アジアの小国の旅 その六十八 イスラエルの政治情勢

イスラエルの3/4はユダヤ人で、残りはイスラム教徒であるアラブのパレスチナ人で構成されています。イスラエルにおける宗教の影響は政治にもかかわっています。ユダヤ人にはアシュケナージ(Ashkenazi)とセファルディ(Sephardi)という二つの民族がいることは既述しました。両者は長い伝統と文化を継承し、そこから政治、経済、社会についての異なる主義や思想を持っています。

一般に、イスラエルではアシュケナージが富裕層であり既存体制の支持者層であるのに対し、セファルディは世俗的で社会の改革を支持する層であり低所得者層を占めているといわれます。この二つの支持層では当然対立が起こり、現在のイスラエルの政界でも起こっています。宗教的に原理主義の立場をとる派と世俗的な考えを政治や日常生活に反映しようとする派との対立です。イスラエルにおける内政上の対立は、この「世俗と宗教の相克」ということにあります。宗教的な価値に基づいた政治体制を要求する勢力が挑戦し、その影響力を拡大しているという現在の政治勢力の姿は、イスラエルとパレスチナ双方に共通して見ることができます。

イスラエル政治の最大の特徴は、単独与党が存在した経験がなく、建国以来常に連立政権であるということです。イスラエルの現政権の基盤はリクード(Likud)という政党です。党首はネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)で、労働党と並ぶ二大政党として2005年から政権を担当しています。この政党は領土拡張を強硬的に主張する保守派です。ガザ地区でのイスラムの原理主義で過激派ハマス(Hamas)の台頭に対して敵愾心を強めています。

Benjamin Netanyahu

リクードはイギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、「大イスラエル」を実現させること主張しています。パレスチナ被占領地–ヨルダン川西岸における入植地拡大、対イラン制裁などを党の方針としています。

アジアの小国の旅 その六十七 イスラエルとシオニズム

イスラエル(State of Israel)を小国と呼ぶには大いにためらうのですが、国土の面積が日本の四国程度の大きさなのです。そのようなわけで小国と呼んでおきます。人口は890万人くらいです。この国ほど建国にいたる歴史において劇的な経過を辿った国は他にないだろうと思われます。このようなイスラエルの歴史を数回にわたり取り上げます。

地中海沿岸の東に位置するイスラエルは、北東にシリア(Syria)、南東にヨルダン(Jordan)、南西にエジプト(Egypt)と面しています。首都はエルサレム(Jerusalem)であるとイスラエルは主張していますが、各国からは広い支持を得てはいません。

イスラエルは、ユダヤ人(Jewish)によって作られた歴史的には若い国です。しかし、その建国に至る歴史は旧約聖書時代に遡るほど古いものです。イスラエルの国土は、もとはローマ帝国(Roman Empire)の一部であり、その後はビザンチン帝国(Byzantine Empire)の領土となります。7世紀にはイスラム帝国 (Islamic Caliphate)によって征服されます。 十字軍(Crusades)が派遣されてくる頃、この地域はパレスチナ(Palestine)と呼ばれるようになります。そしてオスマン帝国(Ottoman Empire)の支配が第一次大戦まで続きます。大戦後は世界連盟(League of Nations)の決議でイギリスの占領統治下に入ります。イギリスはユダヤ人の民族郷土建設の考え方を支持していきます。

その施策を進めたのが初代高等弁務官(High Commissioner)でユダヤ系イギリス人のハーバート・サミュエル(Herbert Samuel)です。ユダヤ人はパレスチナへの移民を進め、ユダヤ機関を設置したり自警組織を結成し、ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)の開校などを進めるのです。これはユダヤ人の国家建設に向けての運動でありました。

アジアの小国の旅 その六十六 レバノン

地中海(Mediterranean Sea)の東岸に位置する現在のレバノン(Lebanese Republic)は、古代はフェニキア人(Phoenician)の定住地でありました。フェニキア人とは、東地中海岸で紀元前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族(Semites)の人々です。セム語族の起源は、旧約聖書創世記(Genesis)5章の大洪水と箱舟(Noah’s Ark)に登場するノア(Noah)の3人の息子の1人であるシェム(Shem)から由来するといわれます。

