モロカイ島のダミアン神父とハンセン病ハワイ州

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ハワイ諸島の一つ、モロカイ島(Molokai)はカイウィ海峡(Kaiwi Channel)を挟んでオアフ島(Oahu Island)の東、パイロロ海峡(Pailolo Channel)を挟んでマウイ島(Maui Island)の北西に位置します。モロカイ島の面積は676平方キロメートル、長さは約61km、幅は最も広い部分で16kmです。緑豊かな渓谷ハラワ(Halawa)など、多くの深い谷が交差しています。幅が広く、農業に適しています。

モロカイ島には長い間、自給自足のタロイモ(taro)栽培者や漁師が住んでいました。18世紀にオアフ王国(kingdom of Oahu)はモロカイ島の支配権を獲得します。その支配は1785年まで続き、その後マウイ島(Maui)とハワイ島の戦士たちが侵略し、別々に島を統治します。ハワイの酋長カメハメハ一世(Kamehameha I)は、ハワイ諸島統一の一環として1795年にモロカイ島を占領し、住民を従属させます。1830年代にキリスト教の宣教師がモロカイ島に到着します。カメハメハ五世によって大規模な牧場が設立されましたが、これにより島の植物や釣り堀の多くが破壊される事態となりました。

Kalaupapa Village

後述しますが、1860年代までにハンセン病(らい病) (Hansen disease) 患者のための入植地(colony)がこの島に設立さます。これにより1860年代から1890年代にかけて、島の原住民の多くが特にカラウパパ半島(Kalaupapa Peninsula)からの強制退去につながります。

1921年のハワイ住宅委員会法(Hawaiian Homes Commission Act)は、モロカイ島での定住と再定住を奨励します。水不足により開発は遅れるのですが、1923年以降パイナップル産業の成長に伴い、高原に小さな村が成長していきます。島の経済は1970年代と1980年代に、パイナップル生産者が海外との激しい競争に直面し事業を閉鎖し低迷しました。島の農業は現在はより多様化しており、コーヒーとサツマイモが主な輸出品となっています。

最も大きな村のカウナカカイ(Kaunakakai)は南海岸にあり、小さな港があります。モロカイ島では観光業は盛んではありません。しいていえば観光スポットとしては、かつてハンセン病のコロニーがあった場所にある1980年設置されたカラウパパ国立歴史公園 (Kakahaia National Wildlife Refuge)や、大きな池と絶滅危惧種のセイタカシギ(stilt)を含む数羽のハワイの鳥を保護するカカハイア国立野生動物保護区(Kakahaia National Wildlife Refuge)などがあります。

Kakahaia National Wildlife Refuge

ハワイの歴史で、モロカイ島のカラウパパ半島において、ハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた人ベルギー人(Belgian)のダミアン神父(Father Damien)を忘れることはできません。ダミアンとは修道名で、本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)といいます。ダミアン神父は、1873年からハンセン病によって亡くなる1889年まで、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちの療育に尽くします。後に2009年にカトリック教会よりハンセン病患者の守護聖人として列聖されています。

ハンセン病は主に皮膚と神経を犯す慢性の感染症です。主として末梢神経と皮膚、上気道粘膜を侵す病気ですが、菌自体の感染力は弱く、仮に感染しても発病することは稀だといわれています。治療法が確立された現代では完治する病気です。1873年にらい菌を発見したのは、ノルウェー人(Norway)のアルマウェル・ハンセン(Armauer Hansen)という医師です。

モロカイ島のカラウパパ半島は、かつて100年もの間、ハンセン病患者の隔離場所として使われます。1865年から1969年にかけて、ハワイではハンセン病感染が疑われる住民約8,000人が、強制的にカラウパパに送られ、患者だけでの生活を余儀なくされます。彼らの大半はハワイの先住民で、若いうちに家族と引き離された者も多く、最も幼い患者はわずか4歳だったといわれます。

長年の間、モロカイ島には適切な医療設備も、医療の専門家も配置されることがありませんでした。患者は自分たちで互いの世話をするしかなかったのですが、数百年前から半島で暮らしてきたマアイナ(Kamaaina)という地元住民が患者に援助の手を差し伸べたといわれます。

