータンやネパールで見られます。それは洪水です。氷河の後退によってモレーンとの間に氷河湖ができます。ですが、温暖化の影響でしょうか、氷河の溶け具合が早く、モレーンの崩壊によって決壊し洪水を起こし、下流にあった村々に死者を出してきました。

ウィスコンシンにはもともとオジブワ族(Ojibwa)、ソーク族(Sauk)、チペワ族(Chippewa)、フォックス族(Fox)、キカプー族(Kickapoo)が住んでいました。ヨーロッパから多くの移民がやってきました。最初の白人は、フランス人探検家のニコレ(Jean Nicolet)です。1634年、カナダのジョージア湾(Georgian Bay)からヒューロン湖(Lake Huron)を経てカヌーでやってきたという記録があります。南からウィスコンシンにやってきたのはマーケット(Jacques Marquette)とジョリエ(Louis Jolliet)です。ミッシッピー川を遡って今のプレーリーヅシン(Prairie du Chien)というところに上陸します。1673年頃のことです。フランスが北米大陸を植民地化する政策の一環だったようです。フランス人はネイティブアメリカン部族を相手にした毛皮貿易商でもありました。やがて白人植民者によって部族は各地や追い遣られます。

時代は下り、1754年から1763年にわたり続いた植民地を巡るフランスーインディアン戦争(French and Indian War)の結果、イギリスが支援していた側が勝つとフランスが後退し、イギリスの統治が広がっていきます。とわいえ、フランス人が開拓してきたウィスコンシンには、今も多くのフランス語の地名や人名が数多く残っています。

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