ウクライナの歴史から学ぶ その五 リトアニアとポーランドの統治

3世紀にわたるリトアニアとポーランドの統治17世紀中頃のウクライナは大きな変容を遂げていきます。キーウ公国に端を発する王侯による支配階級の一族は、リトアニアとポーランド統治によって特権を得ていきます。東方正教会やルテニア言語によって、ポーランド文化化(Polonization)がルテニア貴族の間に浸透していきます。これは、イエズス会(Jesuits) の学校やローマ・カトリックの影響によるものです。

ウクライナ西部の街や周辺での貿易が盛んになり、中産階級(burghers)が社会的な階層となってきます。ギルト組織や宗教や民族という2つの階級に分かれていきます。13世紀以来、ポーランド人、アルメニア人、ゲルマン人、ユダヤ人(Jewish)が都会に定住するとともに、ウクライナ人は少数派となっていきます。

中産階級は、ウクライナ社会で主だった役割を発揮しますが、法律上の不平等から非カトリック教徒にとってはマグデブルク法(Magdeburg Law)によって、地方の自治や政治には限られた参加しかできませんでした。マグデブルク法は、神聖ローマ帝国の初代皇帝のオットー1世(Otto I)により作られた地域の支配者による市や村の統治に関する法律です。

Fiddler on the Foof

ポーランドの支配下で中産階級は次第に没落していきます。自由な農民は存在はその力が増していき、小作人は農奴への賦役の対応に苦慮していきます。16世紀の終わり頃には、東ウクライナでは農民が反乱を起こし始めます。人口が希薄な地帯がポーランドの領土となり、ヨーロッパの食糧市場の要求にそって、大きな農村地帯が形成されていきます。こうした農業地帯に必要な労働者を惹き付けるために、農民には期限付きながら納税などの賦役が免除されます。

Ladies in Fiddler on the Roof

しかし、納税義務が失効し、賦役が再度課せられにつれ、自由を求める農民は荒野といわれていたウクライナの東方や南方の草原地帯へと移動していきます。次第に農民の緊張は悪化していきます。農民はウクライナ人や東方正教会の信徒であり、領土の持ち主はポーランド人やローマカトリック教徒でありました。無人の土地を耕していたのはユダヤ人(Jewish) でした。こうして、社会的な不安を抱いた人々は絆を強めながら、宗教的な角逐に直面していきます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十四 ワイオミング州–Equal Rights

車のナンバープレートに印字される州のモットーを取り上げてきました。このモットーからそれぞれの州の歴史や特徴が分かってきます。今回はワイオミング(Wyoming)州です。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少ない州都でもあります。

ワイオミング(Wyoming)とはインディアンの言葉で「大平原」を意味するそうです。州の東側3分の1はハイプレーンズと西側3分の2はロッキー山脈東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス、農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たるものです。

Yellowstone National Park

イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)がこの州の北西部に広がります。年間600万人が訪れます。合衆国で最古の国立公園で、シンボルになっている間欠泉や温泉の見所で有名です。同じく最初の国定記念物として指定されているのが、デビルスタワー(Devil’s Tower)です。アメリカ先住民族から神聖視される岩山で登ることができます。

Shane

州のモットーは、「Equality State」という少々地味な名称です。1869年に合衆国の地方議会で最初に女性に参政権 (Suffrage) が認められます。ほどなくして1870年2月に、エスター・モリス(Ester H. Morris)が州判事に任命されます。ララミー(Laramie)という街で、参政権によって最初に投票したのは、ルイザ・スエイン(Mrs. Louisa Swain)です。1894年には、エステル・リール(Estelle Reel)がアメリカで最初の州教育長官(State Superintendent of Public Instruction)になります。さらに、1924年にネリー・ロス(Nellie T. Ross) が合衆国で最初の女性知事として選ばれます。男女同権を意味するのが「Equality 」です。

