ボンヘッファーの「抵抗と信従」

注目

 ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の「抵抗と信従」(Widerstand und Ergebung: Resistance and Surrender)という著作を紹介します。ボンヘッファーは、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(Die Evangelische Kirche der altpreußischen Union)の、ルター派の牧師です。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人として知られ、反ナチ主義者でもありました。第二次世界大戦中にヴァルキューレ作戦(Operation Walkure)と呼ばれたヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、刑務所内で著述を続けます。その後、暗殺計画は挫折し、ドイツ降伏直前の1945年4月9日に強制収容所で処刑されます。

Dietrich Bonhoeffer

 1933年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「職業官吏再建法」が制定されます。これは「非アーリア人種」や「政治的に信用のできない者」を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨の法律です。教会にもいわゆる「アーリア条項」 (Arierparagraph)が適用されるようになります。これはユダヤ人また、ユダヤ人以外の「非アーリア人」を、組織や職業、その他の公共生活の側面から排除するために使われた最初の法制度です。アーリア(Aryan)という言葉は、中立的な概念を表す用語として生まれたのですが、思想的、または悪意のある目的のために適用され、操作されて過激な意味を持つようになります。

 その後、ドイツ的キリスト者 (Deutschen Christen) と呼ばれる親ナチス勢力の追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になりますが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)らと牧師緊急同盟を結成します。これが後の告白教会(Bekennende Kirche)の結成に繋がるのです。ここから告白教会の牧師は、ナチスに対する反対運動を開始します。この牧師緊急同盟にはドイツの福音主義教会牧師の約3分の1が加入します。しかし、アーリア条項に反対した当時の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではないといわれます。教会指導者らにとってアーリア条項に反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点でありました。ボンヘッファーは、ナチスの福音派の牧師らの姿勢について、その問題の重大性を深く認識し彼らと袂を分かっていきます。

堅信礼を受ける少年らと

 1933年以来、告白教会の路線にそって教会的な抵抗を続けてきたボンヘッファーは、1940年頃から国防予備軍を中心とする政治的抵抗運動に身を投じます。彼がこの抵抗運動の中で演じた役割は3つあります。第一は牧師として抵抗運動の精神的な支柱となることでした。第二は告白教会の若い世代の教会的で神学的な指導者として、ヒトラー打倒の陰謀計画が成功した暁に平和的で民主的なドイツにおいて、奉仕すべき教会の再建を検討することでありました。第三は1930年頃から抱いていたエキュメニカル(Ecumenical)な交わりを通して、特に抵抗派が望んでいたイギリスとの政界との繋がりをつけ、ヒトラー打倒とその後に来たるべきドイツの再建のために不可欠とされていたイギリスとの和平への保証、及びその条件の確認と、抵抗派への理解と支持を求める働きという任務を負っていたからでした。

 しかし、ボンヘッファーがヒトラー打倒について協力を仰いでいたミュンヘンの実業家シュミットフーバー(Schmidhuber)が秘密国家警察(ゲシュタポ)に逮捕されると、シュミットフーバーはヒトラー打倒計画の情報を明かすのです。こうして1943年4月にボンヘッファーもゲシュタポに逮捕されるのです。本書「抵抗と信従」には多くの手紙が網羅されています。そのほとんどが刑務所内で書かれたものです。すべて、正規の検問を経て書かれた両親宛の手紙は、彼の獄中生活の比較的明るい面をつたえています。「運命にたいする迅速で自覚的かつ内面的な和解」とか「ある無自覚的で自然な馴れ」といった自省的な思索も感じられます。獄中にありながらも、旺盛な読書力によって神学的な思索や聖書研究に没頭し、神学、哲学、歴史、文学、自然科学に渡る書物を読破していきます。詩をや音楽を愛し、自由な生きた人間としてのボンヘッファーの姿があります。

ボンヘッファーが牧会したシオン教会

 獄中でリューマチや腹痛で苦み、さらには爆撃の恐怖、別離と孤独、釈放への憧れなどが混ざり合いながらも、そこにユーモアによって苦悩を克服したかのような書簡が綴られています。「十年後」という書簡ですが、これはヒトラーが帝国宰相の地位につき、ドイツの全体主義運動に乗り出してから十年後に書いたものです。この十年間のヒトラー支配下の自己を含めて、ドイツ人の精神的な状況を省察しています。
 「悪の一大仮面舞踏会が、一切の観念を倫理的観念を支離滅裂な混乱に陥れた」
 「市民的勇気の欠如を嘆く訴えの背後に、一体何が潜んでいるのだろうか。近年われわれは多大な勇気や犠牲的行為をみた。しかし、市民的行為というものはほとんどどこにも見られなかった。」
 「ドイツ人は今日始めて自由な責任とは何であるかということを発見し始めている。」
 「愚鈍であるが、知的には非凡なほど活動的な人間がおり、愚鈍とはおそ別ものでありながら、知的には全く愚鈍な人間がいる」
 
 ナチスの全体主義思想下による国民の影響について、ボンヘッファーは、良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが大衆のヒトラー崇拝となったというのです。ゲシュタポの探索を目を逃れて後に発見された少数の友人あての書簡で、以上のようにドイツにおける時代の精神状況をとらえ、抵抗運動を分析していることに着目すべきと考えられます。

 次ぎに「獄中報告」です。これはベルリン市内にあった陸軍刑務所で書かれエーベルハルト・ベートゲ(Eberhard Bethge)という友人に送られたものです。獄中の待遇一般や食事、作業、空襲警報、個別的なことなどです。特に留置者の空襲の際の叫声や怒号は経験した者しかわからないだろうと記しています。こうした手紙はすべて事前に当局によって検閲されていました。

 「両親への手紙」は、刑務所内から正規の検問とルートを経て、ほとんど10日に一度の割合でベルリンに住む両親に送られてものです。拘留生活のこと、日課、誕生日のお祝いの言葉、姪の結婚への祝い、獄中からの結婚式のための説教、などです。「あなた方二人は、これまでの生活を他に比べようもない感謝を持って振り返るべき理由を十分に持っているに違いありません。神はあなた方の結婚を結びつけて、離し給うことはありません。」

