アメリカ合衆国建国の歴史 その86 いろいろな撤廃運動 

制度上での廃止で最も大事だったことは、奴隷制撤廃論です。この運動は、熱烈に主張される一方で、激しく抵抗され、1850年代には、政治的に失敗したようにみえました。しかし、1865年に、内戦という犠牲を払いながらも、憲法改正によってその目的を憲法に挿入するこに成功します。その核心は、3世紀以上にわたってアメリカ人が最善と最悪の顔を持つ「人種」の問題でありました。それがこの時代、アメリカの地域間の対立という力学と絡み合ったとき、その爆発的な潜在力が最大限に浮き彫りになる現象が起こりました。19世紀半ば、改革への衝動がアメリカ国民を団結させる共通のものであったのですが、その衝動が奴隷制度に現れたことで、4年間にわたる南北戦争という血塗られ遂にアメリカ国民は二つに分かれるのです。

William L. Garrison


撤廃運動そのものも多様ではありました。その一端を担っていたのが、ウィリアム・ギャリソン(William L. Garrison)という人物です。彼は「即時主義者(immediatist)」として、奴隷制だけでなく、それを容認する合衆国憲法をも糾弾します。彼の新聞「リベレーター(The Liberator)」は、奴隷制に反対する戦争では妥協しないという約束を宣言していました。ギャリソンの妥協のない論調は、南部だけでなく多くの北部の人々をも激怒させ、あたかもそれが奴隷制撤廃論全般の典型であるかのように扱われた時代が長く続いたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。

Frederick Douglass

撤廃論者の反対側には、セオドア・ウェルド(Theodore Weld)、ジェームズ・バーニー(James G. Birney)、ジェリット・スミス(Gerrit Smith)、セオドア・パーカー(Theodore Parker)、ジュリア・ハウ(Julia W. Howe)、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)、サーモン・P・チェイス(Salmon P. Chase)、リディア・チャイルド(Lydia M. Child)などがいて、彼らはさまざまな立場で反対論を主張しましたが、ギャリソンよりは融和的な立場にたっていました。ジェームズ・ローウェル(James R. Lowell)は、伝記作家として奴隷撤廃論者の主張は、固定した感情に走るべきではないといいます。そして、ギャリソンとは対照的に「世界は緩やかに癒されていかなければならない」と訴えます。また、デヴィッド・ウォーカー(David Walker)やロバート・フォーテン(Robert Forten)などの自由黒人やフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)などの元奴隷の活動も重要でありました。彼らは、この運動に取り組む明確な理由を持ちながら、白人の同僚たちとより広い人道的動機を共有しようとしました。