懐かしのキネマ その7 戦争と平和

アメリカの映画監督で異彩を放つのがオリヴァー・ストーン(Oliver Stone)です。合衆国陸軍に志願しヴェトナムで従軍した経歴の持ち主です。彼の多くの作品の傾向は、連邦政府やアメリカ政治を強く批判していることに現れています。特にヴェトナム戦争に対する強い懐疑は、映画「プラトーン」(Platoon)で示されています。戦争が人間に与えた影響を描き一躍有名になったのがこの作品です。無抵抗のヴェトナム村民に対する放火や虐殺、虐待や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬常用や殺人、誤爆や同士討ちなど、軍隊の恥部を描いています。プラトーンとは歩兵小隊という軍事用語です。主演はクリス・テイラー(Chris Taylor)を演じたチャーリー・シーン(Charlie Sheen)です。

ストーンは「JFK」という映画も監督しています。ケネディ大統領暗殺事件の真相究明に執念を燃やす地方検事ジム・ギャリソン(Jim Garrison)の姿を描いた現代ミステリードラマです。この映画の本質は、合衆国政府が公式に発表した究明レポートに対する疑惑を提起していることです。政府というのは得てして、「記憶にない」と説明し、真実を隠し、ねじ曲げることによって大衆からの批判や攻撃をかわすものです。

1988年に制作されたのが「プライベート・ライアン」(Saving Private Ryan)です。主演は中隊長ミラー(John Miller)大尉を演じたトム・ハンクス(Tom Hanks)で、監督はスピルバーグ(Steven Spielberg)です。ノルマンディー(Normandy)上陸作戦を成功させたアメリカ軍ですが、ドイツ国防軍の激しい迎撃にさらされ多くの戦死者を出します。そんな中、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall)の元に、ある兵士らの戦死報告が届きます。それはライアン家の四兄弟のうち三人が戦死したというものです。残る末子ジェームズ・ライアン(James Ryan) がノルマンディー上陸作戦の前日に行なわれた空挺降下の際に「敵地で行方不明になった」という報告が入ります。マーシャルはライアンを保護して本国に帰還させるように命令するのです。

救出命令を受けた中隊長ミラーの大隊は、ライアンがいると思われるフランス内陸部へ向かいます。大隊は味方がドイツ軍と交戦中の村に入り、戦闘に参加します。ついに探し求めていたライアンを発見し、ミラーはライアンに帰還するように命令します。ところがライアンは、「It Doesn’t Make Any Sense」「なにを言っているんだ、この戦場の同僚を見捨てて国に帰れるか!」とミラー中隊長の命令を拒否するのです。

懐かしのキネマ その6 「戦場のピアニスト」と「野いちご」

「戦場のピアニスト」(The Pianist)を監督したのが、ポーランド人のロマン・ポランスキー(Roman Polanski)です。良くも悪くもいろいろな話題の多い監督だったようです。ユダヤ人に対して行った組織的、国家的迫害であるホロコースト(Holocaust)の悲劇を映画で訴えるのは時代や人種を超えて人々に訴えるものがあります。ポランスキーもユダヤ系ポーランド人として、この映画製作に傾注したことが伝わります。「戦場のピアニスト」の要旨です。

1939年ナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、主人公シュピルマン(Władysław Szpilman)はワルシャワ(Warsaw)の放送局で演奏するピアニストでした。ワルシャワ陥落後、ユダヤ人はゲットー(ghetto)と呼ばれる強制居住区に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられます。やがて何十万ものユダヤ人が収容所へ移されるようになる頃、1人収容所行きを免れたシュピルマンは、砲弾が飛び交い、街が炎に包まれる中で必死に生き延びるのです。ある晩、彼は隠れ家で1人のドイツ人将校に見つかります。自分がピアニストだったことを告げると、将校はなにか弾くように命令します。そこでシュピルマンはショパン (Frédéri Chopin)のバラード第1番を弾くのです。この将校も音楽を愛していて、シュピルマンの演奏に感じ入りマントや食糧などを届けるのです。

スウェーデン(Sweden)を代表する映画監督にイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)がいます。「野いちご」(Wild Strawberries)という作品は、功績を認められ名誉学位を受けることになった老教授イサク(Isaac)の一日が舞台です。授与式の前日、イサクは自分の死を暗示する夢を見るのです。人生の終わりにさしかかった老教授が、人間の老いや死、家族、夢を追想するのです。青春時代の失恋の思い出を野いちごに託した叙情的な作品と呼ばれています。ベルイマンの最高傑作の一つといわれていますが、内容が難しいだけにじっくり観る必要がある作品です。その他、「第七の封印」、「処女の泉」などどれも深い精神性や人生の意味を考えさせる作品を世に送っています。ベルイマンを20世紀最大の映画監督と呼ぶ人もいます。

