アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その117 先住部族政策

西部の広大な土地は、特定の先住部族が独占的に居住するために法律で保護されていました。しかし、1870年になると、これらの土地に大勢の探鉱者、牧畜業者や農民、大陸横断鉄道員が侵入し、一連の野蛮なインディアン戦争が勃発し、政府の先住部族政策に重大な疑問が投げかけられるようになります。インディアン局の役人の多くは、部族との直接交渉の責任を怠り、その職務を遂行しようとはしませんでした。多くの西部の人々や一部の陸軍将校は、部族問題の唯一の満足できる解決策は、白人が欲しがっているすべての土地から部族を追い出すことであるとまで主張したのです。

 南北戦争後間もなく、改革者たちは先住部族が最終的にアメリカ社会に同化できるようなプログラムを採用することを提唱します。1869年、改革派はグラント大統領と議会を説得し、政府と先住部族との関係を監督する非政治的なインディアン委員会(Board of Indian Commissioners)を設立します。しかし、この委員会は政治的な反対にあい、ほとんど成果をあげることができませんでした。改革者たちは次に、農民として定住生活をする準備ができていると思われる部族の各家族の長に、特定のエーカーの土地の所有権を与えるという法案を提案しました。議会はこの提案に反対しますが、土地を欲しがる西部の人々が、このように土地を分配すれば、膨大な余剰地が生まれ、公有地に追加できると考えます。

 この法律は、大統領に農民としての新しい生活様式を受け入れられると考えられる部族に対し、各家族の長に160エーカー(65ヘクタール)の所有権を、部族の単独メンバーにはより小さな割り当てを与える権限を与えたものでした。この土地は、25年間は先住部族に譲渡することができず、また、先住部族に市民権も与えられるというものでした。改革派は、部族にアメリカ社会で尊厳ある役割を果たす機会をようやく与えたと喜びながらも、部族文化に保存すべき価値があることを見逃してしまいます。他方、土地開発業者たちは、ドーズ法の適用を早め、より多くの土地を占拠し投機するよう歴代大統領に強い圧力をかけていきます。

 ドーズ法とは先住民族の指定居留地(Indian Reservation)の民族的所有地を解体し、個々に個人所有地として割当て,先住民族を独立の自営農民として市民社会に同化させることをねらいとした法律です。同時にそれ以外の余剰地を白人に提供することを主な内容としています。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その40 部族文化の解体と新興宗教

南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は諸部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的改革家は、部族の組織と部族文化を解体し、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般ドーズ法(Dawes Act)と呼ばれる土地割当法が制定されます。それは、保留地の一部を部族個人に単純所有地として割り当て、余剰分を白人耕作者に解放すると規定したもので、軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

Ghost Dance


Sun Dance

その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年にいたって部族に市民権が認められたものの、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。ちなみに1エーカーとは4047平方メートル位で、東京ドームはおよそ11.5エーカーです。ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。