一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。
この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。
「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。
藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。