アメリカ合衆国建国の歴史 その89 大陸の西部進出と政治的危機

19世紀を通じて、東部の入植者たちはミシシッピ渓谷やその対岸側へと進出し続け、フロンティアをさらに西へと押いやっていきます。ルイジアナ購入地は、開拓者たちとその後に続く者たちに十分なスペースを提供しました。しかし、アメリカ人の放浪癖(wanderlust)は、この地域に限ったことではありませんでした。時代を通じて、アメリカ人はルイジアナ領の南、西、北の地域に移動していきます。これらの土地の大半はメキシコやイギリスが領有権を有していたため、必然的にこれらの国々とアメリカとの間で争いが起こります。

アメリカ国民のナショナリズムの高まりは、民主党のジャクソン大統領、1845年から-1849年のジェームズ・ポーク(James K. Polk)大統領、1841年から1845年まで務めた拡張主義のホイッグ大統領ジョン・タイラー(John Tyler)によって、「自由のための帝国」を拡大するという目標達成の原動力となります。これらの大統領は、それぞれ抜け目のないほどの行動をとります。ジャクソンは、友人のサム・ヒューストン(Sam Houston)がメキシコと新たに独立したテキサス州との関係を解消することに成功した1年後に、テキサス共和国と正式な関係を結ぶのに成功します。タイラーは、上院が彼の提案した併合条約を圧倒的に拒否したため、テキサス州の連邦への編入を各議会が僅差で投票できるよう、共同決議の提案に踏み切ります。

James Polk

ポークは、1846年に49度線以南のオレゴン州(Oregon)を合衆国に返還する条約をイギリスと交渉することに成功します。これはまさに、イギリスが拒否していた案件でありました。ポークは、メキシコ領ニューメキシコとカリフォルニア上部を獲得するためにいかなる手段もいとわず、国境紛争を口実にメキシコと戦争を始めます。米墨戦争(Mexican-American War)は広く賞賛されるものではなく、多くの下院議員はこれを嫌っていたのですが、その戦争遂行の資金調達のための予算計上にあえて反対する者はほとんどいませんでした。

John Tyler

これらの領土の拡張政策は、国民の支持を得たという証拠はないのですが、広く反対を呼び起こすものでもありませんでした。しかしながら、1844年のポークの大統領当選がテキサス併合を求める民衆の声であると説明する拡張主義者の主張は、確かなものであるとは言い難たかったのです。クレイは僅差で敗れ、自由党とネイティヴィスト(nativist)の少数の有権者がホイッグから離反しなければ、クレイは勝利を収めていたといわれます。1840年代に民主党の論説主幹らによって考案された、太平洋まで西進するのはアメリカの「明白な運命」であるという民族主義的な考えは、その後まもなくポークが行った戦闘的な政策に対して世論をひきつけたことは確かです。この考え方は、アメリカ国民の気分を代弁したものと言われています。