レバノンの歴史ですが、古代はフェニキア人が住んでいたティロ(Tyre)、シドン(Sidon)、バイブロス(Byblos)という港街が紀元前3世紀頃に栄え文化や貿易の中心となっていました。フェニキア人は、レバノンから地中海を渡り、現チュニジア(Tunisia)のカルタゴ(Carthage)、バルセロナ(Barcelona)、リスボン(Lisbon)、マルセイユ(Marseille)など各地に植民地を形成した民族です。

1920年代になるとフランスが進出しキリスト教を持ち込み、その後押しでレバノン王国をつくります。1926年にレバノン共和国として成立し、1943年に独立を遂げます。レバノンは宗教や民族の多様性で隆盛していくのですが、内政や外交、経済では大きな問題を抱えていきます。特にイスラエル(Israel)やアラブ(Arab)諸国との関係、そして国内に住む多数のパレスチナ(Palestinian)難民です。

国内では、多数の政党間の微妙なバランスは、パレスチナ問題や宗教的な対立で次第に崩れていきます。それが顕在化したのが1975年に起こった内戦です。政治組織は分解していきます。1990年に内戦が終結すると、レバノンは社会的、経済的にも安定していきます。にもかかわらず他国による干渉や介入、政党間の抗争が今も続いています。

アジアの小国の旅 その六十五 中東ー三大陸の接点

中東(Middle East)とか近東(Near East)という用語の使い方は第二次大戦で始まったといわれます。イギリス軍がエジプトの統治の際に使った用語が中東です。

20世紀の中頃までは、中東とはトルコ(Turkey), キプロス(Cyprus), シリア(Syria),レバノン (Lebanon),イラク (Iraq),イラン (Iran),イスラエル (Israel), ヨルダン川西岸(West Bank), ガザ地区(Gaza Strip),パレスチナ(Palestine), ヨルダン (Jordan), エジプト(Egypt),スーダン (Sudan),リビア (Libya)を指していました。

さらに国名が続きます。サウジアラビア(Saudi Arabia)、クウェート(Kuwait)、イェーメン(Yemen)、オマーン(Oman)、バーレン(Bahrain)、カタール(Qatar)、今のアラブ首長国連邦(United Arab Emirates)等も含むような使い方をします。こうした曖昧な概念の定義によって、中東は北アフリカの国々を含むようにもなります。すなわちチュニジア(Tunisia)、アルジェリア(Algeria)、リビア(Lybia)、モロッコ(Morocco)の国々です。

中東は、地理的にはヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸の接点にあたります。東西文明が行き交い、交易や人々の交流の役割を果たしてきました。また近代から現代にかけて、特に1938年頃から本格的にサウジアラビアやクウェートで石油が産出されます。湾岸各国は油を採掘する技術は持っていなかったので、メジャーと呼ばれる国際石油資本によって油田は採掘されます。メジャーは石油の採掘から販売まで一貫して操業する大手の石油会社です。この石油の産出により、中東は第二次大戦により軍事的にも経済的にも重要な一帯となるのです。

アジアの小国の旅 その六十四 中東とか中近東の歴史

今回から「アジアの小国の旅」というテーマで稿を進めてまいります。中東(Middle East)から始めていきます。中東という言葉と接するとなんとなく「イスラム教の国々」という印象を受けます。確かにその通りなのですが、中東とは、地中海沿岸国(Mediterranean Sea)やモロッコ(Morocco)やアラビア半島(Arabian Peninsula) 、イラン(Iran)などの国々を指すようになっています。

中東とは西アジアとアフリカ北東部の総称です。こうした中東の中心のあたりの地域をヨーロッパの地理学者や歴史学者が近東(Near East)と呼ぶようになりました。こうした学者によれば、東方諸国(オリエント:Orient)とは、三つにまたがる地域であると主張します。第一は地中海からペルシャ湾(Persian Gulf)に至る地域、第二はペルシャ湾から東南アジアに至る地域、そして日本を含む太平洋に面した地域というのです。

Jordan, Wadi Rum, camel caravan in the Unesco World heritage site in Middle East

オリエントというと、第一にエジプト(Egypt)、メソポタミア(Mesopotamia)を中心とする小アジア・西南アジア・北アフリカの地域です。通常、世界最古の文明発生地一帯をオリエントと呼ばれます。第二はアジアの総称で特に東アジアを指すことです。どちらもラテン語の「Oriens」という日の出を意味する単語、すなわち東方に由来するといわれます。

