懐かしのキネマ その7 戦争と平和

アメリカの映画監督で異彩を放つのがオリヴァー・ストーン(Oliver Stone)です。合衆国陸軍に志願しヴェトナムで従軍した経歴の持ち主です。彼の多くの作品の傾向は、連邦政府やアメリカ政治を強く批判していることに現れています。特にヴェトナム戦争に対する強い懐疑は、映画「プラトーン」(Platoon)で示されています。戦争が人間に与えた影響を描き一躍有名になったのがこの作品です。無抵抗のヴェトナム村民に対する放火や虐殺、虐待や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬常用や殺人、誤爆や同士討ちなど、軍隊の恥部を描いています。プラトーンとは歩兵小隊という軍事用語です。主演はクリス・テイラー(Chris Taylor)を演じたチャーリー・シーン(Charlie Sheen)です。

ストーンは「JFK」という映画も監督しています。ケネディ大統領暗殺事件の真相究明に執念を燃やす地方検事ジム・ギャリソン(Jim Garrison)の姿を描いた現代ミステリードラマです。この映画の本質は、合衆国政府が公式に発表した究明レポートに対する疑惑を提起していることです。政府というのは得てして、「記憶にない」と説明し、真実を隠し、ねじ曲げることによって大衆からの批判や攻撃をかわすものです。

1988年に制作されたのが「プライベート・ライアン」(Saving Private Ryan)です。主演は中隊長ミラー(John Miller)大尉を演じたトム・ハンクス(Tom Hanks)で、監督はスピルバーグ(Steven Spielberg)です。ノルマンディー(Normandy)上陸作戦を成功させたアメリカ軍ですが、ドイツ国防軍の激しい迎撃にさらされ多くの戦死者を出します。そんな中、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall)の元に、ある兵士らの戦死報告が届きます。それはライアン家の四兄弟のうち三人が戦死したというものです。残る末子ジェームズ・ライアン(James Ryan) がノルマンディー上陸作戦の前日に行なわれた空挺降下の際に「敵地で行方不明になった」という報告が入ります。マーシャルはライアンを保護して本国に帰還させるように命令するのです。

救出命令を受けた中隊長ミラーの大隊は、ライアンがいると思われるフランス内陸部へ向かいます。大隊は味方がドイツ軍と交戦中の村に入り、戦闘に参加します。ついに探し求めていたライアンを発見し、ミラーはライアンに帰還するように命令します。ところがライアンは、「It Doesn’t Make Any Sense」「なにを言っているんだ、この戦場の同僚を見捨てて国に帰れるか!」とミラー中隊長の命令を拒否するのです。

懐かしのキネマ その6 「戦場のピアニスト」と「野いちご」

「戦場のピアニスト」(The Pianist)を監督したのが、ポーランド人のロマン・ポランスキー(Roman Polanski)です。良くも悪くもいろいろな話題の多い監督だったようです。ユダヤ人に対して行った組織的、国家的迫害であるホロコースト(Holocaust)の悲劇を映画で訴えるのは時代や人種を超えて人々に訴えるものがあります。ポランスキーもユダヤ系ポーランド人として、この映画製作に傾注したことが伝わります。「戦場のピアニスト」の要旨です。

1939年ナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、主人公シュピルマン(Władysław Szpilman)はワルシャワ(Warsaw)の放送局で演奏するピアニストでした。ワルシャワ陥落後、ユダヤ人はゲットー(ghetto)と呼ばれる強制居住区に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられます。やがて何十万ものユダヤ人が収容所へ移されるようになる頃、1人収容所行きを免れたシュピルマンは、砲弾が飛び交い、街が炎に包まれる中で必死に生き延びるのです。ある晩、彼は隠れ家で1人のドイツ人将校に見つかります。自分がピアニストだったことを告げると、将校はなにか弾くように命令します。そこでシュピルマンはショパン (Frédéri Chopin)のバラード第1番を弾くのです。この将校も音楽を愛していて、シュピルマンの演奏に感じ入りマントや食糧などを届けるのです。

