無駄から「無」を考える その8 ゼロと帰無

「無駄から無を考える」シリーズの最後の稿となった。

我々が毎日使っているコンピュータは、電子計算機という別称のように計算が大得意である。電卓もそうである。だが計算は0,1,2,,,,9 という十個の数字による、いわゆる十進記数法そのままで行われるのではない。日常使う「十進法表記」をコンピュータ内部で「二進法表記」に書き換えた上で、加減乗除がなされ、その結果を十進法表記に書き戻している。

二進法表記とは、「0」と「1」という二つの記号だけであらゆる「自然数」を表す方法である。ここでも位取り記数法が使われ、十進法表記となんら変わりない。コンピュータでは、たったの二つの数字しか必要としない。「0」を「無い」、「1」を「ある」、あるいは0を「No」、「1」を「Yes」としている。「0」と「1」使う二進法の効用とは、あらゆる計算をこの二つの数字で行うことができることである。「0」がいかに重要な数字であるかをいいたいのである。

ゼロに似た語に「null」がある。英語では「ナル」と発音されるがこれは「何もない」という意味である。ラテン語で「無」を意味する「nullus」に由来し、ドイツ語でもnullは0を意味する。英語では、「null」 はzero または empty と交換可能である。例えば、零行列でいうnull matrix は zero matrix、空集合でのnull set は empty setという具合である。

統計学でも「null」が使われる。帰無仮説とされる「null hypothesis」である。帰無仮説とは、ある仮説が正しいかどうかの判断のために立てられる仮説のことだ。例えば、「男と女で読書時間に差はない」とか「二つの薬の効果は同じだ」といったことである。

帰無仮説は棄却されて始めて研究者の調査や実験の意図が達せられる。この意味で無に帰される仮説と呼ばれる。大抵、研究者は否定されることを期待する。だが帰無仮説が採択されたからといっても,必ずしも帰無仮説として立てられた内容が正しいことにはならない。確率と実際の事象には違いはある。従って「無に帰せられる」といってもゼロになるとは違う。ここが少々悩ましい。

無駄から「無」を考えてきたつもりだが、どうもテーマが複雑で筆者の理解はまだまだ十分ではない。多くの時間をかけて調べ、考えてきたことが無に帰するようなのだが、無駄ではなかったと振り返っている。
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無駄から「無」を考える その7 「ゼロということ」

中国への仏教の伝来は一世紀頃と推定されている。仏教伝来以前の中国、紀元前六世紀頃は老子や荘子らの道家思想でいう「無」が広く受け容れられてきた。「無」とはゼロの観念とは異なり「無と有の中間の存在」と考えられたということが日本佛教文化辞典や諸氏百家にみられる。

仏教の根本問題である「空」との関連である。数学的には「0=ゼロ」を意味するのか? XとYという座標軸に沿っている記号を根源で支える点(原点)、ゼロ記号としてのこの支点がなければ、X軸もY軸も存在しない。ゼロは抽象的な形体や世界を指示するための象徴記号として作用している。この0の発見によって無限の数列が可能になった。このような考え方は、インド仏教の根底に流れる思想といわれる。

我々が通常使っている数字は算用数字。これはアラビア数字(Arabic numerals)のことだがもともと起源はインドにあり、インド数字(Indian numerals)とも呼ばれる。それに対してローマ数字(Roman numerals)は文字の組み合わせである。ローマ数字はラテン文字(Latin)の一部を用い、例えば I, II, III, Xという具合である。ローマ数字に「0」という文字はないのも特徴とされる。1000を超える数の表記法は複雑だった思えるが、それには大きな数を扱う機会が少なかったためという説もある。ともあれローマ数字は表記が長いので数字としては限界がある。

珠算というそろばんを使った計算は誰もが一度は経験したことである。そろばんによる計算は、縦の1列が十進法の1つの桁を表していて、上の桁から順次下の桁に降りて計算を行う。これは筆算と異なる点である。十進法であるから0は存在することになる。このとき、そろばんでも筆算でも、無意識のうちに位取りを使っている。

筆算のよいことは、位取りの位置が記録に残り、正否を確認できることだ。そろばんや電卓はそうした記数法は記録に残らない。「零の発見」(岩波新書)の著者は、「アラビヤ文字の占めてきた役割は主として記数数学としての役割だった。位取りの記数方法にまさる記数法は考えにくい」という。パピルス(papyrus)から始まるといわれる紙の上での記録が記数方法の重要さを物語る。
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無駄から「無」を考える その6 サンスクリット語の「シューニャ」

