ウィスコンシンで会った人々 その30 Intermission その二 沖縄独立論の後退

「沖縄独立論」は、琉球王国時代の豊かな文化や芸術、土着の宗教や言語などにその起源があると考えられる。南方との交易によって琉球にはいろいろな文化ももたらされた。特に最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。琉歌や組踊りも独特である。他方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用いた。

琉球の独自性は、多くの文化人といわれる人々によって研究されてきた。「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷の沖縄研究は、沖縄の言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。彼の後継者といわれたのが外間守善で、生涯を琉球文学や文化研究に捧げた。比嘉春潮もまた沖縄史の研究者であり沖縄の独立を主張した社会運動家である。仲宗根政善はひめゆり学徒隊の引率教官。そして戦後は琉球方言の研究や沖縄の教育行政にあたる。

琉球・沖縄の独自性を沖縄の人々に再認識させようと挺身したのが川平朝申である。川平を含む前述の平良牧師ら多くの知識人は、当初はアメリカの施政権下からの独立を目指していた。本土復帰が決まるとことによって琉球は沖縄県となり、日本への統合が始まる。やがて沖縄民族(ウチナンチュ)の独自性や精神、文化が揺らぐことの危機意識が高まり、「反復帰」の声が地元の新聞論調にみられるようになる。

復帰後、本土からヒト、モノ、カネ、そして制度が怒とうのように押し寄せ、日本政府という権力の凄さ、恐ろしさが県民によって理解され始める。「これは夢ではないか」と錯覚するような大変化であった。だが時は既に遅し。「反復帰」の精神は運動しての高まりを生むことはなかった。沖縄の一部の人々であるが、唯一日本からの独立という途方もない発想をすることに筆者は畏敬の念を抱く。

hokama-death  外間守善iha 伊波普猷