ウエストミンスター寺院の彫像 右端がボンヘッファー

 「ある友人への手紙」は親友であったベートゲへの書簡です。1940年以来、彼が一切の表現の自由を当局から剥奪されて以降は、告白教会のための、また抵抗運動のための多忙な生活を割いて原稿を書き続けます。昼間は、倫理学についての書物を書いたり、告白教会の常議委員会のための神学的な原稿を書き、夜は政治活動に携わっていたようです。こうした執筆は逮捕と投獄によって中断されます。

 本著の最後の章である「生命の微」は、神への感謝の祈りに満ちています。そのほんの一部を紹介します。

  神よ、私はあなたの永遠へと身を沈めながら
  私の民が自由の中に歩みいるのを見る。
  罪を罰し、喜んでこれを赦し給う神よ
  私はこの民を愛した。
  この民の恥と重荷とを負い、
  その救いを見たことにまさる歓びはない。
  私を支え、私を捕らえ給え!
  私の杖は倒れて地に落ちた。
  信実なる神よ、私の墓を備え給え。

 ナチスドイツの敗北直前に刑死するまで、数年間の過酷な獄中生活から紡ぎ出された著作で、戦後のキリスト教神学に絶大な影響を与えたのがディートリヒ・ボンヘッファーです。彼の死は、まるでキリストを木の十字架の上にかけたローマの政治の継続の姿です。それでも「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」とも主張し、キリスト教会がナチス政権に賛同し、自己存続のためだけに活動することに警告するのです。まるで、

参考資料
「抵抗と信従」ボンヘッファー選集(全9巻) 倉松功・森平太訳 新教出版社、1962年
「告白教会と世界教会」 ボンヘッファー選集(全9巻) 森野善右衛門訳 新教出版社、1962年
「服従と抵抗への道」森平太 新教出版社、2004年
                            
(投稿日時 2024年8月3日) 成田 滋

ハンナ・アーレントのイェルサレムのアイヒマン

注目

はじめに
 本著は、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)を訴追したイェルサレムの法廷を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)が「ニューヨーカー誌」(New Yorker)に投稿したものです。副題として「悪の陳腐さについての報告」が添えられています。「人間の皮をかぶった悪魔」 「自覚なき殺戮者」 「ナチスの歯車として与えられた命令を従順にこなし、ユダヤ人大虐殺に加担した男」などと呼ばれたのが元ナチス親衛隊員だったアイヒマンです。

逃亡と逮捕
 戦後、アイヒマンは主にナチス幹部の逃亡支援のために結成された「オデッサ」(ODESSA)などの組織の助力や、元ドイツ軍人や元ナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたローマの修道士の助力を得て、国際赤十字委員会から難民としての渡航証の発給を受けます。そして1950年7月ペロン(Juan Peron)政権の下、元ナチス党員などの主な逃亡先となっていたアルゼンチン(Argentine)のブエノスアイレス(Buenos Aires)にやってくるのです。

Jerusalem

 イスラエル諜報特務庁(モサド:Mossad) の工作員が1960年5月11日にブエノスアイレスでアイヒマンを拉致し、5月21日イスラエルへ連行します。そしてイェルサレムの法廷は、「アイヒマンがユダヤ人問題の最終的解決」(Holocaust) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担ったとして起訴します。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われる裁判が開かれ、同年12月に有罪判決を受け処刑されるのです。

 以上のようなアイヒマン逮捕と裁判劇は、各国から論争を呼びます。アイヒマンの拉致とイスラエルへの移送が発覚すると、アルゼンチン政府はイスラエルに抗議します。アルゼンチンの主権を侵害して強制的に連行された者を裁くことは,国際法に抵触するものであり,裁判所の管轄権を超えるものであるという立場を主張するのです。しかし、イスラエルとアルゼンチンの間には犯罪人引き渡し条約が結ばれていなかったため、国家を介した引き渡しができず、イスラエルは強硬手段によって移送し、起訴したのです。

 いかなる主権国も自国の犯罪者を裁く権利があります。そこでドイツもまたドイツ国籍であったアイヒマンを引き渡すように請求する権利がありました。しかし、ここでもアルゼンチンと同様にドイツとイスラエルの間には犯罪者引き渡し条約がありませんでした。このときのドイツの首相はアデナウアー(Konrad Adenauer)でした。

裁判経過 
 裁判に際してアイヒマン側の弁護士、ロバート・セルヴィアティス(Robert Servatius)らは,次の2つの理由に基づきイェルサレムの裁判所の管轄権を否定する主張をします。すなわち、被告人が犯した犯罪は,イスラエル国境の外において,しかもイスラエルが国家として成立する以前に,イスラエル国民でなかった人々に対して行われたものであったこと、またその犯行はイスラエル外で行われ、これを処罰しようとするイスラエルの法律は国際法に反すると主張します。他方、裁判官は法廷において、イスラエル国家はユダヤ人の国家として創設され承認され、それ故にユダヤ民族に対しなされた犯罪についての裁判権を有することを強調します。

 アイヒマンは、裁判を通して自分は告発されている罪の遂行を幇助および教唆したことだけは認めるのですが、決して自分では犯行そのものを行っていないと一貫して主張していきます。自分は法廷で真実を語ろうとして最善をつくしたが、法廷は自分を理解しなかった、自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望まなかったと陳述します。自分の罪は服従のためであり、服従は美徳として讃えられているとも主張します。自分の美徳はナチスの指導者に悪用されされたというのです。自分は支配層には属していなかった、自分は犠牲者なのであり、指導者達のみが罰に値するのだ、自分は皆に言われているような残酷非常の怪物ではない、自分はある誤解の犠牲者なのだ、という主張です。

 アーレントは、裁判を傍聴しながら、アイヒマンは自らの昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに、彼にはなんなの動機もなかったと言明します。この熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなく、大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており法廷での陳述においてナチス政権の命じた「価値転換」について語っています。彼は愚かではなく、完全な無思想性の持ち主だというのです。これは愚かさとは決して同じではない、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったことが陳腐であり、それのみか滑稽であるというのです。このような現実離反と無思想性は、人間のうちに恐らくは潜んでいる悪の本能に他ならないと指摘します。価値転換とは哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の言葉で、 従来の価値序列を転換することによって、これまで禁止されたり軽蔑されていた価値観の回復をはかるという意味です。ナチスが、 従来の体制の価値観を転換したということです。