Father Damien


ダミアン神父は死後カラウパパに埋葬されたのですが、1930年代になってベルギー国内で「ベルギーの英雄」として、その遺体を求める世論が高まります。1936年1月に棺が掘り出され、ホノルルに運ばれその後、ベルギー軍艦で同年5月に故国ベルギーへ到着します。港では国王レオポルド三世(Leopold III)以下、多くの国民が集まり、その後追悼ミサが行われました。その遺体はルーヴェン(Leuven)の大聖堂に埋葬されます。2009年にカトリック教会の聖人に列されると、遺体の右手だけがカラウパパの墓に戻され今日に至っています。

Shrine of Father Damien


我が国のハンセン病対策の法律は、1907年制定の法律「癩予防ニ関スル件」から1953年年制定の「らい予防法」と変遷し、1996年3月にようやく同法が廃止されました。その基本的考え方は、患者を終身強制隔離して絶滅させようという誤った思想です。療養所内で結婚する場合は、断種や堕胎が条件とされ、断種は1992年まで続きました。現在、国内には13の国立ハンセン病療養所があります。そのうち2つは沖縄県にあります。

私は1973年に一度、沖縄県名護市の屋我地島にある国立ハンセン病療養所に住んでいたルーテル教会員を訪ねたことがあります。偏見や差別等から社会に復帰できず所内で生活されていました。お茶をだされたとき一瞬緊張しました。その時の私の無知を今も反省しております。ハンセン病について学んだのが沖縄在住の時です。
(投稿日時 2024年3月27日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ハワイ州・Aloha State

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ハワイ州(Hawaii)のナンバープレートには「Aloha State」と印字されています。「いらっしゃい」、「こんにちは」、「お元気ですか」、というのがAlohaですね。外国旅行をしたことがない人でも一度は行ってみるところがハワイです。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

License Plate of Hawaii

ほとんどの人類学者(anthropologists)は、ハワイへの最初の定住は、西暦4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移住したポリネシア人(Polynesians)によるもので、その後、9世紀または10世紀にタヒチ(Tahiti)から移民の第2波がやって来たと考えています。1970年代に始まったハワイでの航海用カヌー(voyaging canoe)と伝統的な航行方法(navigation methods)の使用の復活によって実証された知恵と技能から、島々が最初の植民地化の後、かつて考えられていたほど孤立していなかった可能性があることを示しています。実際、ハワイと遠く離れたポリネシアの島々との間には、かなりの意図による航海があったと思われています。それでも、ハワイ人とその親戚であるポリネシア人との間には、言語や文化において依然としてかなりの類似点があるにもかかわらず、ハワイは独自の文化を発展させていきます。

Map of Hawaii

元々のハワイ人は漁業と農業に高度な技術を持っていました。18紀後半までに、彼らの社会は、首長と司祭(chiefs and priests)によって定められた厳格な法体系を持つ複雑なものになりました。人々は、神通力でも古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々とは違った神々を崇拝し恐れていました。

ジェームズ・クック船長(Captain James Cook)は1778年にこの島々を訪れ、サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)と呼びます。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、猟師、捕鯨者が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄り島民に大きな影響を与えます。これらの影響の中でも特に重要なのは、東洋と西洋の両方からの病気の侵入です。島民はそれまで事実上病気にならず、自然免疫を持っていませんでした。性病(venereal disease)、コレラ(cholera)、麻疹(measles)、結核(tuberculosis)はすべて先住民の人口の減少をもたらし、その人口は1世紀ほど後の1890年代までに約30万人から4万人未満に減少します。

Captain James Cook

19世紀初頭、カメハメハ大王(King Kamehameha)がハワイ諸島を統一します。1820年にはニューイングランドの宣教師が続き、西洋の影響が島々を変えていきます。1851年、カメハメハ三世はハワイをアメリカの保護下に置くこととします。ですがアメリカの砂糖利権を巡って起こされたクーデターにより王政は倒され、1893年にハワイ共和国(Republic of Hawaii)が樹立されます。

