ヨーロッパの小国の旅 その四十六 キプロス共和国

地図を見ると地中海の東端、トルコの南、シリアの西に浮かぶのがキプロス島です。世界遺産の遺跡が点在する長い歴史を持つリゾートの島にあるのが、キプロス共和国(Republic of Cyprus)です。首都ニコシア(Nicosia)は、オスマン(Ottoman)トルコからの侵略を防ぐ城壁が残る都市です。世界でただひとつの2つの国に統治される首都という珍しい街です。国連がコントロールする緩衝地帯「グリーンライン」(Green Line)と呼ばれる境界線が街のなかにあるとあります。

キプロスは、長い歴史の中でギリシャ系とトルコ系の住民が住むようになります。四国の半分ほどの小さなこの島が、2つに分断されるきっかけになったのが1970年代のキプロス紛争です。ギリシャ系住民の多い南部キプロスと、分離独立を求めるトルコ系住民との衝突を抑止するために1974年にグリーンラインが引かれ、島の南部はギリシャ系の「キプロス共和国」、北部はトルコ系住民が多く住む「北キプロス・トルコ共和国」に分かれました。

聖ニコラス教会のフレスコ画

1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっています。公用語はギリシア語およびトルコ語です。キプロスは地理的に、古くからヨーロッパと中東を結ぶ海上貿易の拠点として栄えます。紀元前1世紀~12世紀末までのローマ帝国による支配や、16世紀~19世紀にいたるオスマントルコ帝国による支配によって、異なる文化圏を持つ国々に統治されてきます。

キプロス島は長らくイギリスの植民地でありました。独立運動の指導者はマカリオス3世(Makarios III)というキプロス正教会の有名な聖職者です。マカリオス3世は、ギリシャへの統合から独立へと志向を変え、国際連合総会で独立を訴えます。そして1960年にキプロスは独立を果たしマカリオスは初代の大統領となります。マカリオス3世の名は、しばしば報道されたのを私も鮮明に記憶しています。

ヨーロッパの小国の旅 その四十五 大航海時代の幕開け

ポルトガルは、日本人にとってヨーロッパの歴史を学ぶ時には、身近に感じる国です。それは、種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したこと、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)という探検家がアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であることを学ぶからです。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたというのですから、ガマの貢献は偉大というしかありません。

ユーラシア大陸最西端にポルトガルは位置します。大河、テージョ川(Tejo)が流れています。その河口に位置するのがポルトガルの首都リスボン(Lisboan)です。この街の歴史は紀元前1000年頃、フェニキア人(Phoenicia)の港が築かれた頃まで遡ります。フェニキア人とはギリシア人による呼称で、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に渡って、海上交易をしていた人々いわれます。ギリシア人は、こうした交易などを目的に東から来た人々をフェニキア人と呼んでいました。当時リスボンはアリス・ウーボ(Alice Ubo)「穏やかな港」と呼ばれていました。

Vasco da Gama

その後のローマ時代、ムーア人(Moor)による支配の時代と、支配者が変わる度に街は名前を変えました。8世紀から400年以上にわたって続いたムーア人の支配から街を解放したのがアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)です。この時、街の名前がリスボンと定められました。ムーア人といえばこのシリーズの第36回で取り上げた悲劇「Othello」に登場し、妻デズデモーナ(Desdemona)の貞操を疑うヴェニスの軍人を思い出します。

鉄砲伝来

そして15世紀、アフォンソ1世(Afonso I)の頃行われた西アフリカ方面への遠征が大航海時代の始まりというわけです。ガマやフェルナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)、クリストファ・コロンブス(Christopher Columbus)など国籍は違いますが、多くの探検家がこのリスボンで学んだといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その四十四 ポルトガル

歴史的に日本との関係が深いポルトガル(Portugal)へ行ってみましょう。ポルトガルの正式な国名はポルトガル共和国(Portuguese Republic)。ヨーロッパ大陸の西側にあるイベリア半島(Iberian Peninsula)の南西にあり大西洋に面しています。東隣はスペイン(Spain)です。かつてポルトガルは地中海諸国と同盟を結び、ヨーロッパ大陸で地理的にも文化的にも海上帝国として最も栄えた国です。

ポルトガルといえば思い出すのは探検家であり航海者だったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)です。記憶しやすい名前です。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した最初のヨーロッパ人と呼ばれています。インドに到達したのは1498年といわれます。さらに1500年には、インドを目指したペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral)がブラジルを発見し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んでいきます。