日本佛教語辞典によれば、「空」という語は、古代から中世にかけてインドで使われていたサンスクリット語(Sanskrit)の「シューニャ(Sunya)」ということである。真に実在するものではなく、その真相は空虚とされる。空なることは空性と呼ばれる。このような見方を空観と呼ぶ。サンスクリット語は今もヒンドゥー教(Hindu)や仏教における礼拝用言語である。

アラビア語で「sifr」: シフルという語があるという。その意味は「空」と翻訳されたとある。この「sifr」が、13世紀のはじめ、アラビア記数法、後のインド記数法が伝わったイタリアでラテン語化して 「zephirum」となったようだ。そして最終的には「zero」という語に変化した。一方、中世ヨーロッパの数学界では「ゼロ」をあらわすために、もとのアラビア語とほぼ同じ語である「cifra」(数字)を長く使い続けた。ゼロ、0といったアラビヤ数字を意味する英語は「cipher」という。「cipher」は、「sifr」とか「cifra」が語源であることがわかる。

サンスクリット語の「シューニャ(Sunya)」はなかなか興味深い。この語はやがてフランス語のシニフィエ「signifie」, とかsignifierなど「意味する」とか、「表している」という語に発展したとか。記号表現、記号内容といった使われ方をする。英語の「signify」とか「significant」にあたることはいうまでもない。「意味ある」ということを指す。

「空」がゼロとなり、0が意味ある表記となったのはインド哲学の偉大な貢献の一つといえそうである。
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無駄から「無」を考える その5 「無私ということ」

「私」を無にすることは、無心になることであり、それは「私」を自然に近づけることであるとされる。自然に近づいた「私」が自我を離れた無心の自己になる。

無私とは心を「空」にすることでもない。心が初心であり続けること、いつも自然や他者と共鳴し続けることのできる「無心」の状態にあることである。これは漱石の文学観とも解されている「則天去私」の境地かもしれない。「天に則り私を去る」と訓読する。

総合佛教辞典によれば、仏教における空は、存在論的な虚無や空虚といったことを意味するものではない。存在と非存在、あるいは客体と主体といった二元論的な構図の中で、その一方を否定するものではない。

さらに佛教辞典によれば、事物の無常性、変化性、消滅性を表現するとき仏教では「色即是空」という。「色」とは法とか事物のことであり、それが無常であることを「空」という語によって説明している。法とは、制度、習慣、宗教、法律、道徳、正義といったことを示唆する。しかし、「空」はこの法の常性、永遠、持続の観念を否定したものではない。

佛教辞典は次のようにも云う。「法の空は、一切の現象を否定的に説明するための言表であるよりは、一切の現象を肯定的に説明するための象徴であるという順接の関係をいう。」一切の現象が有として存在するためには、空の構造において始めて可能になる、ということのようである。

非常に難解な解釈であるが、どうも数学の「零の発見」に近づいているように思える。
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無駄から「無」を考える その4 「無常ということ」

前回、自然のままで作為がないこと、因縁とか業によって生成されたものでないことが「無為」であるということについて考えた。それは、変化とか消滅を離れた永遠の存在、涅槃とか悟りの有り様であるらしい。仏教の説話が紹介されている今昔物語は「今となっては昔のことだが、、」で始まる。その中で作者は、「永く無為を得て、解脱の岸に至れり」と宣言している。

さて無常ということである。時の経過に伴って絶えず流動し変化するにつれて、あらゆる事もまた生滅流転する。すなわちこれが無常といわれる。このように無常観は単純にして明快な世界観のようである。

仏教文化事典によれば、日本人が無常観を受容していく過程には二つのタイプがあるといわれる。一つは自分の経験を積むなかで無常を身もって体験し認識することである。経験から帰納する認識である。二つ目は無常を絶対的な命題としてとらえ、それを無条件で受容することである。演繹的に無常を考えるのである

死とか滅亡という否定的な契機によって認識される帰納的な無常においては、無常は招かれざる客として消極的に享受される。体験という過去に注がれて感傷的な性格が顕著となる。だが、演繹的な考えでは、無常は進んで求めるべきという立場だ。なぜなら無常をテコにして将来の解脱が約束されると考えるからである。死を受容し残された時間を生きようとする態度にこの演繹的な無常観が表れている。

筆者の家族史にも、長年ガンと闘い死に向き合い死を受けとめた者がいる。

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shyaka

 

