心に残る一冊 その71 「西品寺鮪介」 仕官する

山本周五郎の「西品寺鮪介」という作品を紹介する一回目です。
池田光政の家臣佐分利猪十郎が田舎を回っていると、据物を前にして自刃を振るっている野良着姿の若者をを目撃します。眼前三尺の地上をはたと睨んで、咄嗟に「かーっ」と喚くと刀を振り下ろします。「できる!」と猪十郎は呟きます。

「はばかりながら据物とはなんでござるか」猪十郎は尋ねます。
据物とは斬らんとするもののことです。据物の意味がわかった若者は、身をかがめると地面に突っ立ってあった一本の縫い針をつまんで猪十郎の鼻先に差し出します。

「針!針を折りなさるのか、」
「三年べえやっとるが、とんとあ折れましね。なかなか真っ二つにやなんねえ。まあ、死ぬまでにや一本も割れべえかと思ってね」
この若者の名は「鮪介」、「しびすけ」と呼ばれていました。

鮪介には四年前からお民という許嫁がいました。剣術狂いの鮪介は、一本の針をうち割るまでは決して祝言をあげないと云っています。

鮪介は猪十郎の推挙によって城中に召し抱えられるという破格の扱いを受けます。競射が催され鮪介は技を披露させられます。剣法御覧という儀式です。鮪介はわら人形でも括り付けられたように黙った八方破れの構えです。まるで木偶のごとく、木剣をもつ法さえろくに会得していないのです。ですが、打ち込みの早さと殺気の鋭さ、急所にぴたりと入る金剛力によって五人を倒すのです。

光政は云います。「聞けばそのほう農家の次男とか申すことだが、武者修行は武家を望んでのことか?」
「は、はい」
「農は国の基といって大切な業だ。これを嫌って侍を志望いたすなどとは曲事であるが、たって望とあらば光政取り立てて遣わす。どうじゃ、」

こうして侍となった鮪介の家では、親類縁者を招いて二日二晩大盤振る舞いをします。酔いがまわり風に当たっているところに、嫁婿の約束をしていたお民が現れます。
「汝がお城にあがってお侍になると聞いたからびっくりして飛んできただ、本当だか?」
「本当だ、おらあもうじき侍になるだ」
「鮪さ、汝はお侍と剣術の試合をして勝ったというが、それは何かの間違いだと思わしゃらねえか?」
「現におらあ五人まで勝ち抜いているぞ」
「それは魔がさしたとでも云うべきだべ」
鮪はぎくりとします。

「勝ったのは本当かもしれぬ。けれどそれには何か訳がある。なあ、鮪さよ、侍になるなんという無法はやめてどうか、約束通りおらが婿にきてくれろ。そうすれば、わしがなんでも鮪さの思うままにするだ。針が割りたければ、一生涯割っているがいい。汝の分までわしが野良でかせぐだから、なあ、、」