バグダッドを臨む

中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するために使われた概念といわれます。もともとは、イランやアフガニスタン(Afghanistan)およびその周辺を指しました。中東に含まれる地中海沿岸地域は近東と呼ばれました。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念も使われるようになります。ただし、中東、近東、中近東の違いは明確ではありません。このような地域の区分は第二次世界大戦中にイギリス軍が始めて使ったといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その六十三 アルメニア

アララト山と葡萄畑

「ヨーロッパの小国の旅」の最後の稿です。アルメニア(Republic of Armenia)は、南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。東ヨーロッパに含められることもあります。首都はエレバン(Yerevan)で、黒海(Black Sea)とカスピ海 (Caspian Sea)の間にある内陸国です。西にトルコ(Turkey)、北にジョージア(Georgia)、東にアゼルバイジャン(Azerbaijan)、南にイラン(Iran)とアゼルバイジャンの飛び地(Exclave)、ナヒチェヴァン(Naxçıvan)自治共和国と接します。

タテフ修道院

アルメニアもまた近隣の国々と同時に長い歴史を有しています。この稿では現代史に限定することにします。1918年にロシア帝国(Russian Empire)から独立します。1920年にはトルコとロシアによって侵略されます。その年の9月にソビエト–アルメニア共和国が樹立されます。1922年になるとコーカサス-ソビエト社会主義共和国となります。1936年にはアルメニアはソビエト連邦に併合され、長い間ソ連の統治化に置かれます。

ノラヴァンク修道院教会

1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立します。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となります。

アルメニアは内陸に位置し山岳地帯に囲まれています。国の平均海抜は1800mです。火山地帯にあり、これまで大地震に襲われてきました。1988年12月に起きた地震では約25,000人が犠牲となるほどの規模でした。

ヨーロッパの小国の旅 その六十二 アゼルバイジャン

アゼルバイジャン(Republic of Azerbaijan )は、カスピ海(Caspian Sea)と南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。南はイラン(Iran)とアルメニア(Armenia)、北西はジョージア(Georgia)とロシアに隣接しています。首都は、古代都市でも有名なカスピ海に面する港湾都市のバク(Baku)です。

アゼルバイジャンは1918年から1920年まで独立した国家でした。しかし、ソビエト連邦に併合され1936年にはソ連の連邦国(constituent republic)となります。ソ連邦の解体により1989年9月に共和国を宣言し1991年8月に完全に独立します。

アゼルバイジャンは、工業と農業が盛んな国です。特に石油と天然ガスが豊富な国です。石油製品,鉄鉱も生産しています。バクー油田が有名で、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えています。天然資源を巡る問題は、第二次世界大戦やチェチェン紛争とアゼルバイジャンの関係とも大きくかかわってきました。軽工業、食品工業なども盛んです。チェチェン(Chechen)紛争とは1999年に勃発したロシア連邦からの独立派勢力とロシア連邦への残留を希望するチェチェン人勢力との間で発生した紛争です。

アゼルバイジャンは、1997年に脱ロシア志向のウクライナ、ジョージア(グルジア)、モルドバとの4カ国(GUAM)による民主主義と経済発展を目指す国際機関を結成しています。

ヨーロッパの小国の旅 その六十一  ジョージアとバラ革命

ジョージア(Republic of Georgia)は東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分されています。首都はトビリシ(Tbilisi)。2015年4月まで日本政府はグルジア(Gruziya)を国名として使用していました。

コーカサス山脈(Caucasus Mountains)の南麓、黒海(Black Sea)の東岸にあたります。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア(Armenian)、アゼルバイジャン(Azerbaijani)と隣接しています。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝でありました。そのため幾度も他民族の侵略に晒されてきました。今日もロシア正教(Russian Orthodox Church)の信仰などの伝統文化を守っています。温暖な気候を利用したワイン醸造の国としても知られています。

私がこの国を知ったのは2009年頃です。イリノイ大学(University of Illinois)の友人がこの国の大学に客員教授として招かれました。彼から電話で「今ジョージアにいる」というのです。私はてっきりアメリ南部のジョージア州からの電話だと思いました。彼からの電話は、かつてグルジア(Gruziya)と呼ばれていた国、ジョージアからでした。