スウェーデン(Sweden)を代表する映画監督にイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)がいます。「野いちご」(Wild Strawberries)という作品は、功績を認められ名誉学位を受けることになった老教授イサク(Isaac)の一日が舞台です。授与式の前日、イサクは自分の死を暗示する夢を見るのです。人生の終わりにさしかかった老教授が、人間の老いや死、家族、夢を追想するのです。青春時代の失恋の思い出を野いちごに託した叙情的な作品と呼ばれています。ベルイマンの最高傑作の一つといわれていますが、内容が難しいだけにじっくり観る必要がある作品です。その他、「第七の封印」、「処女の泉」などどれも深い精神性や人生の意味を考えさせる作品を世に送っています。ベルイマンを20世紀最大の映画監督と呼ぶ人もいます。

懐かしのキネマ その2 サウンドトラック

映画には主題曲があります。サウンドトラック(サントラ)(soundtrack)で良く知られています。前回少し触れた映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーンリバー」(Moon River)は、作曲家ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancine)というイタリア系アメリカ人によるものです。ニューヨークのアパートで猫と暮らしている娼婦ホリー(Holly) は、宝石店ティファニーの前で朝食のパンを食べるのが大好きです。やがて彼女のアパートに作家志望の青年ポールが引っ越してきます。2人の愛のさや当てに相応しい甘ったるいメロディに酔いしれます。

映画「ひまわり」(Sunflower)のサントラ「愛のテーマ」もマンシーニの作曲です。1970年に製作されたこの映画は、戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を描いた作品で、キャストは、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)とマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)。エンディングでの地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が記憶に残ります。ロマンチックなサスペンス映画のサントラ「シャレード」(Charade)も甘ったるい名曲です。「刑事コロンボ」の主題曲もあります。映画「別働隊」の主題歌「モナ・リサ」(Monna Lisa)もあります。第二次大戦中、北イタリアを舞台としたパルチザン(ゲリラ–Partisan)の活躍を描いたものでした。マンシーニの作品はどれも印象に残るものです。

1997年のアメリカ映画「タイタニック」(Titanic)の主題歌「 My Heart Will Go On」も印象に残る曲です。作曲者はジェームズ・ホーナー(James Horner)。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme) も趣があります。作曲はモーリス・ジャール(Maurice Jarre)です。主演は、オマー・シャリフ(Omar Sharif) とジュリー・クリスティ(Julie Christie)でした。このように映画にとってはサントラは、欠かすことのできない助演者のような存在であることがわかります。

懐かしのキネマ その1 映画雑誌 

今回から映画に関する話題を取り上げていきます。私は父の影響を受けた大の映画ファンです。父とは生前は時々観に行ったものです。最後に一緒に観たのは「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai) でした。映画雑誌、名監督、名俳優や脇役、名作映画、サウンドトラック、映画の文化などを綴ってみます。

映画はキネマ (kinema) とも呼ばれます。キネマトグラフ(kinematograph)の略字です。「キネマ旬報」という映画雑誌があります。1919年7月に創刊されて今も発行されています。名称からはレトロ趣味の感じがします。毎年、「日本映画ベスト・テン」・「外国映画ベスト・テン」・「文化映画ベスト・テン」が選出されて名画が紹介されています。最近は読者の投票でもっとも人気が高かった作品として「キネマ旬報読者賞」が作られています。今となっては懐かしい「映画の友」とか「映画情報」という雑誌もありました。シネマ(cinema) という単語もあります。同じく映画という意味ですが、この単語で思い出すのは、「シネマ‐スコープ(CinemaScope)」です。映画館で横長のスクリーンに驚いたものです。もちろん「総天然色」でした。

「スクリーン」という映画雑誌を覚えている人はよっぽど映画が好きな人です。発行が 1946年という歴史があります。洋画専門の雑誌です。カラーページなので、書店で手にとっては「観たいな、、」とつぶやきました。「スクリーン」の表紙には、しばしばオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)が登場しました。ハリウッド黄金時代に活躍した女優です。1953年の「ローマの休日」(Holiday in Rome)や1963年の「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany’s)など、鼻から抜けるような彼女の発音は忘れられません。

