文化を考える その30 街角の風景 エリザベス・サンダースホーム

1955年にスペインで作られた映画「汚れなき悪戯(いたずら)」をご存じの方は60歳後半の人。養子縁組の話題の続きである。

19世紀前半、スペインの小さな寒村が映画の舞台である。ある年の聖マルセリーノ祭(Marcelino)の朝、教会堂の門前に赤子が置かれているのをフランシスコ会の修道士たちが見つける。彼らは赤子の里親を求めて歩き回るが見つからない。そこで修道院で育てることになる。そして名前をマルセリーノと名付ける。

5年後、マルセリーノは賢い少年に成長していく。しかし、母親がいないことや友だちができないことに修道士たちは心配する。修道士は、屋根裏部屋には決して入っていけないとマルセリーノに言いつける。ある日マルセリーノは入ってはいけない屋根裏で大きな十字架のキリスト像を見る。そこでキリストとの対話が始まるのである。そしてパンや飲み物を運ぶという「汚れなき悪戯」が始まる。

19世紀のアメリカでは、移民の増大や南北戦争によって多くのホームレスや孤児を生んだ。各州ではこうした子どもへの対応を考え始める。1917年には、ミネソタ州がはじめて養子縁組を認める法を制定する。二つの大きな戦争、朝鮮動乱、ベトナム戦争などによって多くの国々で孤児が発生した。こうした経緯で、アメリカでこのような恵まれない子どもに家庭を与えるための養子縁組制度、いわば子のための制度が広く社会に浸透していく。

「我が故郷ウイスコンシン 忘れられない人ーその30」で紹介したMr.& Mrs. John Silbernagelの娘、Karenのことだ。彼女は結婚する前にスリランカから養子を引き受けた。独身女性が養子縁組をするなど筆者には思いもよらなかった。その子を実の子として献身的に愛情を注ぐ未婚の母親姿を見て感じ入った。「生みの親よりも育ての親」である。その後彼女は結婚し、実の子どもを授かる。

1948年、岩崎弥太郎の孫、澤田美喜がエリザベス・サンダースホームを設立する。連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは恋愛で生まれ見捨てられた混血孤児たちのため児童養護施設であった。その後ここで約2,000人の子どもが育てられ、多くは養子としてアメリカに渡った。彼女の夫は初代国連大使を務めた澤田廉三である。
img_0汚れなき悪戯」からsawadamiki2澤田美喜氏images

 

文化を考える その29 街角の風景 養子縁組み

養子縁組が多いのがアメリカ。私の息子夫婦には2人の男の子がいるのだが、3人目は養子を育てたいといっていた。8年前にサバティカルで阪大にいたとき、日本人の子どもを養子にするための手続きで関係機関を調べていた。だが外国に住んでいて、日本から養子をとるのは極めて困難であることがわかったようだ。だが今も養子を探している。

我が国は、家父長制を基本としていたので、家長の後継者を得るための養子縁組が存在していた。こうした伝統のせいだろうが、今は「子どもと家族の幸せ」という考えで養子をとることは並大抵のことではない。

養子制度は長い伝統があるす。制度を遡ると、 紀元前18世紀、古代バビロニアのハムラビ法典などに由来することが判明している。当時は養子が合法的であり、保護者の責任などが規定されていたことが伺える。Wikipediaによれば婚約、婚姻、離婚、姦通と近親相姦、遺産相続などの規定もあったようだ。ローマ帝国の皇帝というのは、養子縁組での継承というのがやたらと多かったといわれる。ローマ帝国は、一夫一妻制の社会であったため、皇帝が必ずしも継承者となる男子を持っているとは限らなからである。

中世期のヨーロッパにおける養子縁組は容易ではなかったようである。ナポレオン民法典には、養子制度も規定されたが、それは成年の養子のみであり、氏や財産の継承の目的だけに認められた。養子は18歳以上でなければならず、養親は50歳に達していることが必要であった。

だが、貧しさのために教会の門前などに幼児を置き去りにする人々が絶えなかったといわれる。そこでカトリック教会は孤児院を運営し始める。こうした博愛の精神が、やがて養子縁組を社会に定着させるための原動力となっていく。

IMG_1329 Code Napoleon
ナポレオン民法典
2cd0d2567ffc5558b655727e0b4e13cf Code of Hammurabi
ハンムラビ法典