心に残る一冊 その81   「初蕾」 捨て児

半之助の両親は梶井良左右衛門とはま。良左右衛門は、倅の責を負って致仕します。致仕とは、官位を君主に還すことです。ですが殿が「領内に永住すること」というお沙汰があったので、夫婦は蔬菜をつくり、庭の手入れをしながら老後をおくっています。あるとき、はま女が夫に「これからは夜長になりますから、御書見でもあそばせ」、「お書物の行李でも明けましては?」と云うのです。行李の中の書物は半之助のものでした。

  ある夜、良左右衛門とはまの家の裏に捨て児が置かれているのを二人は発見します。そしてその乳飲み子を育てることにし名前を小太郎と名付けます。鳥居という隠居の名主に連れられて若い女が乳母としてやってきます。名を「うめ」といいました。起ち居や言葉つきはずっと世慣れて、蓮葉に思えるほどぱきぱきしていました。蓮葉とは、仕草や言葉が下品で軽はずみなことを示します。それを見て、はま女は云うのです。
「初めに云っておきましょう」
「お乳をやるときは、清らかな正しい心で姿勢もきちんとするようにしてください」
「乳をやる者の気持ちや心がまえは、乳といっしょにみな児に伝わるものですからね。小太郎は侍の児ですから、それだけは忘れず守っていただきます」

うめには欠点が多かったのですが、赤児の世話だけは親身になっていました。風邪けで具合の悪いとき、背負ったまま幾夜か寝ずに看病し、はま女の気持ちを惹き付けていきます。はま女はうめに云います。
「あなた、習字をなさらぬか」
「読み書きぐらいは覚えて損のないものです」
「よかったらお手引きぐらいはしてあげますから」

姿勢を正し、墨を摺る、手本を開き紙をのべ、呼吸を整えて静かに硯へ筆を入れます。習字をした終の清々しさをうめは感じるのです。
「乳をやるときは清らかな正しい気持ちでとおっしゃった、あれはこのような気持ちをいうのだな」
こうして月日は経過していきます。