「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

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「幸せとはなにか」 その18 杉原千畝氏のことー日本のオスカー・シンドラー

現在、外務省が保管する杉原千畝氏がビザ発給者の名を記したリスト「杉原リスト」には 通過ビザを発行した2,100名以上のユダヤ人の名前があるといわれる。公式記録から大勢の人が抜けているとうことがわかり、杉原氏が実際にビザを発給したユダヤ人は6,000人にものぼるといわれている。戦後、杉原氏がユダヤ人から「日本のオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)」といわれた所以である。

話柄を変えるが、「シンドラーのリスト(Schindler’s List)」という映画が1994年にスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)によって作られる。オスカー・シンドラーのユダヤ人救済を描いたものだ。シンドラーはナチス党の党員ではあった。ポーランドのクラカウ(Krakau)の町へやってきて、潰れた工場を買い取って“軍需工場”であるほうろう容器工場の経営を始める。ポーランド占領のドイツ軍から特別の格付けを受けたのである。

シンドラーは、手練手管を使いこの工場では労働者が生産ラインに不可欠だと主張する。このようにして、強制収容所へ移送される危険が迫ったユダヤ人を雇用することができた。有能なユダヤ人会計士アイザック・シュターン(Isaac Stern)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れるという筋書きである。

さて、杉原千畝氏のその後に関してである。外務省の訓令に反し、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。そのため戦後、訓令違反ということで外務省を辞めざるをえなくなった。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という述懐が残っている。2000年、当時の外務大臣河野洋平の演説によって、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復がなされた。戦後55年も経ってからのことである。

oscar oscar2 Schindler’s Listから

「幸せとはなにか」 その17 杉原千畝氏のことー通過ビザの発給

ナチス・ドイツは、1940年にベルギー(Belgium)、チエッコ(Czech)、デンマーク(Denmark)、フランス(France)、オランダ(Holand)、ルクセンブルグ(Luxembourg)、ノルウェー(Norway)、ポーランド(Porland)、を占領しソ連との戦を始めようとしていた。リトアニア在住のユダヤ人の脱出は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路であった。

日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要であった。幸いリトアニアにあったオランダ領事館は、カリブ海にあるオランダの植民地キュラソー(Curasao)行きのビザの発給を始める。「キュラソー・ビザ」をとったユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日といわれる。日独伊三国間条約が結ばれる直前である。ヨーロッパ各国はナチス・ドイツに占領され、そこを経由することは絶望だったからである。リトアニアにまだ残っていた日本領事館で通過ビザを取ろうとした。日本経由で脱出しようとしたのである。

ユダヤ人が日本へ行くために、ソ連国内通過がどうして可能だったかである。Wikipediaによると当時ソ連は共産党の支配とされていたが、実際には裏の組織である国家保安省、後の国家保安委員会:KGBが支配していたとされる。そして国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だったという事情が働いていた。

領事代理の杉原氏のビザ発行に対する打診に外務省は「ビザ発給拒否」と回答する。杉原氏はソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。そして発給を決意する。”I did it my way.”を実行した稀有の外交官であり人道主義者であった。

map_lithuania sugihara 杉原千畝氏

「幸せとはなにか」 その16 杉原千畝氏のこと-ユダヤ人の運命

世界史が好きな筆者にはなぜかバルト三国のことが忘れられない。バルト三国の一つ、エストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたのは1995年である。ヘルシンキ(Helsinki)での学会のついでにフェリーで次女と一緒にフィンランド湾を渡った。

エストニアのソビエト連邦からの独立は1991年であるから独立を回復して4年目であった。あちこちの建物の壁に銃弾の跡が残っていた。ラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)と並んでエストニアはバルト三国(Baltic states)の一つである。

地図を見るとこの三国はドイツとロシアに囲まれている。そのため第二次世界大戦でほんろうされた歴史がある。ロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国、ポーランド、スエーデンがバルト三国を席巻したことがある。大戦中はナチス・ドイツとソ連にじゅうりんされた。

