クルト・レビンとT-groups

この欄で社会心理学者のフェスティンガー(Leon Festinger) を紹介しました。彼の学術上の成果を生んだのは指導教官であったクルト・レビン(Kurt Lewin)です。彼もまたユダヤ人の家系です。ポーランドで生まれやがてベルリン大学 (University of Berlin)で学位をとります。

しかし、ナチスの政権掌握によりレビンなどユダヤ人の学者は大学から追放されます。1933年にアメリカに亡命し、その後はスタンフォード大学 (Stanford University) やコーネル大学(Cornell University)、アイオワ大学 (University of Iowa)で研究し始めます。やがてベルリンに残した家族もアメリカに呼ぼうとしたのですが、母親がユダヤ人収容所で亡くなったことを知ります。

専制型、民主型、放任型といったリーダーシップのスタイルや集団での意思決定の研究を「場の理論」(field approach) 基づいて進めます。我が国で1970年代に盛んにとり入れられたのが集団力学と訳されるグループダイナミックス(group dynamics)の実践で、特にリーダーの養成のアクションリサーチ(action research)として「Training-group」が使われました。企業や団体の指導者訓練で、理論的な考えをまとめた「A Dynamic Theory of Personality」という著作は特に知られています。

レヴィンはゲシュタルト心理学 (Gestalt Psychology)を人間個人だけでなく集団行動にも応用したことで知られています。集団内における個人の行動は、集団のエネルギー場、すなわち集団がもつ性質やどんな成員がいるのかといったことによって影響を受けると考え、これによりグループ・ダイナミックスが生起すると考えのです。グループ・ダイナミックスはやがて感受性訓練(sensitivity training)などにも応用され、臨床的分野へと広がっていきます。交流分析(Transactional Analysis)もグループにおけるセラピーの手法といわれ良いコミュニケーションを図るために用いられています。ゲシュタルト心理学については、後の心理学者のところで紹介することにします。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その66 マディソン大統領の外交

次ぎに大統領となったマディソンは外交に専念することを余儀なくされます。イギリスとフランスはどちらもアメリカの海運貿易を非難しますが、特にイギリスは非常に激怒します。これは、イギリス海軍の方が優越であり、イギリスの名誉に対するアメリカ人の侮辱に非常に敏感だったからです。フロリダとカナダにおける領土の膨張主義は、戦争を予想すると共に海軍の増強を求めるものとなります。マディソン自身の目的は、海洋の自由の原則を維持し、アメリカが自らの利益と市民を保護する能力を主張することでした。ヨーロッパの敵対者と公平に対峙しようと努力している時、彼はイギリスとの戦争に引き込まれます。アメリカは1812年6月に下院で79〜49票、上院で19〜13票の投票で戦争支持が可決されました。強力な連邦主義を唱えるニューイングランドの州では、戦争への支持はほとんどありませんでした。

米英戦争

米英戦争(War of 1812)は1812年に始まり、皮肉な結果となります。イギリスはすでに枢密院勅令で攻撃命令を撤回していましたが、宣言の時点でそのニュースはアメリカには届いていませんでした。軍事的にアメリカ人はあらゆる面で貧弱な状況にありました。軍備に対するイデオロギー的な反対によって、最小限の海軍力しか持たないためでした。 1812年、上院がアメリカ銀行の憲章の更新を拒否したことは、銀行に対するイデオロギー的な異議申し立てが原因でした。企業家の感情は政権に対して敵対的でした。このような状況下で、アメリカは2年間の戦争で驚異的な成功を収め、最終的には大西洋、五大湖、シャンプレーン湖(Lake Champlain)での会戦で勝利します。陸では、イギリスの襲撃隊がワシントンD.C.の公共建築物を燃やし、マディソン大統領は首都から逃げだす有様でした。長期的な影響をもたらしたのは、ニューオーリンズの戦いでアンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)が勝利したことです。1815年2月に勝利してその2週間後、ベルギーにおけるゲント条約(Treaty of Ghent)の調印で平和が達成されます。この戦いによってジャクソンの政治的な評価は大きく高まりました。

米英戦争

こうした経緯からいえることは、この和平合意の最も重要な点は、カナダ国境の境界委員会を設置するという合意でした。それはイギリスとアメリカとのいがみ合いを終わらすものではありませんでしたが、合意は相互信頼の時代の到来を告げるものでした。アメリカの第二の独立戦争と呼ばれることもある1812年の戦争の終結は、歴史的な繰り返しのようでした。この戦争は、イギリスとイギリス国民に対する古い痛みと恨みの感情を和らげることになりました。それでも多くのアメリカ人にとって、イギリスは一種の父方のような感情を持っていました。やがてイギリスとの戦の不安から解放されると、アメリカ人は西部への開拓へと向かうことになります。

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