1509年、インドのディーウ(Diu)の近くのアラビア海でオスマン帝国(Ottoman Empire)の海戦が起こり、ポルトガルは勝利してインド洋の制海権を確保します。そしてホルムズ(Holmes)やマラッカ(Melaka)とさらに東進したポルトガル人は、1541年から1543年にかけて日本へもやってきます。鉄砲の伝来です。

ポルトガル人の到来により、交易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えます。当時日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだそうです。1557年には明からマカオ(Macau)の居留権を得ます。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めていきます。この貿易は南蛮貿易と呼ばれるようになりました。

ヨーロッパの小国の旅 その四十三 ルクセンブルグの歴史

Encyclopaedia Britannicaを参照してこの稿をまとめています。ルクセンブルクの歴史は、963年にアルデンヌ家(The Ardennes)のジークフロイト伯爵(Siegfried)がこの地にルクセンブルク城を築いたことに始まります。中世には、ルクセンブルク市は「北のジブラルタル」(Gibraltar)と呼ばれ、難攻不落の要塞といわれました。ついでですが、ジブラルタルはイベリア半島(Iberian Peninsula)の突端にある街です。地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地で、軍事や海上交通の上で重要視されています。現在はイギリスが領有しています。

1443年にルクセンブルクはフランスのブルゴーニュ公国(Bourgogne)の侵攻を受けて陥落します。そして、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に組み込まれます。その後、スペイン領やオーストリア領の南ネーデルラントとしてハプスブルク家(Haus Habsburg)の統治下に入ります。この時期にルクセンブルク城は要塞として度々強化され、当時としてはヨーロッパで最も堅固なものとなります。

Luxembourg city, the capital of Grand Duchy of Luxembourg, view of the Old Town and Grund

1867年に永世中立国となり、城砦のほとんどの部分が取り壊されました。第一次世界大戦が勃発すると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に占領されます。1940年にナチス・ドイツが侵攻し1942年には第三帝国に完全に併合されますが、1944年に連合軍に解放されます。戦後はルクセンブルクは中立政策を廃止し北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となります。城砦だった城壁や要塞の一部は現在も残っており、旧市街と要塞群はユネスコ世界遺産に登録されています。

ルクセンブルクの人口わずか57万人、面積も神奈川県くらいのヨーロッパの小国です。ルクセンブルクと国境を接するベルギーやドイツ、フランスに比べると、日本ではあまり知られていません。ですがこの小国が、どうやって世界でもトップクラスの豊かな国となったのかです。その最大の要因は、ヨーロッパを代表する金融センターの座を勝ちとったことにあるといわれます。1960年代からルクセンブルクの経済を牽引していた鉄鋼業の不振を受け、ルクセンブルクは金融立国へと舵を切りました。その政策が功を奏し、いまやロンドンに次ぐユーロ市場、ヨーロッパを代表する国際的な金融センターを有するまでに発展したのです。

ルクセンブルクは20年以上連続で一人あたりGDP(国内総生産)が世界一です。つまり一人あたりが稼ぎ出す富は世界一という大国なのです。

ヨーロッパの小国の旅 その四十二 ルクセンブルグ

ベネルクス(Benelux)を構成するのが、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク(Luxembourg)です。Beneluxとは、それぞれの国名の初めの文字、Be, Ne, Luxから成る頭文字が集合している名称です。3つの国に共通している特徴は、立憲君主制を採用していること、国土が狭いこと、人口密度は非常に高いこと、そして国民生活が豊かであることです。ルクセンブルクの国土は神奈川県くらいの広さ、人口は50万人ほどです。3か国すべてを合わせても面積は隣国ドイツの1/5です。ルクセンブルクは東はドイツ、南はフランス、西はベルギーに囲まれている世界でも最も小さい国です。首都はルクセンブルク(City of Luxembourg)です。

ルクセンブルクの公用語は”Luxembourgish”といわれ、ドイツ語とフランス語が公文書などでも併用されています。宗教はカトリックと少数のプロテスタントで構成されています。ユダヤ教徒やムスリムの人々からも成ります。人口構成ですが、ルクセンブルクの出産率が低いために、労働力となる人口は近隣国からの移民です。ドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル人です。170カ国から国外出身者がいるといわれます。住民の46.7%がルクセンブルク国籍を持っていないのも不思議です。多くはルクセンブルクの経済の中心である鉄鋼業や金属工業に従事しています。国民1人当たりの実質国内総生産が世界一というのですから驚きです。労働人口の41%は高等教育を受けていて、2017年6月現在の失業率は6%で、95%の世帯がコンピュータを保有し、97%がインターネットに接続しているのも特記すべきことです。

