ナンバープレートを通してのアメリカの州  その三十三 ハワイ州–Aloha State

大抵の日本人なら一度は旅するところがハワイ州(Hawaii)です。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

ハワイ固有の文化はポリネシア系(Polynesia)です。ポリネシアとは「多くの島々」の意味だそうです。音楽、舞踊、服装、料理などがそうです。1778年にイギリスの探検家、ジェームス・クック(James Cook)によって世界に紹介されます。州として合衆国に編入されたのは1959年。カメハメハ大王(King Kamehameha the Great)の統治が長く続きました。その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島(Oahu)やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。今も琉球の名前を持つ人々が大勢住んでいます。

マウイ島

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し陸軍の大隊に入ります。この部隊は日系人だけで組織されていたようです。やがてアメリカ本土の日系人部隊と合流し442連隊 (442nd Regimental Combat Team) となりヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館や戦艦ミズリー号などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島やカウアイ島(Kauai Island)、モロカイ島(Molokai Island) などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には代々の天皇の「写真」が飾ってあります。驚くなかれ神武天皇の写真もあります。日本に対する深い想いがこめられているのを感じます。

ハレアカラ火山

ハワイ島のマウナケア(Mauna Kea)山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。一行にいた理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。バラク・オバマ大統領が卒業したプナホウは人気が高くなりました。マウイ島にあるハレアカラ火山の標高は3,000メートルを超え、世界一大きな火口を持つことでも有名です。「2001年宇宙の旅」の火星モデルにもなったようで、荒涼、索漠たる光景がひろがります。この世ではない遠い世界のような感じがします。ほとんど頂上近くまで車であがることができます。

ウィスコンシンで会った人々 その28 Intermission 琉球とランチョンミート

筆者は1970年3月にに幼児教育を始めるようにとの辞令もらい家族と一緒に琉球へ出かけた。パスポートとわずかのドルを持参し予防注射を受けた。そして1972年5月15日に那覇で本土復帰の日を迎えた。丁度雨がしとしとと降る日であった。5月15日は長男の誕生日でもある。

今年は沖縄戦の終結から70年の節目。1945年6月23日に旧日本軍の組織的戦闘が終結したことにちなみ、当時の琉球政府及び沖縄県が定めた記念日が慰霊の日である。

樺太に生まれ、北海道で暮らし、東京で勉強し、琉球に渡った。どこもそれぞれに思い出がある。琉球に着いたとき青い空、赤いデイゴやハイビスカスの花、紅型の美しさが眩しかった。幼児教育はルーテル教会活動の一環として始まった。そこでいろいろな人々と出会う。沖縄戦のとき、琉球気象台に勤めていて糸満の摩文仁に逃げる途中弾丸を足にうけて助かったという国吉昇氏である。彼は後日私のウィスコンシン大学への留学を支援してくれた恩師である。

教会にはハンセン氏病で治癒された信徒もおられた。名護の北、屋我地にある国立療養所沖縄愛楽園という施設で長らく生活された方である。日本聖公会も愛楽園で患者やその家族を支援するさまざまな活動をしていた。信徒の方の家を訪問したときである。お菓子とお茶がだされたが菓子はどうしても手をだすことができなかった。暇してから途中で手を洗った。この情けない行為は今もひきづっている。

話題はランチョンミート(luncheon meat)である。琉球で始めて出会った食べ物の缶詰である。この缶詰にはたくさんの種類があった。なぜこのような缶詰が琉球に多いのかがやがてわかった。沖縄戦が終結し、米軍がこの缶詰を持ち込んだのである。戦争当時、ランチョンミートは戦場携行食のレーション(ration)であったようだ。

ランチョンミートの缶詰をみると、アメリカやオランダ製のものが目立った。特にアメリカのホーメル(Hormel)とデンマークのチューリップ(TULIP)社のものが有名であった。琉球ではポークとかポークランチョンミートと呼ばれていた。ホーメル社のランチョンミートはもともとHormel Spiced Hamとよばれていた。それがやがてスパム(SPAM)という名前として日本でも知られるようになる。

琉球でランチョンミートを食したときは、実に美味しい肉だな、と思った。琉球ではスライスして炒めものに使っていた。琉球の味噌汁やソーキそばにも入っていた。ゴーヤチャンプルーの味はランチョンミートからでる油と出汁のようだ。こんな美味しいものはそれまで食べたことがなかった。琉球で始めて口にしたステーキも思い出だが、ランチョンミートのほうが何倍も美味しいと感じた。

その後、ハワイにでかけたとき海苔でまいたおにぎりに出会った。なんとその上にランチョンミートが載せられていた。琉球もハワイもかつてはアメリカの施政権下にあった。ランチョンミートが人気があるのは戦場携行食、レーションの名残であろうと納得したのである。

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