懐かしのキネマ その2 サウンドトラック

映画には主題曲があります。サウンドトラック(サントラ)(soundtrack)で良く知られています。前回少し触れた映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーンリバー」(Moon River)は、作曲家ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancine)というイタリア系アメリカ人によるものです。ニューヨークのアパートで猫と暮らしている娼婦ホリー(Holly) は、宝石店ティファニーの前で朝食のパンを食べるのが大好きです。やがて彼女のアパートに作家志望の青年ポールが引っ越してきます。2人の愛のさや当てに相応しい甘ったるいメロディに酔いしれます。

映画「ひまわり」(Sunflower)のサントラ「愛のテーマ」もマンシーニの作曲です。1970年に製作されたこの映画は、戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を描いた作品で、キャストは、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)とマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)。エンディングでの地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が記憶に残ります。ロマンチックなサスペンス映画のサントラ「シャレード」(Charade)も甘ったるい名曲です。「刑事コロンボ」の主題曲もあります。映画「別働隊」の主題歌「モナ・リサ」(Monna Lisa)もあります。第二次大戦中、北イタリアを舞台としたパルチザン(ゲリラ–Partisan)の活躍を描いたものでした。マンシーニの作品はどれも印象に残るものです。

1997年のアメリカ映画「タイタニック」(Titanic)の主題歌「 My Heart Will Go On」も印象に残る曲です。作曲者はジェームズ・ホーナー(James Horner)。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme) も趣があります。作曲はモーリス・ジャール(Maurice Jarre)です。主演は、オマー・シャリフ(Omar Sharif) とジュリー・クリスティ(Julie Christie)でした。このように映画にとってはサントラは、欠かすことのできない助演者のような存在であることがわかります。

懐かしのキネマ その1 映画雑誌 

今回から映画に関する話題を取り上げていきます。私は父の影響を受けた大の映画ファンです。父とは生前は時々観に行ったものです。最後に一緒に観たのは「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai) でした。映画雑誌、名監督、名俳優や脇役、名作映画、サウンドトラック、映画の文化などを綴ってみます。

映画はキネマ (kinema) とも呼ばれます。キネマトグラフ(kinematograph)の略字です。「キネマ旬報」という映画雑誌があります。1919年7月に創刊されて今も発行されています。名称からはレトロ趣味の感じがします。毎年、「日本映画ベスト・テン」・「外国映画ベスト・テン」・「文化映画ベスト・テン」が選出されて名画が紹介されています。最近は読者の投票でもっとも人気が高かった作品として「キネマ旬報読者賞」が作られています。今となっては懐かしい「映画の友」とか「映画情報」という雑誌もありました。シネマ(cinema) という単語もあります。同じく映画という意味ですが、この単語で思い出すのは、「シネマ‐スコープ(CinemaScope)」です。映画館で横長のスクリーンに驚いたものです。もちろん「総天然色」でした。

「スクリーン」という映画雑誌を覚えている人はよっぽど映画が好きな人です。発行が 1946年という歴史があります。洋画専門の雑誌です。カラーページなので、書店で手にとっては「観たいな、、」とつぶやきました。「スクリーン」の表紙には、しばしばオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)が登場しました。ハリウッド黄金時代に活躍した女優です。1953年の「ローマの休日」(Holiday in Rome)や1963年の「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany’s)など、鼻から抜けるような彼女の発音は忘れられません。

「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

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「幸せとはなにか」 その18 杉原千畝氏のことー日本のオスカー・シンドラー

現在、外務省が保管する杉原千畝氏がビザ発給者の名を記したリスト「杉原リスト」には 通過ビザを発行した2,100名以上のユダヤ人の名前があるといわれる。公式記録から大勢の人が抜けているとうことがわかり、杉原氏が実際にビザを発給したユダヤ人は6,000人にものぼるといわれている。戦後、杉原氏がユダヤ人から「日本のオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)」といわれた所以である。

