アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その66 先住民族への対応

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若きアメリカは、先住民族、アメリカインディアンをどのように対処するかの課題を抱えていました。ヨークタウン(Yorktown)での勝利は、先住民族問題が避けることのできない課題となったのは過言ではありませんでした。ヨークタウンの勝利とは、1781年にアメリカとフランス連合軍がイギリス軍を破り、独立戦争を終結させた決定的な記念すべき戦いのことです。この戦では、先住民をはじめ解放された元奴隷も奴隷のままの者も従軍していたのです。

 アメリカ政府は、遠くの大陸にある資源へのアクセスのみを求めてきたヨーロッパの帝国の代表者と取引していました。やがて毎年人口が増え、西部のすべてのエーカーを自分たちのものにしていきました。それは、神と歴史の法則のもとで文化的に統合した民族であるとの確信によるものでした。やがて先住民族との妥協の余地はなくなりました。 1776年以前でさえ、アメリカの独立に向けた政策は、先住民族の将来に対する支配力を低下させるものでした。

 時代を少し遡ります。イギリスと先住民族との間の取り決めに、1763年の布告ライン(The Proclamation Line)というのがあります。この取り決めは、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、先住民族との関係を安定させるものでした。ケンタッキー・フロンティアのダニエル・ブーン(Daniel Boone)はこの取り決めを破って開拓を推進していきます。ペンシルベニア州とニューヨーク州の西部では、1768年のスタンウィックス砦条約(Treaty of Fort Stanwix)による広大な先住民の土地譲歩にもかかわらず、開拓者がオハイオ渓谷と五大湖への前進を続けていきました。

 武力抵抗による成功の望みを持っていた先住民族は、アパラチア山脈からミシシッピ川までのすべての先住民族の団結が必要となりました。この団結は単に達成することができませんでした。ショーニー族(Shawnee)の指導者、テンスクワタワ(Tenskatawa)は、預言者として知られていました。テンスクワタワやその兄テカムセ(Tecumseh)は、ギリス人入植者に対する反乱に関わったポンティアック(Pontiac)が約40年前に行ったように、団結のための運動を試みましたが、成功しませんでした。平和条約に違反して北西部領土に残っているイギリスの貿易商からの武器の形でいくつかの支援を受けましたが、先住民は1811年に起こったティッペカヌークリークの戦い(Battle of Tippecanoe Creek)でアメリカの民兵や兵隊との衝突で勝利を得ることができませんでした。

 他方、1814年、アメリカのアンドリュ・ジャクソン将軍(Andrew Jackson)は、ホースシューベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)で、イギリスが支援した南西部のクリーク族(Creek Indian)を破ります。戦争自体は引き分けで終わり、アメリカの領土は無傷のままでした。その後、小さな例外を除いて、ミシシッピの東では先住民による大きな抵抗はありませんでした。アメリカの輝かしい第1四半期の後、先住民族に開かれていたあらゆる可能性は低くなっていきます。

 アメリカとイギリスが奪い合おうとした土地が、そもそも古くからインディアンの住む土地でありました。インディアン諸部族は自らの生存のために両国と闘わなければならなかったのです。ジャクソンは、民主党所属としては初の大統領で、独立13州以外からの出身の最初の大統領です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その35 ポンティアックの反乱

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やがて先住民族と白人の対立は避けられなくなります。入植の初期には、先住民族とヨーロッパ人が協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。アメリカ先住民は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。

 先住民族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の所有や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による先住民族からの土地の購入は、しばしば狡猾な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住民族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀で例外的人物でした。

 先住民の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はヒューロン族(Huron)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族(Delaware)といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功しします。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオール(Montreal)とケベック市(Quebec)からイギリスのオルバニー(Albany)とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。

 ヨーロッパと先住民族の同盟は、ルイジアナ(Lousiana)でフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。

 フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけではあるません。先住民族であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、先住民族とヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスとなるイギリスとフランス間の闘争は、先住民族にとって災いの始まりでありました。

 イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、先住民族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った先住民族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住民族が協力して挑戦したように、この反乱だけでは終わりませんでした。

 ポンティアックの反乱は、フランス・インディアン戦争に続く五大湖地域でのイギリスの支配に不満を持った先住民族の緩い連合によって、1763年に開始されました。多くの先住民族がイギリスの兵士と入植者をこの地域から追い出すために参加しました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その36 イギリスのカナダ獲得

帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住部族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。

アメリカ大陸と領土拡大

戦争の長期化によって、イギリス帝国に広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの役人は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土を維持する必要がありました。イギリスはすぐに、諸部族との関係全般を管理するようになります。1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈にイギリス植民地からの入植の限界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した委員を通じて厳密に部族との貿易を行うことができるとされます。この布告は、部族の権利を尊重したものでしたが、ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。

また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でした。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の人々から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われると考えます。

部族と商人

実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。諸部族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスが勝利すれば、そのチャンスがあったかもしれません。いざ勝利したアメリカ合衆国を相手にすると部族にとっては全くの努力が報われなくなります。