ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・マルティニーク島と小泉八雲

注目

小泉八雲は、ギリシャで生まれたアイルランド系のイギリス人です。アイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、そして日本にやってきます。ジャーナリストとして各地で出会った人々との交流や習慣を紀行文や随筆で記し、多くの小説も書き、後に日本では英語教師や英文学者として活躍したことで知られています。フランス語にも精通し1887年から2年間、カリブ海(Caribbean)に浮かぶ島でフランス領西インド諸島のマルティニーク島(Martinique)で過ごします。そこで執筆したのが「仏領西インドの2年間」(Two Years in French West Indice)です。本稿は、各国を放浪し異国情緒にあふれる人種、伝統、風俗・習慣に触れながら八雲がどのようにこの島の人々の生きざまを捉えていたか考えることとします。

小泉八雲の著作

これまでルイジアナ州に住むクレオール(Creole)の人々の文化や風俗をとりあげてきました。人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ばれています。特にフランス人・スペイン人とアフリカ人・先住民を先祖に持ち、フランスからのルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫とその文化を指すともいわれます。付け加えるならば、クレオールとはもともとは、片方の親がヨーロッパ系で、もう片方の親がアフリカ系の子どものことを指していましたが、今日では、両方の系統が混じっている人々のことを指し、「黒人と白人の混血者」と説明されるようです。

マルティニーク島

八雲がなぜ、マルティニーク島に渡ったのかは分かりませんが、この島がフランスの植民地であり、多様な人種が混ざり合っていることに関心があったのかもしれません。西洋文明の社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニークでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。事実、八雲も自分の出自が混血であったために、人種の多様性の豊かさに魅了されたことが「仏領西インドの2年間」の著作に表れています。

さて、西インド諸島の名は、1492年10月にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が上陸したバハマ諸島(Bahamas Islands)のサン・サルバドル島(San Salvador Island)付近を、インドに到達したと誤解したことに由来しているといわれます。西インド諸島の主要部を構成する諸島の一つがフランスの海外県であるマルティニーク島です。マルティニーク島は、1502年のコロンブスの第四次航海により発見されます。意図していた金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続け、ヨーロッパ人の侵入を退けます。しかし、1635年にセント・キッツ島(Saint Kitts)を拠点にしたフランス人のピエール・デスナンビュック(Pierre dEsnambuc)が上陸し、これによってフランスが主導権を握り植民地化します。

クレオール人


フランスの植民地化が進むと、マルティニーク島はアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビ・プランテーション農業で経済的に発展します。大西洋における三角貿易によって今のハイチ(Haiti)であるサン=ドマング(Saint-Domingue)やグアドループ(Guadeloupe)と共にフランス本国に多大な利益をもたらしていきます。かつてマルティニーク島にいた先住民は、ヨーロッパ人による虐殺やヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により全滅し、現在は純粋な先住民は1人もいないといわれます。

マルティニーク島には、アフリカから奴隷として連れて来られた黒人とヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血のムラート(Mulatto)と呼ばれるクレオール人、華僑、インド人、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)、パレスチナ(Palestina)から移民したアラブ人(Arab)なども少数ながら存在します。住民の多くはフランス語とクレオール語を話しますが、クレオール語は少数言語となっています。

カトリック教会

八雲は「仏領西インドの2年間」という著作のなかで、マルティニーク島というのは、画趣に富むところだと記述しています。とりわけ有色人の女性の服飾、頭の飾りなどの珍しさや華やかさ、有色人の娘に見られる肉体的な変化が特徴的であるというのです。そして、こうした特徴は南フランスの南部や西南部の田舎の風俗に類似していると指摘します。最初に入植してきたフランスの農民と西アフリカの奴隷という先祖の人種が、両者ともに風土と環境という諸条件によってこうした特徴が形成されたのだという見立てです。

やがてマルティニーク島では、初期の入植者の子孫は父祖に似なくなり、クレオールの黒人は祖先を改善し、混血のムラートは植民地自体の平穏さを危うくするほどの肉体力と精神力を次第に発揮していきます。八雲は「白人と黒人との間に生まれた混血種は文明にはきわめて同化しやすい。肉体的なタイプとして、個人、特に一般女性のなかに、人類最高の美しい標本を提供している」とも断言するくらい、女性の美を観察しています。

しかし、八雲は植民地全般に古き良き社会の崩壊が始まることを指摘します。植民地支配下で民族意識が高まり、自主独立の機運が高まってきたからです。至る所に熱帯の廃墟や深い憂愁、かっては甘藷で黄金色をなしていた広大な段々畑が、雑草と蛇によって捨てられているというのです。人の住んでいない農場の家屋、雨によってえぐられ谷間のようになった草ぼうぼうの道、何百年にわたり育った森林の木々に代わって徐々にはえだしたバナナの樹が目立つというのです。砂糖が安価に売られていた時分の楽園をしのばせる美しさはかろうじて残ってはいるが、、、、

マルティニーク島の村

そして有色人の女の姿も変わったというのです。男に対して自分を卑下したり隷属的なところが大分薄れ、自分の立場の道義的に正しくないことを以前より理解していると観察します。彼女らの愛人や保護者であるクレオール白人が他へ移住し、同時に黒人の支配が強くなってきたからです。加えて生活の困難が不断に増してきます。彼女らは、次第に募る人口の増加によって社会の酷薄と憎悪も増してきているのを知ってくるのです。それにも関わらず彼女達の心根の良さ、外国人に対する寛容さについて「彼女達は生まれながらの慈善団体の尼だ」という指摘です。有色人女性達の道徳的資質を褒めているのです。

有色人女性に関するこうした賛辞は法外なものではないと八雲は確信します。ところがこれに反して、有色人男性に対するクレオールの意見はあまり好ましくないというのです。それは政治上の事件と情熱が有色人男性の性質を正当に評価することを困難にしているからだろうというのです。フランス領植民地全体の有色人の歴史は全部同じで、つまり彼らが社会的に平等になろうと躍起になろうとするのを恐れている白人からは信用されないし、黒人からもそれ以上に信用されないのです。混血のムラートは両方の人種に敵意をいだき、両方の人種から恐れられているらしいのです。

仏領西インドの2年間

マルティニーク島では、一定の期間義勇兵として軍隊に勤務した者には全部に自由を与えて彼らを操縦していくことを試み、その一部は成功します。ただし、どんな時にもムラートと黒人とを一緒に働かせることは不可能であることがわかります。ムラートは解放される一世紀も前から、すでに都市労働者及び職工の熟練者階級を形成していたからです。

有色人女性は人生に目的を持ち、自分の境遇を向上させること、子どもには高等教育を授けること、そしてわが子には、なんとかして偏見の呪いをかけさせたくないと願っています。白人には依然としてすがってはいますが、それは白人を通して、なんとか自分の立場を改善したいと願っているからです。彼らは両方の人種間の和解というようなことを達成する望みをもっているようだともいいます。

クレオール人全体の信念は「失われた国」という繰り返される叫びの中に集約されています。白人はだんだんと本国へと移住し、植民地は繁栄を失いつつあります。「それでもこの太陽の国の女性は、欺きのために死ぬようなことはない、苦しみがあれば、小鳥のように歌でその苦しみを吐きだしてしまうほど強い」と八雲は断言するのです。
(投稿日時 2024年5月22日)