Hannah Arendt

裁判の合法性
 ナチズムとは民族を軸に国民を統合しようとする国民主義と、マルクス主義や階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義を融合した全体主義的支配思想です。その本質とは、全ての組織を官僚制のもとにおき、人間を官吏に据え行政措置の中の単なる歯車に変えて、非人間化することです。アイヒマンはその中に組み込まれたのだと主張します。

 全てのドイツ系ユダヤ人は、1933年からのヒットラーによる警察権力の組織によってドイツ国民を呑み込み独裁国家としてユダヤ人を賤民としてしまった国家統制の波を非難します。そして、自分も同じ事情のもとでは悪い事をしたかもしれないという反省は寛容の精神をかきたてはするだろうが、今日キリスト教の慈悲を引き合いに出す人々は、この点について奇妙に混乱しているようだと アーレントは指摘します。独立国家であったカトリック教会のバチカン(Vatican)はヒトラー政府の正当性を公式に認知した最初の国となります。さらに、ドイツ福音教会(Evangelische Kirche in Deutschland)の戦後の声明はこう述べています。「わが国民がユダヤ人に対して行った暴行については、我々は不行為と沈黙によって同罪であることを慈悲の神の前で告白する」

 この声明に対してアーレントは、「もしキリスト教徒が悪に報いるに悪をもってしたなら、慈悲の神の前に罪有りとなる、数百万のユダヤ人が何かの罪を犯した罰として殺されたとすれば、教会は慈悲にそむいた罪を犯したことになるだろう。このように教会が自ら告白しているように、単なる暴行についてのみ同罪だとするのであれば、これを裁くべきものはどうしても正義の神だと考えなければならい。」と疑問を呈するのです。

 アイヒマンは、市民社会のほとんどすべての原理を徹底的に否定する独裁国家の行為を実行したにすぎなく、彼の身に起こったことは、今後また誰に起こるか判らないし、文明世界全体がこの問題に直面しているといいます。アイヒマンはいわば身代わりの贖罪者となったというのです。そしてアーレントは、当時のドイツ連邦政府は自分で責任を負うまいとして国際法に背いて、アイヒマンをイェルサレムの法廷に委ねたのだと批判します。

 アーレントは、「アイヒマンは愚かではなかったし、まったく思考していないこと、これは愚かさとは決して同じではない。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが「陳腐」であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な、または鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。」と回顧します。

Movie,Hanna Arendt


 アイヒマンが告発されたのは贖罪山羊が必要だったからであり、それも単にドイツ連邦共和国のためにだけでなく、起こったことすべてと、それを起こるのを可能にしたすべてのこと、つまり反ユダヤ人主義と全体主義支配のみならず人類と贖罪のために必要だったのだというのです。アーレントは、そうではなく正義のためにこそ開かれねばならなかったのがこの裁判であると主張します。

 オランダの思想家グロティウス(Hugo Grotius)は、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いています。判決では「犯行によって傷つけられた人間の名誉もしくは権威を守り、罰が行われなかったことによってその人間の権威失墜が生じないために、刑罰というものは必要である」というのです。このグロティウスの自然法の理念は、イェルサレム法廷の合法性を支えると同時に、アーレントの正義のためにという主張にも添うものです。

 イェルサレムの法廷が主張したのは、ホロコストは人種差別、追放、大量殺戮(ジェノサイト:genocide)であり、ユダヤ人の身においてなされた人道に対する罪だったことからして、ユダヤ人が犠牲者であったという限りユダヤ人の法廷が裁判を行うことは正当であるとします。しかし、ホロコストにはナチスによって作られた全国組織であるユダヤ人全国連盟やユダヤ人評議会員や長老らがナチスに協力したことが判明しています。こうしてユダヤ人自身が自民族の破壊に協力したことも事実として認めるべきだとアーレントは主張します。それに対して同じユダヤの知識人らは、アーレントはアイヒマンの責任を小さく評価し、ユダヤ人の責任に光をあてようとしているとして厳しく非難します。しかし、アーレントはアイヒマンの罪責を緩和しているのでは決してありませんでした。

おわりに
 ユダヤ人虐殺という罪が人道に対する罪である限り、それを裁くには国際法廷が必要だというのがアーレントの主張なのです。それに呼応するかのように、哲学者カール・ヤスパース(Karl Jaspers) も「ユダヤ人に対する罪は人類に対する罪でもあり、従って判決は全人類を代表する法廷によって下され得る」としてイェルサレムでの裁判の違法性を指摘するのです。圧倒的な組織と統制管理の時代にあって、どのようにして一人の凡庸な市民が想像を絶する罪の実行者になり得たかをアーレントは報告します。そうした平凡な悪人、陳腐な悪の出現がわれわれの時代の特徴的な現象であると警告するのが本著です。

資料
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年
 『イェルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告』 みずず書房 1994年

ハンナ・アーレントと全体主義の理解

注目

はにめに

『Hannah Arendt』という映画を観たことがありますか?この映画は、1951年に出版された「全体主義の起原」(The Origin of Totalitarianism)という著作を基にした作品です。この名著を執筆したのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)で、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者です。ナチスの全体主義(totalitarianism)はいかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか、アーレントはそれを、歴史的考察により究明しようとしました。この本は、歴史をさかのぼって探求する内容で、中々理解するのが難しい作品です。

アーレントが大学を卒業して間もない頃にドイツに台頭したヒトラーを党首とするナチス党(Nazi)は、ドイツが疲弊した原因がユダヤ人にあるとし、ユダヤ人が資本主義を牛耳り、経済領域で不公平な競争を行っていると主張するのです。そしてユダヤ人を絶滅させる「最終解決」(final solution) を掲げ反ユダヤ主義政策(antisemitism)をとります。ユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人は目の敵にされてしまいます。

Hanna Arendt

全体主義とは

全体主義とは何かという定義ですが、平凡社の世界大百科事典によりますと、〈個〉に対する〈全体〉の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動とあります。その用例として、イタリアのファシズム(Fascism)、ドイツのナチズム(Nazism)、ソビエトのスターリン(Joseph Stalin)体制、中国の一党独裁体制の基本的な特質を表現する概念とされています。アーレントによれば、全体主義とは、単なる主義でも思想でもなく,それに基づく運動/体制/社会現象を含むといわれています。全体主義はその内容は問われなく、どんなものでも任意に選ばれるというのです。

