Delwyn Harnisch 追悼 その一

57CX3747 57CX3750 57CX3733昨日の朝、メールを開くとネブラスカ大学の友人が亡くなったとありました。彼の名前はDelwyn Harnisch。ドイツ系移民の名前の持ち主です。子供四人にもドイツ系の名前をつけていました。小さいときはネブラスカのど田舎にある複式学級で勉強したようです。その後、努力してイリノイ大学の基幹キャンパスであるアーバナ・シャンパン校(University of Illinois at Urbana Champaign) の教授となります。教育測定評価の専門です。日本には1998年にNECの研究所に招かれてS-P表というテストの結果の評価法を広めます。私が彼を知ったのはこの評価法です。その後、私は研究費に応募して彼を兵庫教育大学の客員研究員として3カ月招くことができました。

やがてDelwyn Harnischはネブラスカ大学リンカーン校 (University of Nebraska at Lincoln) から招聘状を貰います。アメリカの大学では、欲しい研究者の収入などを調べているので、現在の待遇以上の条件を提示します。例えば1.5倍の給料をだすとか、これこれしかじかの研究環境を用意するなどです。招聘状をもらう研究者は、提示された待遇、大学の研究設備、同僚となるスタッフの研究状況、子どもの教育環境などを調べ、自分の研究にも家族のためにもプラスになるかなどを考慮します。

Delwyn Harnischは、招聘状をもらったときイリノイ大学に残りたかったそうです。なぜならシカゴやニューヨークなどに近く研究環境として恵まれていたからです。そこで、学部長に会い「1.5倍の給料でネブラスカ大学からオファーがきているが、もしイリノイ大学が今の給料を上げてくれれば、残りたい、」と交渉したというのです。

ところが学部長は「残念ながら予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」と言ったのでネブラスカ大学へ移ることにしたのだそうです。このように、さばさばと交渉できるのがアメリカの大学の面白いところです。また学部長も予算やスタッフの給料を決める権限があるのは興味深いことです。

Delwyn Harnischは地元のルーテル教会の熱心な信徒でもありました。公私にわたっていろいろお世話してもらいました。例えば、教員として派遣されている兵庫教育大学の院生を引率してネブラスカのリンカーン市の学校を視察したり、友人を紹介してもらい一緒に研究することができたこと、日本からの研究者を暖かく引き受けてくれたことなどです。その間いろいろなエピソードもあります。次回はそれを紹介します。

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