ジョージアをより身近に感じたのは2018年初場所で優勝した栃ノ心です。彼がジョージア出身の力士であることを知ったことでした。その他、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の出身地がジョージアです。彼は、1922年から1953年まで共産党第一書記、1941年から1953年まで首相として、絶大な権力を有した独裁政治家です。

ジョージアは、ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の崩壊とともに1991年に独立します。ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けています。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたために、独立後はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その六十 モルドバ 

この国もあまり聞き慣れない国です。一体どこにあるのかをすぐには答えられません。以下、Encyclopaedia Britannicaで調べたモルドバ(Republica Moldova)の紹介です。

Large Christian Orthodox Church at the top of hill in Hancu Monastery, Republic of Moldova

東ヨーロッパに位置する共和制国家がモルドバです。内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と、他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。モルドバは以前はベサラビア(Bessarabia)と呼ばれ1812年まではルーマニアの一部でした。その後オスマン・トルコ(Ottoman Empire)に編入され、第一次大戦まではロシア帝国(Russian Empire)の一部となります。やがてルーマニア帝国(Great Romania)に編入され、1940年から41年まではソ連の占領下となります。モルドバ人自治によるソビエト社会主義共和国となり1991年8月のソ連の崩壊により共和国の独立を宣言し、国名をモルドバとします。1992年に国連に加盟します。

Cricova 葡萄農場

1991年の独立以来、モルドバは4つの問題を抱えてきました。第一は地方自治の伝統がなかったために、地方政府が樹立出来ないことです。第二は地方自治の政治が無かったために、ソ連による高度の中央集権化で憲法を制定するのが難しいという問題です。第三は統制経済下にあったために自由経済の考え方が行き渡らないことです。農業も「集団農場」(Collective Farm)での共同経営(State Farm)が行われ、生産物は政府に売却したり組合組織による経営が行われていたからです。土地の個人所有や個人生産によって、生産性の低下や混乱が起こります。

第四は、モルドバの東部にありウクライナ国境に接するドニエストル(Transdniestria)が独立を叫び、1990年には独立戦争を始めます。1992年には停戦が成立し、ロシアの軍隊がドニエストルに治安維持のために駐留しています。ドニエストル地域は、モルドバの電力を供給していて、首都は何度も供給を閉ざされ、そのために国家の建設が滞ってきました。外国からの投資もなく、ヨーロッパで最も貧しい国といわれています。

ヨーロッパの小国の旅 その五十九 スロバキアとロビン・フッド

スロバキア(Slovak Republic)は、前回のスロバニアと国名が似通っていますが、れっきとした別の独立国です。北にはポーランド(Poland)、東にはウクライナ(Ukraine)、南にはハンガリー(Hungary)とオーストリア(Austria)、西にはチェコ(Czech)が位置しています。

首都のブラチスラバ(Bratislava)は、西南国境を縁取るドナウ川(Danube River)の河畔に位置します。ドイツ南部から東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川です。ブラチスラバは中世の城塞などが保存される美しい古都といわれます。

中央ヨーロッパと呼ばれる地域にあるこの国は、さまざまな歴史があるようです。10世紀にスラヴ人(Slavic)の国家であった大モラビア国(Moravia)が滅亡した後は,1,000年近い間ハンガリーの統治下に置かれます。16世紀にオスマン・トルコ(Ottoman Empire)が欧州に進出してくるとブダペスト(Budapest)が陥落してハンガリーの大部分がオスマン帝国に占領されます。そのためハンガリー王国の首都がブラチスラバに移っていた時期もあったようです。

Robin Hood
首都Bratislava

第一次世界大戦後の1918年10月にチェコスロバキア共和国(Republic of Czechoslovakia)として独立します。第二次世界大戦後の共産主義時代には重点的に工業化され,軍需産業や重工業が発展します。1989年11月のビロード革命(Velvet Revolution)後,1993年1月にチェコとの連邦を解消し,スロバキア共和国として独立します。チェコとスロバキアが平和裏に分かれたの形容して「ビロード離婚」(Velvet Divorce)とも呼ばれます。「欧州への回帰」を目標に2004年3月にNATO加盟し、同年5月にEU加盟を果たします。さらに2009年1月からユーロを導入します。