文化を考える その6 文化の日のエピソード

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっている。この稿を書きながらこの指摘を考えている。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあるが、こちらは「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia)というように、文化の話題からすこしそれる。だがなぜか「異邦人」という言葉に惹かれる。

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観が我々にとって身近になるような気がする。それは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統からでは意味を理解することが困難だ、ということである。日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られるのを読むことがある。そこでの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論ではなく、生活や環境全体を意識しながら重層的にとらえる見方である。徹底的にエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義を排除していることでもある。

先日、孫娘や娘婿らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日について話題となった。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できる。だが、日本には成人の日、春分の日、秋分の日が祝日になっていること、みどりの日、文化の日などがあることに興味を示した。

筆者が特に説明に窮したのは文化の日の意義である。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、得心する顔ではなかった。これではいかんと思い調べると、もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するというのだ。確かに、戦後しばらくの間、両親らがこの日を「天長節」と呼んでいた。明治天皇は国民にとって偉大な存在だったようである。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも説明した。すると娘婿が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠にこちらを困らせる質問をしてきた。

Meiji_tenno1 文化の日