3か国の緊密な関係についてです。1948年ベネルクス3国間で関税同盟として発足したのがベネルクス経済同盟です。3国間の関税を撤廃して経済的統一体の実現をめざしたものです。経済的統一が発展し資本や労働力の自由化を実現し、やがて1967年に成立する欧州共同体(European Communities: EC)の起源となり、1993年のヨーロッパ連合(European Union:EU)へと発展していきます。

ヨーロッパの小国の旅 その四十一 フランダースの犬

首都ブリュッセルから電車で約1時間でアントワープ(Antwerp) に着くそうです。アントワープは「フランダースの犬」(A Dog of Flanders)という小説やアニメで我が国でも知られています。この小説の作家はイギリス人のメアリー・ラメー(Marie Louise de la Ramée)という女性です。アントワープには聖母大聖堂(Cathedral of Our Lady)があります。そこに画家ルーベンス(Peter Paul Rubens)の祭壇画があります。ルーベンスもまたアントワープの出身です。この絵画が「フランダースの犬」物語の伏線にあります。

少年ネロ(Nello) は貧しい牛乳運搬業で生計を助け、いつか画家になることを夢見ています。牛乳の運搬を助けるのが愛犬ペトラッシュ(Patrasche)です。ネロはかねがねアントワープの聖母大聖堂の二つの祭壇画を観るのを熱望していました。それを観賞するには高い観覧料が必要だったので、貧しいネロには叶わぬものでした。二つの祭壇画とは、、「キリスト昇架」(The Elevation of the Cross)と「キリスト降架」(The Descent of the Cross)です。この二つの祭壇画は、アントワープはもとよりベルギーが世界に誇る17世紀の画家ルーベンスの筆によるものです。

ダイヤモンド研磨や加工の聖地といわれるのがアントワープです。北海からの交易船を受け入れる海の玄関口であり、大きな河川が流れヨーロッパの重要都市につながるという立地に恵まれています。ユダヤ人コミュニティがあったことも金融で有利になったともいわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その四十 小国で大国のベルギー

西ヨーロッパにあるベルギー(Belgium)を旅しましょう。北はオランダ、東はドイツ、南はルクセンブルグ(Luxembourg)、そして西はフランスです。国土としては最も小さい国の一つですが、人口密度は最も高い国です。独立したのは1830年。王室を擁する立憲君主共和国で首都はブリュッセル(Brussels)です。

文化的には多様な歴史を有し、ローマやゲルマン言語を母体としています。ベルギー人は3つの言語圏に分かれます。第一はオランダ語(flemish)を話す人々が1/2を占めています。「flemish」とはフラマン語とも呼ばれフランドル地方(Flanders region)の言葉といわれます。フランス北東部で話されている低地フランク語の系統の呼称ともいわれます。第二は、ワルーンズ(Walloons )と呼ばれるフランス語を話す人々が人口の1/3を占めます。第三はドイツ語を話す人々です。国民の多くは二つ以上の言語を使い分けることができるといわれます。

ベルギーは歴史と文化にあふれた国です。中世からの大学や街、交易、絵画や音楽が栄えた偉大なゴシックの伝統を擁しています。16世紀以来のルネッサンスを謳歌して発展した国です。他方、ベルギーは長い間ヨーロッパでの戦場の舞台となります。1815年のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)が起こります。ナポレオン(Napoleon Bonaparte)が連合軍に敗れた戦です。そして20世紀の二つの世界大戦で国土が戦場となります。

チョコレート博物館

今や、ベルギーは小さい国土ながら、ヨーロッパの政治や経済で大きな存在感を示しています。欧州連合(European Union: EU)や北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)の本部がブラッセルに置かれているのもその証左です。

ヨーロッパの小国の旅 その三十九 オランダ東インド会社と日本

リーフデ号(De Liefde)は1600年4月、九州の豊後に来航します。といってもようやく辿り着いた航海だったようです。同船を含む5隻の船はマフ船団と呼ばれたようです。司令官はヤックス・マフ(Yax Muff)という人の名をとっていました。船団は1598年6月ロッテルダム(Rotterdam)を出航したのち、大西洋を南下し、南米最南端の難所マゼラン海峡をとおり太平洋へはいります。リーフデ号には後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)やウイリアム・アダムス(William Adams)乗り組んでいました。ヨーステンは「八重洲」という地名の語源となった人物で、アダムスは後に三浦按針と名乗ります。