第二次世界大戦前にリトアニアはスイスと同じように中立国と考えられていた。そのためナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人はリトアニアに移住していたのである。ところがソ連がリトアニアを併合することが確実となる。1940年7月、親ソ政権がリトアニアに誕生する見通しとなり、いずれはドイツとソ連の戦いが始まることが予想されるようになる。

そこでユダヤ人らは、リトアニアを出国する自由は奪われてしまうと考えソ連に併合される前にリトアニアを脱出しようとしたのである。その頃、リトアニアの日本領事館で領事代理をしていたのが杉原千畝氏であった。

tallinn-old-town_796197c  Tallinn, EstoniaView-of-Tallinn-Old-Town

「幸せとはなにか」 その15 「キロギ・アパ」

ハングルで”기러기”とは雁、”아빠”はお父さんという意味である。お隣韓国の教育熱は我が国でも知られている。かつての我が国における受験戦争の比ではない。

韓国では、子息に英語での意思疎通能力を身につけさせようと懸命になっている。そのために子どもと妻を海外に送り出し、自国にて一人で働きながら生活する父親が沢山いる。こうした父親のことを「キロギ・アパ」「雁のようなお父さん」と呼ぶそうである。雁は渡り鳥で、父親が海外と国内を行き来することからこのようにいわれる。学歴社会を背景とする過度な教育熱と、孤独になった父親の精神的な負担などが社会的な問題となって久しいようである。

海外で学び仕事の経験を積むことが大事だと韓国人は日本人以上に考えているのは確かだ。現在アメリカの大学には韓国人が日本人の50倍はいるはずである。そして自国より住み心地が良いと感じているに違いない。

キロギ・アパといえば、筆者もその一人である。子どもたちをアメリカで教育し、彼らと別れて日本で長く生活している。子どもたちは教育を受け、仕事に就き、結婚し子育てに忙しい。「学歴社会を背景とする過度な教育熱」に毒されたのではなく、子どもが自分の進路を選んだのである。

米国というところは、長く住めば住むほど永住したくなるような不思議な魅力を持っている。それを海外からやってくる者は一種の幻覚のように感じるのだ。幸せを実現してくれるといった目眩のようなものである。そういう感覚を筆者も体験したことがある。

206E064F4EE1AA162F7E68 7088766.1 「送金」するお父さん

「幸せとはなにか」 その14 星野冨弘氏のうたから

星野冨弘氏のことである。中学校の体育教師をしているとき部活での指導中、頸髄を損傷し手足の自由をなくしてしまう。その後は、筆を口にくわえて草花を描き、言葉を添える詩人となって「愛、深き淵より」など多くの作品を残している。

車椅子の上で描いた絵や詩からは、星野氏の想像の世界が広がっている。それは、手足の自由を失った者ならではの情感に溢れている。草花をじっくり観察し、その特徴を見逃さないでペンや絵筆に乗せている。やさしい言葉が並ぶ。

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喜びが集まったよりも、悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。
 強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近いような気がする。
 しあわせが集まったよりも、ふしあわせが集まった方が愛に近いような気がする。

○言葉に深い意味が伝わってくる。これほど言葉と思想が一体となる詩歌はあまり読んでいなかった。「強い」とか「弱い」というのはなにか。

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辛いという字がある
  もう少しで
   幸せになれそうな字である

○「土」を上に付け加えると「幸」になるとは、、。地面に足をつけてもう少し踏ん張ることの大事さを歌っているようだ。

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「人生が二度あれば」とは、
   今の人生を諦めてしまうから
    出てくる言葉です。

○いつも悔いの残る毎日である。もう少しできたのだが、ということを繰り返して生きている。「明日ありと思う心の仇桜、、、、、」

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神様がたった一度だけ
  この腕を動かしてくださるとしたら
   母の肩をたたかせてもらおう。

○眼の不自由な人が、一度だけ母親の顔を見たいといっていた。深い愛を伝えるのに言葉は誠に不十分だが、それ意外に伝える手段がない。それにしても母親の存在はなににも代え難い。今日は1月17日。

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