無駄から「無」を考える その3 「無為自然」

今回は、中国、老子の思想からである。「無為自然」という四文字熟語である。「無為」という言葉だが、文字通りなにもしない、という意味である。だが、無為とは「知や欲を働かせず自然に生きること」とある。

総合佛教辞典によれば、「無為」とは万有を生み出し万有の根源となるもの、有と無との対立を絶したものとされる。「全力を尽くすが、その先は天地自然、気の流れに任せるのがもっとも自然で最も幸福な生き方」これが老子らの教えといわれる。

貝塚茂樹の「諸子百家」(岩波書店)には「有と無の超越」という章がある。「道は常に無為にして、しかも為さざる無し」、「故に有の利たるは、無の用をなせばなり」とある。いよいよもって複雑である。さらに「無為自然」とは、「人間や政治の理想的なあり方」とか「万物が道に順って生きる基本となる立ち位置」と云われるのだが、、、

この地球という生命体が今危機に瀕しているという説が広く行き渡ることを勘案すると、「無為自然」は首肯できる概念といわざるを得ないのである。「万物が道に順って生きる基本」からはずれた人間と国のエゴイズムが地球体を危機に陥れているとも考えられるからである。我々の次の、そのまた次の世代に引き継ぐべき地球という共同体は「無為自然」に反する人間の勝手な行為によって危機を迎えているといわれる。

だが、「なにもしないことにも意味がある」というのが中国やインド哲学の神髄のような気がしてくる。有と無の論議は、宗教なのか哲学なのか、その境目は門外漢の筆者には全く分からない。

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無駄から「無」を考える その2 「無」と「有」

無駄という語の他に、無学、無知、無言、無策、無頼、無礼、無粋、無情、無法、無恥、無理、無視、無能、無効、無死、無謀などの言葉を眺めてみる。「無」という漢字は、「否定や禁止を表す助字」(広辞林)とある。対立するかのような概念の「有」という助字の前にはどうも分が悪い。

だが、「無」の使われ方は必ずしも「有」に劣る概念ではないことがわかる。無欲、無性、無想、無念、無償、無益、無事、無私、無名、無常、無上などの語をよくみつめると、そこには人間の大事な生き方が現れているようにも思えるのである。「無」ということが意味のある概念であることだ。「無」が価値を有するということでもある。人間の品格を表す無垢という言葉もある。立派で並ぶものがないことを無二ともいう。

インド哲学によれば、「無」とは「存在しないこと」ではなく「無が存在する」ということらしい。単なる「non-being」ではなく絶対的な根源としての「無」があるというのである。この考えは、数学における「零0」の存在に通じるようである。「零0の発見」によって、数学において無を記述できるようになった。零0の存在は革命的ともいわれる。この零のことは後日取り上げる。

「無数」においても「countless」、「innumerable」というように、存在するが数えることはできないだけなのである。まさに無と有の対立を越えてそれを包括するような概念がここにあるように思える。無期とは有限の時間を表す。懲役100年でも200年も有期でも無期でもある。無と有は表裏一体のようである。

母校、北海道大学には宗教学インド哲学講座があるのを思い出す。

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無駄から「無」を考える その1 人生は無駄の連続か

「人生を無駄に生きている」とか「生きることは無駄の連続だ」としばしば云われる。これも真実なのかもしれないと思うのである。誰もが、自分は有意義に生きているだろうか、なにかのために役立っているだろうかと振り返ることがある。

「無駄」を調べると「それをしただけのかいがないこと」という意味もある。だが、ここでの難問は「なにをしたのか」ということである。今回のISによる人質殺害事件では、K.G.記者の行為に「無謀」とか「無理」とか「蛮勇の行為」という意見もあれば、「無欲」とか「無償」、「無私」とかとらえる意見もある。K.G.氏は「無畏」という泰然として畏れのない境地を悟った人という見方もできる。

だが、あえて批判を甘受するならば「なにもしないことにも意味があるのではないか」とも考えられる。我々は得てして、行動とは目に見える業と考えがちである。しかし、人を思いやったり、祈ったり、瞑想したりすることも「なにもしないこと」のようであるが、実は意味あることだと思うのである。

「無駄」を「無」と「駄」に分解すると天と地ほどの違いがあることに気がつく。この気づきが今回のシリーズの主題である。「無」という漢字を広辞苑で調べると実に沢山の用語がある。どれも我々に生き方に関わることばかりである。「無」のことを探求するのは、泥沼の中に身をおくような気分になる。だがあえて暫くこの難題に挑戦することにする。

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平家物語