様々な「社会的な俗情」例えば、嫉妬,貪欲,恐怖心等に基づいて選定されます。その後,その俗情を隠蔽するために、ご都合主義的な理屈が無意識的にねつ造されたり,ご都合主義的なイデオロギーとなります。やがて理論が無意識的に選ばれ,テロをちらつかせ、プロパガンダに利用されていきます。当然ながら論理的,倫理的な一貫性が不在となり、必然的に人々は思考停止になり、体制側は様々な工夫を重ねながら,より効率的に全体主義を敷衍していくというのです。

アーレントは、全体主義は、専制や独裁制の変形でもなければ、野蛮への回帰でもないと主張します。20世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だというのです。その形成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしています。国民国家成立時に、同質性や求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムである「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を続ける帝国主義の下で生み出される「人種主義」(racism)の二つの潮流が、19世紀後半のヨーロッパで大きく広がっていきます。

Movie,Hanna Arendt

反ユダヤ主義とは

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する憎悪や敵意、偏見や迫害のことで、ユダヤ人を差別し排斥しようとする思想といわれます。人種主義とは、人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当たり前であるという思想です。その起源としては、近代以降、人種が不平等なのは自明であり、社会構造の問題は人種によって決定づけられるとしたことです。フランスにおける貴族という特権階級を正当化する目的が、最初期の人種主義とされます。

国民国家の誕生と帝国主義

歴史のおさらいですが、絶対王政が崩壊しフランス革命が起き、アメリカ独立革命という「市民革命」が起ききます。こうして国家主権は国民が持つという意識が生まれたのです。また、国民は、言語・文化・人種・宗教などを共有する一体のものと意識され、国民としての一体感が形成されます。そして国民が憲法などによって主権者であると規定され国民主権が確立したのが「国民国家」(nation state)なのです。単一民族で成り立っている国民国家はほとんど無く、アメリカのように多くは民族的特質の多様な人びとが国民国家を形成しているので「多民族国民国家」とも呼ばれます。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていきます。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越え一つにまとまることを目指す考え方です。

同時に19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が広がります。さらに、自分たちとは全く異なる現地人を未開の野蛮人とみなし差別する新たな人種主義が生まれます。他方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」(pan-ethnic movement)を展開します。 汎民族運動とは、民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーのことです。中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出します。そして国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていくのです。

やがて20世紀初頭、国民国家が衰退してゆく中、大衆らを民族的ナショナリズムの潮流を母胎にし、反ユダヤ主義的のような擬似宗教的な「世界観」を掲げることで大衆を動員していくのが「全体主義」であるとアーレントは分析します。全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだというのです。

アイヒマン裁判と悪の陳腐さ

何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺したことがどうして可能だったのか?アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」(New Yorker) の特派員としてイスラエル(Israel)に赴き「アイヒマン裁判」を傍聴します。アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)はユダヤ人移送局長官として、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者といわれました。アーレントは、実際のアイヒマンは、組織の論理に従い与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのを目の当たりにし驚愕します。自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったというのです。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントに思い起こさせるのです。

Adolf Eichmann

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントが見られます。誰もが悪をなしうるというのです。「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」、「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないか? アーレントはさらに言います。『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…

こうしてアーレントは「エルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告」(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)というニューヨーカー誌への寄稿のなかで「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実を指摘します。「Banality」とは、考え・話題・言葉などが退屈で陳腐なこと、という意味です。彼女は言います。『彼は愚かではなかった。完全に平凡で全く思想がない――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした要因だったのだ。』

アーレントへの批判

ニューヨーカー誌でこの報告が発表されると、アーレントは痛烈に批判されます。つまり『エルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト(Zionist)たちから「自分がユダヤ人であることを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」というのです。このような非難に、アーレントは、裏切り者扱いするユダヤ人やシオニストたちに対して、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人であることに自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論するのです。

アーレントは、「全体主義」とは、外側にある脅威ではなく、どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えてきたということです。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を誰もがもって全体主義の芽は、人間一人ひとりの内側に潜んでいるのがアーレントの主張です。全体主義は、人間関係を成り立たせる共通世界、共通感覚を破壊して、人々からまとま判断力を奪う、人々はイデオロギーによる論理の専制に支配されるというのです。

おわりに

アーレントの研究は、現代社会を省察する上で次のような示唆を与えています。経済格差が拡大し、雇用・年金・医療・福祉・教育などの基本インフラが不安視される現代社会は、「擬似宗教的な世界観」が浸透しやすい状況にあり、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があるというのです。擬似宗教的な世界観とは、前述したように反ユダヤ主義のような人種差別思想です。世の中が不安になると、人々は物事を他人任せにし、全体主義が登場する要因になるのです。アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。こうした過ちを再び犯さないためにも、私たちは政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要だとアーレントは示唆するのです。

参考書
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年

投稿日時 2024年7月7日        成田 滋

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

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ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

アメリカの文化 その3 多宗教の国

アメリカのキリスト教徒の半数弱がプロテスタント系(protestant)の宗派に属しており、ほかのキリスト教の宗派も合わせると、アメリカ人の約50%がキリスト教徒です。断っておきますが、こうした人々の大半は定期的に礼拝に出席しているとは限りません。プロテスタント系に属する人が多い理由は、ノルウェー人(Norwegian)やアイリッシュ(Irish)、オランダ人(Netherlander)などのように、宗教的な弾圧を避けてアメリカに渡ってきた人々にプロテスタント系の清教徒(Puritan) が多かったためです。

アメリカには約600万のユダヤ系の人々が住んでいます。世界中には約1,400万人のユダヤ人がいるといわれます。ユダヤ教徒は神による天地創造から始まる旧約聖書のみを聖典としています。トーラー(Torah)と呼ばれるモーセ五書がそうです。ユダヤ教は3大宗教の一つとして数えられていますが、キリスト教やイスラム教のように民族や時代を超えて信仰されているいわゆる「世界宗教」とはいわれていません。ユダヤ民族のための「民族宗教」であると考えられています。そのため、信徒が少ないとも言われています。