話柄を変えるが、「シンドラーのリスト(Schindler’s List)」という映画が1994年にスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)によって作られる。オスカー・シンドラーのユダヤ人救済を描いたものだ。シンドラーはナチス党の党員ではあった。ポーランドのクラカウ(Krakau)の町へやってきて、潰れた工場を買い取って“軍需工場”であるほうろう容器工場の経営を始める。ポーランド占領のドイツ軍から特別の格付けを受けたのである。

シンドラーは、手練手管を使いこの工場では労働者が生産ラインに不可欠だと主張する。このようにして、強制収容所へ移送される危険が迫ったユダヤ人を雇用することができた。有能なユダヤ人会計士アイザック・シュターン(Isaac Stern)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れるという筋書きである。

さて、杉原千畝氏のその後に関してである。外務省の訓令に反し、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。そのため戦後、訓令違反ということで外務省を辞めざるをえなくなった。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という述懐が残っている。2000年、当時の外務大臣河野洋平の演説によって、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復がなされた。戦後55年も経ってからのことである。

oscar oscar2 Schindler’s Listから

「幸せとはなにか」 その17 杉原千畝氏のことー通過ビザの発給

ナチス・ドイツは、1940年にベルギー(Belgium)、チエッコ(Czech)、デンマーク(Denmark)、フランス(France)、オランダ(Holand)、ルクセンブルグ(Luxembourg)、ノルウェー(Norway)、ポーランド(Porland)、を占領しソ連との戦を始めようとしていた。リトアニア在住のユダヤ人の脱出は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路であった。

日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要であった。幸いリトアニアにあったオランダ領事館は、カリブ海にあるオランダの植民地キュラソー(Curasao)行きのビザの発給を始める。「キュラソー・ビザ」をとったユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日といわれる。日独伊三国間条約が結ばれる直前である。ヨーロッパ各国はナチス・ドイツに占領され、そこを経由することは絶望だったからである。リトアニアにまだ残っていた日本領事館で通過ビザを取ろうとした。日本経由で脱出しようとしたのである。

ユダヤ人が日本へ行くために、ソ連国内通過がどうして可能だったかである。Wikipediaによると当時ソ連は共産党の支配とされていたが、実際には裏の組織である国家保安省、後の国家保安委員会:KGBが支配していたとされる。そして国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だったという事情が働いていた。

領事代理の杉原氏のビザ発行に対する打診に外務省は「ビザ発給拒否」と回答する。杉原氏はソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。そして発給を決意する。”I did it my way.”を実行した稀有の外交官であり人道主義者であった。

map_lithuania sugihara 杉原千畝氏

「幸せとはなにか」 その16 杉原千畝氏のこと-ユダヤ人の運命

世界史が好きな筆者にはなぜかバルト三国のことが忘れられない。バルト三国の一つ、エストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたのは1995年である。ヘルシンキ(Helsinki)での学会のついでにフェリーで次女と一緒にフィンランド湾を渡った。

エストニアのソビエト連邦からの独立は1991年であるから独立を回復して4年目であった。あちこちの建物の壁に銃弾の跡が残っていた。ラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)と並んでエストニアはバルト三国(Baltic states)の一つである。

地図を見るとこの三国はドイツとロシアに囲まれている。そのため第二次世界大戦でほんろうされた歴史がある。ロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国、ポーランド、スエーデンがバルト三国を席巻したことがある。大戦中はナチス・ドイツとソ連にじゅうりんされた。

第二次世界大戦前にリトアニアはスイスと同じように中立国と考えられていた。そのためナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人はリトアニアに移住していたのである。ところがソ連がリトアニアを併合することが確実となる。1940年7月、親ソ政権がリトアニアに誕生する見通しとなり、いずれはドイツとソ連の戦いが始まることが予想されるようになる。

そこでユダヤ人らは、リトアニアを出国する自由は奪われてしまうと考えソ連に併合される前にリトアニアを脱出しようとしたのである。その頃、リトアニアの日本領事館で領事代理をしていたのが杉原千畝氏であった。

tallinn-old-town_796197c  Tallinn, EstoniaView-of-Tallinn-Old-Town