リーフデ号

なぜ、オランダの商船が日本を目指してきたかということです。16世紀後半、オランダはスペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていて貿易制限、船舶拿捕などによって経済的に打撃を受けていたといわれます。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルは1580年にスペインに併合され、オランダはリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。そのため、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインに併合されていたポルトガルに対抗する必要がありました。こうして、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて東南アジアにあらわれるようになります。

八重洲にあるヤン・ヨーステン記念碑

イギリスやポルトガルが、東南アジアとの取引を本格化させるとともに、香辛料購入価格が高騰していきます。商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落していきます。ホラント州(Holland)のオルデンバルネフェルト(Johan Oldenbarnevelt)というやがて共和国の宰相となる政治家が中小の貿易会社を統一しオランダ東インド会社(Holland East India Company)を発足させ、諸外国に対抗しようとします。これが1602年3月の東インド会社の設立です。通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)といわれました。

臼杵市のリーフデわんぱーく公園

東インド会社は、世界初の株式会社といわれます。本社はアムステルダム(Amsterdam)に設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、やがてジャワや平戸などに置かれます。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた専売会社です。アジアでにおける帝国主義は植民地政策であり、その前身となる組織です。オランダは長くインドネシアを植民地とします。戦時中、日本がインドネシアを占領したことは、オランダからの独立を促す契機ともなったといわれます。インドネシア独立戦争は、1945年から1949年まで続きます。

ヨーロッパの小国の旅 その三十八 オランダ東インド会社

私がオランダへ行ったのは、兵庫教育大学に客員研究員として招いたオランダ人との付き合いからです。彼はオランダの東、ドイツ国境に近いい街、エンシェンデ(Enshande)にあるトゥウェンテ大学(Twente University)の教育工学専門の教授でした。首都アムステルダムに一緒に行った友人は兵庫教育大学の教授です。彼は、アムステルダム(Amsterdam)にはかつてのオランダ東インド会社の本社があったと言っていました。

世界初の株式会社といわれたオランダ東インド会社の設立の経緯です。1596年6月、インドネシアにやってきたのがオランダの探検家ハウトマン(Frederik de Houtman)が率いた艦隊です。この航海の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきたといわれます。

カルカッタのオランダ東インド会社

その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このこともオランダ人の危機感を煽りました。1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。

ベンガジの東インド会社

オランダ、ヨーロッパ最古の大学にライデン大学(Leiden University)があります。日本との間にあらゆる分野の学生や研究者の交流を行っています。アインシュタイン(Albert Einstein)や国際法「自然法の父」グロチウス(Hugo Grotius)、現在の国王ウィレム・アレキサンダー(Willem Alexander)、10人のオランダ首相をはじめ数多くの指導者を輩出する大学です。

ヨーロッパの小国の旅 その三十七 「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」

オランダ(Holland)とネザーランド(Netherlands)という使い分けから始めます。公式にはネザーランド王国(Kingdom of the Netherlands)というのが正しい国名です。チューリップと水車の国とも呼ばれています。

オランダが国を樹立したのは、いろいろな地域や都市を併合して1579年にスペインからの独立を宣言したときです。 その一つがオランダ(Hollands)という地域でした。Hollandsの歴史は12世紀に遡ります。ローマ帝国の支配にあった頃です。今の首都アムステルダム(Amsterdam)やロッテルダム(Rotterdam)、ハーグ(Hague)といった都市はオランダ地域の中にあります。こうした地域は、政治や経済の中心となり、対外的にはオランダ(Hollands)と呼ばれるようになります。

ところでNetherlandsとは「低い土地」、Hollandとは「森林地帯」という意味です。中世以来の伝統を引き継ぎ、12の郡から構成されています。オランダの自治領としてカリブ海のオランダ領アンティル(Antilles)、サバ(Saba)、シント・マーテン(Sint Maarten)などがあります。

オランダは極めて平坦な国土で、湖、川、そして運河が広がります。6,500 平方キロが干拓によって造られてきました。水の管理の伝統は中世から始まり今に至っています。新しい土地はほとんどが干拓地で、今も排水が続いています。もともとは人力や馬によって排水作業がされていました。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という諺があります。オランダは国土の大部分が低湿地帯です。干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。電気モーターやディーゼルに代わったのは20世紀になってからです。キンデルダイク(Kinderdijk-Elshout)という水車小屋が並ぶ光景はユネスコの世界遺産として登録されています。

風車の発明や改良などにより、大航海に耐える帆船を作るのに充分な技術が生まれます。そして大西洋やインド洋へ乗り出すのです。