安息日(シャバット-Sabbath)はユダヤ人の生活の中心です。土曜日は休息の日として「何も行ってはならないと定められた日」とされています。家事を含め日中は一切の労働を行わないという習慣です。キリスト教徒は、土曜日ではなく日曜日を安息日として教会の礼拝にでかけます。

ユダヤ人の他に中東アジア、東南アジアからのイスラム教徒が多いのもアメリカです。全米における人口でいえば、アラブ系は400万人、イスラム教徒は700万人といわれています。こうした人々はモスクを造り礼拝しています。9.11同時多発テロ事件の直後、不幸にしてアラブ系やイスラム教徒への強い反発(バックラッシュ)が高まりました。憎悪犯罪(ヘイトクライム)の対象ともなったのがこうした人々です。

イスラム教の特徴は、他の宗教と以下の点で大きく異なります。イスラム教徒の行為とは、単に宗教上の信仰生活のみを要求するだけでなく、イスラム国家の政治のあり方、教徒間や異教徒の間の社会関係にわたるすべてを定めていることです。このことからイスラム教は、教徒の信仰と社会生活のすべての側面を規定するともいえる宗教といわれます。

ユダヤ人と私 その41 悪意のこもったジョーク

強制収容所にいた監視者であるカポー(Kapo)や厨房係はユダヤ人の少数者でありました。収容所内では彼らは出世組といわれていたようです。彼らの振る舞いに対して、恨みや妬みに凝り固まっていた多数者である非収容者は、さまざまなガス抜きという心理的反応で応じていたといわれます。それは時に悪意のこもったジョークだったります。例えばこんなジョークが作られたといわれます。

二人の非収容者がおしゃべりをしていて、話題がある男に及びます。男はまさに出世組といわれるカポーでありました。一人が言うのです。

「俺はあの男を知っているぜ。あいつは市で一番大きな銀行の頭取だったんだ。なのにここではカポー風を吹かしやがっている。」

実のところカポーや厨房係は一見、出世組に見えたようですが、親衛隊は定期的に出世組を交代させ、新たな出世組に替えたといいます。収容所の秘密が漏れるのを防ぐために、それまでの出世組は消されていったということです。

女性のカポーもまた仲間から憎まれます。収容所内で親衛隊員に体を与えてまで生きようとします。こうして親衛隊に忠誠を尽くして衣食住の面で特権を与えられ、つかの間の待遇を楽しんだカポーもまた多くのユダヤ人と同じ運命を辿っていきます。よしんば行きながらえたとしても、過酷な仕打ち、たとえば髪を刈り上げられるとか、見せしめに合うといった行為が待っていました。

「ユダヤ人と私」のシリーズはこれで一応お終いとします。

ユダヤ人と私 その40 「スープは底のほうから、、」

強制収容所生活のつかの間の楽しみは誠に貧しいながら,パンと水のようなスープにありつくときだったようです。スープの鍋底には僅かなジャガイモや豆が残っています。時には、ソーセージの切れ端もあったようです。作業現場では親衛隊の下部組織であったカポー(kapo)と呼ばれるユダヤ人の監督が囚人の指揮をとっていました。同じくユダヤ人の非収容者である厨房係がパンきれを渡し、スープを鍋からすくっていたのです。その収容者は「底のほうからお願いします」と懇願したそうです。数粒の豆が皿に入るからです。

Majdenak

フランクルは前回の外科医との笑いの他に、仲間達と他愛のない滑稽な未来図を描いてみせています。誰しも解放されて、ふるさとに残した家族との再会を想い浮かべるという設定です。ふるさとに帰り、あるとき友人宅での夕食に招かれたとします。スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに作業現場でカポーに言うように「底のほうからお願いします」といってしまうんじゃないかって、、、」

「こうしたユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ」というようにフランクルは自虐的らしくいいます。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということを踏まえたとすると、生きるためにはこのような姿勢もあり得るのだ、とフランクは言います。

「こんな悲惨な状況の中では、誰もが人間性を失ってもおかしくはない。だが極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。」

フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるのです。そして深刻な時ほど笑いが必要だというのです。ユーモアの題材を探し出すことで、現状打破の突破口があるとも言うのです。フランクルは、作曲家マーラー(Gustav Mahler)に心酔していたようです。

「ユーモアは人間だけに与えられた、神的といってもいいほどの崇高な能力である。」

ユダヤ人と私 その39 ヴィクトール・フランクルとユーモア

フランクルの強制収容所の体験記「夜と霧」には生き残った人々、亡くなっていった人々の心理と行動が克明に記されています。その中に人々に生きる力を与えた3つのことが書かれています。 それは日々祈る人、音楽を愛する人、そしてユーモアのセンスを持っているということです。

World War II. Auschwitz concentration camp: pile of glasses.

「部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しかもたないもであったが、、」

「わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!」

「やけくそのユーモアの他もう一つ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。…ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。苦しみの大小は問題でないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。」

「ひとりの気心の知れた外科医の仲間と建築現場で働いていたとき、わたしはこの仲間に少しずつユーモアを吹き込んだ。毎日、義務として最低ひとつは笑い話を作ろうと。それもいつか解放されふるさとに帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろうと。」

「前もって言っておかねばならないが、作業現場では現場監督がやってくると監視兵はあわてて作業スピードを上げさせようとして、動け、動け、と怒鳴って労働者をせきたてた。さて私の話はこうだ。」
「あるときみは昔のようにオペ室で長丁場の胃の手術をしている。突然、オペ室のスタッフが叫びながら飛び込んでくる。「動け、動け、外科医長が来たぞ!」

ユダヤ人と私 その38 ヴィクトール・フランクルと現象学

フランクルの思想の形成には、初期現象学派のマックス・シェーラー(Max Scheler)やブレンターノ(Franz Brentano)といった哲学者の影響があることを前回述べました。この「現象学(phenomenology)」という学問のことです。ブリタニカ国際大百科事典から現象学の定義を引用してみます。

現象学とは、意識のうちで経験されるものとしての諸現象を直接的に探求し記述することで、それら諸現象の因果的説明に関する諸理論は抜きにして、できる限り未吟味の先入見や前提から自由になることである。