King Kamehameha

その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。ハワイに到着すると、早速土地を開墾しサトウキビ栽培に従事していきます。今も琉球の名前を持つ人々がハワイの各地に大勢住んでいます。

1898年に新共和国とアメリカは併合に合意し、1900年にハワイはアメリカ領となります。1941年の日本軍による真珠湾(Pearl Harbor)爆撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ハワイは主要な海軍基地となります。1959年8月21日にハワイはアメリカ50番目の州となります。最大の産業は観光業です。マウナケア山頂(Mauna Kea)には望遠鏡があり、世界の天文学研究(World Astronomy Center)の中心地となっています。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島(Hawaii)やカウアイ島(Kauai)、後述するモロカイ島(Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には神武天皇をはじめ、代々の天皇の写真が飾ってあります。日系移民の日本に対する郷愁と深い想いがこめられているのを感じます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し合衆国陸軍の大隊に入ります。この部隊は第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)と呼ばれ、真珠湾攻撃後、日系アメリカ人の兵役が禁止されていた時期に結成されます。この部隊は日系人だけで組織され、やがてイタリアやフランスなどのヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。この戦闘団のモットーは「Go for Broke」といって「当たって砕けろ!」でした。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(Arizona Memorial)や戦艦ミズーリ号(Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

The 442nd RCT

マウナケア山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。一行の中にいた中学理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。

Mauna-Kea

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。カメハメハ・スクールは1887年に、カメハメハ家のバーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の遺産によって設置されました。カメハメハ・スクールではプリスクール、1~12年生までの教育を行っており、英語で教えて大学への入学へ備えます。ハワイ語とハワイ文化も十分教えて、ハワイ人としての教育にも重点を置いています。バラク・オバマ元大統領の母校でもあるプナホウ・スクールは1841年の創立で、幼稚園から高校までの生徒3750名が通うアメリカ国内でも最大規模の学校です。プナホウ・スクール卒業生の大学進学率はほぼ100%という名門校となっています。
(投稿日時 2024年3月26日)

旅のエピソード その25 「日系アメリカ人の博物館」

1885年1月、最初の日本人移民944人が農業労働者としてハワイに到着します。その後沖縄も含めて各県から多くの日本人がハワイにやってきます。ハワイ島は別名Big Island。ホノルルから飛行機で1時間のところにあるハワイで最大の島です。この島で一番大きな街がヒロ(Hilo)です。ハワイ島もまた日系人が開拓したところといわれています。

ヒロの街の中に日系アメリカ人が建てた小さな日本人センター(Hawaii Japanese Center)があります。人々が持ち寄った貴重な品々、写真などが展示されていて、小さな歴史博物館ともなっています。山本五十六連合艦隊司令官が率いる艦船が寄港したときの写真、第二次世界大戦中、合衆国陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で勲功をあげた日系アメリカ人のみで編成された442連隊のメンバーの写真などが飾られています。

太平洋戦争によって大多数の日系アメリカ人は、アリゾナ州(Arizona)やワシントン州の僻地に建てられた収容所に移されます。442連隊のメンバーもこうした収容所から志願してヨーロッパ戦線に向かいます。戦後、日系アメリカ人はアメリカ社会の中に日本に対する信頼を築く役割を果たします。日系アメリカ人の政治家、実業家などが輩出していきます。その一人が、ハワイ選出の上院議員、ダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)です。戦場で負傷して片手を失う経験もします。こうした人々の働きが、高度経済成長期期における日本企業のアメリカ市場への進出に大きく貢献することになります。アメリカの国勢調査によると、日系人の特徴として「高所得」、「高学歴」、「低失業率」、「低貧困率」が挙げられています。このうち所得と学歴については、白人の平均や全米平均よりは明らかに高く、貧困率については全人種の中でも低いといわれています。

博物館の話題に戻ります。ここには歴史のある貴重な本や昔の新聞、写真などがたくさんあります。展示物の中に歴代天皇の写真があります。明治天皇や昭和天皇の写真に混じって、神武天皇の写真もあるのです。日系アメリカ人の日本に対する想いと天皇に対する深い畏敬の念をこの写真から感じたものです。