アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その64  『Badger』とマディソン

Badger(アナグマ) というニックネームは、ウィスコンシン州の豊かな鉛鉱山発掘の歴史に由来します。ホーチャンク(Ho-Chunk)をはじめとする先住民族は、数百年前からウィスコンシン州南西部で鉛を採掘していたのです。ウィスコンシン州の歴史での最も古い領土紛争のいくつかは、植民地化したアメリカ人とヨーロッパ人入植者がこの地域に移り住み始めたときに、この鉱物の豊富な領土をめぐって発生したといわれます。1850年頃にアメリカの鉛消費量の半分以上を採掘していたことから、鉛鉱山周辺では坑道に人が住んでいた時代もありました。それは、初期の鉱夫たちが、貧しかったか、忙しかったか、あるいはその両方であったために、鉛の採掘場に家を建てることができなかったからです。ウィスコンシンの厳しい冬を乗り切るために、彼らは鉱山の中で生活していたのです。地中に穴を掘って動物のように暮らす彼らのことを、人々はアナグマ(Badger) と呼んで嘲笑したようです。

Science Hall

マディソンは1960年代から1970年代にかけてカウンター・カルチャー(Counter Culture)の街としても知られました。カウンター・カルチャーとは、ある時代または社会の主流となっている文化に対し、それを否定する人々によって作り出された反主流の文化のことです。この文化運動は、マディソン市内のダウンタウンにあるミフリン通り(Mifflin St)とバセット通り(Basset St)の周辺に集中し、「ミフランド」(Miffland)と呼ばれていました。この地域には学生やカウンター・カルチャーの若者たちが住み、壁画を描き、共同食料品店などを運営していました。ベトナム反戦活動も盛んになり、ミフリン・ストリート・ブロック・パーティー(Mifflin Street Block Party)という反戦抗議集会が常態化します。しかし、共和党のビル・ダイク(Bill Dyke)市長は、ベトナム戦争に抗議する地元の抗議活動を弾圧したため、学生たちから敵対者とみなされました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、何千人もの学生や市民が反ベトナム戦争の行進やデモに参加し、次のような暴力的な事件も起きて、マディソンとカリフォルニア大学バークレー(University of California -Berkley)キャンパスは全米の注目を浴びることになりました。
 ・1967年 ダウ・ケミカル社(Dow Chemical Company)に対する学生の抗議行動で74人が負傷
 ・1969年 アフリカ系アメリカ人の学生と教職員の代表権と権利を確保しようとするストライキで、ウィスコンシン州兵が出動
 ・1970年 ウィスコンシン大学エーモリー体育館(Armory Gymnasium)内にあった陸軍ROTC本部が被害を受けた火災発生
 ・1970年 同大スターリング・ホール(Sterling Hall)の陸軍数学研究センター(Army Mathematics Research Center)で起きた爆弾事件でポストドク研究員が殺害

Red Gym

ミフリン・ストリート・ブロック・パーティーの鎮圧のために3日間もかかったことがあり、何百人もの警官の残業代が必要となり、近くの学生寮を含む学生コミュニティを巻き込むことになります。こうした騒動で、当時市会議員だった学生運動家のポール・ソグリン(Paul Soglin)は2度逮捕されます。やがてソグリンはマディソン市長に選ばれ3期にわたり努めます。

ウィスコンシンは社会改良の革新的な政治でも知られています。それはニューディール政策の先駆となるウィスコンシン理念(Wisconsin Idea)の発祥地です。ウィスコンシン理念の提唱や実践について、上院議員であったロバート・ラフォレ(Robert LaFollette)とその一族が果たした役割は大きいものがありました。しかし、彼のあとに上院議員となったのはマッカーシズム(McCarthyism)で悪名高いジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)でした。