なかなか理解するのが手強い考え方です。

フライブルク大学(University of Freiburg)で教鞭をとっていたドイツの哲学者フッサール(Edmund Husserl)は現象学を次のように主張します。

現象学は意識の本質的な諸構造に関する学問であるが、このような現象を展開するためには、諸現象から経験的な科学によって研究される一切の単に事実的な諸事象を一掃することである。さらに、一切の構成的な諸解釈を捨て去ってこれを純粋化するのである。

シェーラーやブレンターノ、そしてフッサールらはドイツ観念論のような思弁による概念構成の哲学を退けます。そして経験的立場からの哲学を主張するのです。さらに、現象を心的現象と物的現象とに分け、この心的現象の根本的な特徴として「志向性Intentionalität)」という概念を導入して、「対象への関係」についての意識の働きに注目します。

いろいろな人々が空間や時間の問題、生活と科学との関係、他者や共同社会、歴史の問題に関して諸々の提言をしています。そのとき大事なのが、事実そのものを先入見なしに、ありのまま見つめ直すことが現象学の考えです。人間の体験の意味を問い直す現象学の根本精神は、現代における人間科学の方法として今日も定着しているといえます。

ユダヤ人と私 その37 ヴィクトール・フランクルとユーモア

1946年に出版されたナチス強制収容所での体験記が「夜と霧」(Man’s Search for Meaning)です。著者はヴィクトール・フランクル(Viktor E.Frankl)。アウシュヴィッツ–ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)から奇跡的に生還したユダヤ人の精神科医師です。
この著書の題名は、「Trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」。日本語訳すると『それでも人生に然りと言う: 一人の心理学者、強制収容所を体験する』となります。1956年にみすず書房から霜山徳爾氏によって翻訳されます。本邦で出版された題名は原題とは異なります。「夜と霧」という題名はナチスが出していた特別命令に由来します。夜陰に乗じ霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人が神隠しのように消えて行く歴史的事実を表現する言い回しだ、といわれています。この著作にもユーモアが登場します。

フランクルの思想の基底は実は、収容所体験以前に培われています。それは高校時代に既にフロイト(Sigmund Freud)への手紙に論文を添付して読んで欲しいと依頼したというエピソードがあります。その原稿は2年後に国際精神分析学会誌に掲載されたというのです。それだけでもフランクの碩学さがうかがえるというものです。

フランクルはウィーン大学(Universität Wien)でアドラー(Alfred Adler)、初期現象学派の一人シェーラー(Max Scheler)、ブレンターノ(Franz Brentano)らの思想に触れていたことです。こうした著名な人々との交流の影響を受け、やがてフランクルは独自の理論を構築していきます。24歳のとき抑うつ症状のある若者のために「青少年相談所」を開設し学生や失業者の相談に応じます。

ウィーン大学病院での臨床体験を経て32歳のとき、ウィーン市内に精神科のクリニックを開業します。1941年にナチスから出頭命令がきますが、一年間の執行猶予がでます。そしてユダヤ人病院の精神科に勤務します。その間、それまで積み上げてきた事例とそれを基にして新しい理論をまとめます。それが後年に出版した「死と愛」という本です。これがデビュー作品といわれます。

ユダヤ人と私 その36 口をふさぐことを知らない人間

ユダヤ人は議論やディベートが好きな民族といわれます。一を語るのに十を言う癖があるといわれます。そのために饒舌を戒める諺が多いようです。討論は一種の芸術であるという人もいますが、饒舌には辟易するものです。

・人はしゃべることは生まれてすぐ覚えるが、黙することはなかなか覚えられない。

沈黙も言葉なのです。この言葉を学ぶと多くの語彙を増やすことができるといわれます。耳を傾けることによって学ぶことが多いということです。黙することは、喋ることよりも苦しいことです。黙することを教えられてこなかったからでしょう。

・口をふさぐことを知らない人間は戸が閉まらない家と変わらない。

口についての警句がユダヤ人の格言に多いのが目だちます。関連して思うのは、都議選中の防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」という放言です。公人意識が完全に不足しています。さらに選挙結果の後、安倍首相は次のように語っていました。

「今後、国政に関しては一時の停滞も許されない。内外に課題は山積している。反省すべき点はしっかりと反省しながら、謙虚に丁寧にしかし、やるべきことはしっかりと前に進めていかなければならない。」

このような殊勝な言葉を並べ、批判をかわそうとする姿勢は情けないことです。反省はいつも口先だけってことを多くの国民は嫌というほど知っています。なぜ敗北したのか、その分析を国民は知りたいのです。心から反省しないから、国政の課題に転嫁するのです。「戸が閉まらない家」というのは、心に隙があり、必ず誰かにかき回されるということです。

黙すること、口をふさぐことは、自分の立場をわきまえる人です。

ユダヤ人と私 その35 ユダヤ人の笑いと知恵の世界

具体的な小咄のことがジョーク(joke)、自虐的で単純な言葉遊びが駄洒落(pun)、人を和ませるような可笑味のことがユーモア(humour)といわれます。こうした笑いを誘う言葉の定義が本題ではありません。ユダヤ人の中で知られている笑いのフレーズから、人間の本質のようなことを考えてみたいのです。

日本語に「諧謔 」があります。ブリタニカ国際大百科事典で調べてみますと、「おもしろさと共感とが混り合った状況を描写すること」とあります。これはユーモアといってよいのだろうと思われます。ユダヤ人が創作したフレーズにもユーモアと才気とか精神といわれるエスプリ(esprit)がたっぷり込められています。

・理想のない教育は、未来のない現在と変わらない。

神が人間をつくり、人間の手に世界を委ねられたときに世界をより良いものにする責任を課せられたと教えられます。ユダヤ教では教えを守るだけでなく、つくりださねばならないといも教えられています。正義が行われる世界をつくるということです。

・エルサレムが滅びたのは教育が悪かったからである。

西暦70年、ローマ軍により市街のほか聖地であるエルサレム神殿も破壊されます。敗退とか滅びとは通常軍事力を指します。このユダヤ人の教えは、力ではなく民の力が不十分であったという反省が込められています。滅びは道徳や倫理の退廃、生活の奢侈や乱れなどもあったようです。すべて民の教育が体を成していなかったという教訓です。

・口よりも耳を高い地位につけよ。

人間は口によって滅びることはありますが、耳によって滅びた者はいません。昨今の国会議員の言動もすべて口による災いと報いです。口は自分を主張します。耳は人々の主張を聞きます。動物に耳や目が二つあり、口は一つであることは敵の攻撃に備え、狩りの時に大事なものはなにかを示唆しています。

ユダヤ人と私  その34 ユダヤ人と笑い

「ヘブル(Hebrew)」の語源を調べると、「ユーラテス川(River Euphrates)の向こうからきた人々」、「一方の側に立つ人」とあります。もともと難民のような者でした。こうした国籍を持たない民族は国家の保護が求められなかったはずです。居住地を求め仕事を得ることは困難を極め、自らの才覚によって生きる術を探さなければなりません。「Hebrew」といわれた人々は、こうして知識と知恵を必要とし学ぶことを尊ぶ民族であることも暗示しています。いろいろな経験をし、いろいろな見方を編みだし生きてきた人々であったはずです。

知識と知恵の源はなんといってもこれはタルムード(Talmud)といえます。タルムードには宗教や法律、哲学や道徳など人生と生活のあらゆる事柄について書かれている、いわばユダヤの知恵の宝庫といわれます。全部で二十巻におよび、12,000ページに及びます。タルムードはラビたちの教えがつまっていて、様々な議論や解説も書かれているといわれます。ラビには権威があるのです。同時に、実は書かれている言葉よりも、その書かれているものをどう考えるかということで、けんけんがくがくと議論することこそがユダヤ人の優秀さの下地になっているともいわれます。

中でもユダヤ人で特徴的な事の一つが、笑い、ユーモア(humour)好きでジョーク好きであることです。明治大学の鈴木健氏によるとユーモアには3つの理論ともいえるものがあります。第一が「優越理論」で余裕を見せる笑いといわれます。他人を笑うのはもちろん、自分自身も笑うという余裕すらあるといわれます。他人を笑うのは易しことです。自分を笑うことによって向上しようとする気概も感じさせてくれるのですから不思議です。社会や制度、政治を笑いによって矯正する働きもあります。

第二は「解消理論」です。これには心的な緊張緩和を促す笑いがあります。ユーモアによって対話を盛り上げたり、その場の緊張と解くことができます。綾小路きみまろの毒舌漫談がそうです。中高年世代の悲哀をユーモラスに語ります。「笑う門には福来る」もそうです。

第三が「不調和理論」は驚きを生みだす笑いとえます。97歳の年寄りと医師との会話です。
医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「死なないことだな。」

 医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「タバコを吸わないこと。」
 医師 「いつタバコを止めたのですか?」
 年寄り「去年だったかな、、」

医師が期待する答えが裏切られ、驚きに中にユーモアを感じるのです。惚けた話で可笑味が伝わります。

ユダヤ人と私  その33 ユダヤ人への誤解と偏見

ユダヤ人が他の民族にはみられない迫害を受けてきたことは既に述べました。そのような過酷な状況に耐えて、なおユダヤ人であることの矜持を保ってきたことは興味ある話題です。

生命の危機や財産の没収、改宗の強制、そして追放などに耐えるためには大きな知恵を必要としたようです。別な見方をするならば、こうした試練に耐えられたユダヤ人が生き残り陶冶されたわけです。まさに知的に優れた者が生き残ったともいえそうです。ユダヤ教が崇高にして絶対であるという信念が、ユダヤ人としての揺るぎない誇りと文化を継承してきたといえます。

しかし、ユダヤ人の独自性、例えば安息日を忠実に守る、安息日には乗りものを使わない、火を使わない、料理も作らない、食事の戒律を守るなど厳しい掟は他の民族からすれば奇異に映ることもあります。ユダヤ人のこうした生き様は、ユダヤ人が世界の他の民族とは異なるものであり、ユダヤの世界対他の世界というように考えていることから生まれまています。ですがこうした考え方は、多民族と対立したり排斥したりするということではありません。

厳しい戒律を実践するユダヤ人は狂信的な集団であるという偏見が長く続きました。これは明らかな間違いです。ユダヤ人は適度を尊ぶ民族だからです。禁欲、清廉、隠遁といった習慣はありません。ラビもまた妻帯することができます。独身は人間を創造し性を与えた神に背く行為であると考えるのです。金銭も同様です。お金が貯まるときは、慈善(charity)を施すことを強調します。

ユダヤ社会には「ツェダカ」(Tzedakah) 」と呼ばれる貧しいものに手を差し伸べる教えがあります。
寄付の習慣があります。収入の10%と定められています。キリスト教会が奨励している「十分の一献金」はユダヤ教から由来します。寄附するときの順序は、遠くの人より近くの人、近くの人よりも肉親、親族、遠くの肉親よりも同居の肉親という順序で寄付をするべきであるとされています。ヘブル語で「Tzedakah」は正義とか平等、公正という意味です。ツェダカは興味ある思想です。

ユダヤ人と私  その32 ユダヤ教とハヌカとマガベウスと感謝祭

どの国にも収穫を感謝し、お祝いをする習慣があります。我が国でも古くから五穀の収穫を祝う風習があります。「新嘗祭」といって宮中祭祀の一つで今も続いています。その年の収穫物はそれからの一年を養う大切な蓄えとなります。勤労感謝の祝日はその年の五穀豊穣と来るべき年の豊作を祈願する日でもあります。

ユダヤ人には、ハヌカ(Hanukah)という祝いの儀式があります。「奉献の祭り」とか「宮清めの祭り」と呼ばれています。この儀式と祭りには次のような背景があります。紀元前165年、ユダ・マガベウス(Judas Maccabeus)という指導者に率いられたユダヤ人がマカバイ戦争(Maccabean Revolt)を指導し、エルサレムの神殿からシリアの支配下にあった異教の祭壇を撤去し神殿を清めて再びヤハウェ神(Yahweh)に神殿の奉納を行ったとされています。神殿の燭台(menorah)に汚されていない油壺が一つだけ見つかったそうです。それを灯して奉納を祝ったことから、ハヌカは別名「光の祭り」といわれています。今年のハヌカは11月27日の日没から12月5日の日没までの8日間です。

ハヌカが広く知られるようになったのには、ヘンデル(George F. Handel)が作曲した聖譚曲、オラトリオ(Oratorio)に「Judas Macabeo」があります。この曲に「見よ、征服の勇者は帰る(See, the Conquring Hero Comes!) 」という管弦楽付きの合唱曲があります。スポーツ大会の表彰式でしばしば演奏されるものです。勇者とはマガベウスのことです。このように宗教的な歴史を取り上げた中世の典礼劇がオラトリオで、バロック(Baroque)音楽を代表する楽曲形式の一つといわれます。

話題をより一般的な祝いに戻しますと感謝祭(Thanksgiving)に触れなければなりません。アメリカこの祭りが始まったのは清教徒たちがプリマス(Plymouth)の地で1621年に始めたともいわれます。この地で干ばつが続きようやく雨が降った1623年が本格的な感謝祭の始まりだという説もあります。同時に、感謝祭ではマサチューセッツ(Massachusetts)のプリマスにあるPlymouth Rockという記念碑の前では、ネイティブ・アメリカンであるワンパンゴ部族(Wampanoag)による感謝祭に対する反対の集会もひらかれます。この日を追悼日(National Day of Mourning)として民族の差別を覚える日としている。アメリカ・インディアン民族遺産日(American Indian Heritage Day)とする人々もいます。

ユダヤ人と私 その31 ユダヤ教の主な儀礼  過越しの祭

奴隷状態にあったユダヤ民族のエジプト脱出を記念するのが「過越しの祭(Passover)」です。旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)12章に記述されています。それによりますと、エジプトに避難していたイスラエル人は奴隷として虐げられていました。神は、指導者モーセ(Moses)に対して民を約束の地カナン(Cannan)へと導くようにいいます。エジプト君主のファラオ(Pharaoh)がこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して災いを臨ませます。

その災いとは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものでありました。神は、門口に仔羊の血が塗らねていない家にその災いを臨ませることをモーセに伝えます。このように、仔羊の血が門口にあったユダヤ人の家だけは悪霊が過越したという故事にちなむのです。 悪霊が通り過ぎるのを願ったのです。

聖書の命令に従って、ユダヤ教では今日でも過越祭を守り行っています。 このユダヤ暦によれば春分の日の後の最初の満月の日からの一週間はペサハ (Pesach)と呼ばれるユダヤ教の祭りのひとつです。過越しの祭では、マッツァ(Matzah)と呼ばれる酵母なしのパンを食します。酵母を混ぜて膨らむのを待つだけの時間の余裕がなかったのでパンをそのまま食べたといわれます。3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは、エジプトを脱出した時の記憶を忘れないように酵母でふくらませたパンを食べないのです。過越祭のことを除酵祭とも呼ばれています。

ユダヤ人と私  その30 ユダヤ教の主な儀礼 安息日と割礼

ユダヤ人にとって最も大事な儀式は、シャバト(Shabato)と呼ばれる安息日をまもることです。正確には金曜日の日没から安息日が始まります。土曜日はいかなる労働も行わないことを求められます。「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という教えです。このフレーズは旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)20章8節にあります。3世紀頃から安息日を花嫁と呼ぶ習慣もあります。金曜日は日が落ちる頃、ラビは戸外に出て安息日の正装をし「花嫁よ、来たれ」と言ったそうです。なお、「Shabato」は 英語では「Sabbath」で安息という意味です。

シャバトのいわれは創世記(Genesis)にあり、神が6日かけて世界を作った後、7日目に休んだことに由来します。これが現在世界中で使われるカレンダーが週で区切られ、特定の日を休みとする習慣が広がったいわれです。ユダヤ人のコミュニティでは、学校や職場は金曜日は午前中までで、日没後は商店などを閉め公共の交通機関も止まってしまいます。家事をすることもできません。主婦は安息日のため金曜日に週末の食事を用意するので忙しく振る舞うことになります。

もう一つの儀式は、生後8日目の男子に施される割礼(circumcision)です。男性器の包皮を切りとる儀式です。これはヘブル名の命名式も兼ねていて、家族や親戚、友人などを沢山招いた中で盛大に祝います。割礼の記録は、創世記(Book of Genesis)17章9-14節にあり、アブラハム(Abraham)と神の永遠の契約として割礼を行うことが定められています。Wikipediaによりますとキリスト教圏、例えばアメリカでは5割の子供が割礼をするとあります。衛生上の理由などで割礼が行われているようですが、さほど一般的ではないようです。

ユダヤ人と私  その29 ユダヤ教の主な儀礼 バア・ミツヴァ

ユダヤ教にはいくつかの教派があります。ユダヤ教保守派(Conservative Judaism)‎、ユダヤ教正統派‎(Orthodox Judaism)、ユダヤ教改革派(Reform Judaism‎)などです。ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々です。ですから日本人もロシア人もアメリカ人もユダヤ教で信仰告白をすればユダヤ人となります。ユダヤ人とは多民族、他文化、多言語の人々の集まりです。こうした教派に共通な人生の節目に行う主な儀礼について述べることにします。私が私淑し尊敬する外科医師、Dr. Robert Jacobs氏から伺ったことがある儀式です。

Images that leave you speechless – Domino Arts

 実は、かつてJacobs氏からご子息の成人の祝いの案内を頂戴したことがあります。ユダヤ教徒には、男子が13歳、女子が12歳になるとそれぞれバア・ミツヴァ(Bar Mitzvah)、バト・ミツヴァ(Bat Mitzvah)という儀式があります。ヘブル語でBarは息子、Batは娘という意味です。男女ともこの儀式によって、ユダヤ法に従う宗教的で社会的な責任があるとみなされます。ちなみにプロテスタントのキリスト教会では堅信礼(confirmation)とか成人祝福式といわれます。日本における元服にあたります。

男子はこの年齢になるまでに、ヘデル(cheyder)という寺子屋のような学校でヘブル語(Hebrew)やモーセ五書といわれるトーラー(Torah)、さらにユダヤ教徒の生活や信仰の基となるタルムード(Talmud)を勉強します。こうしてバア・ミツヴァ儀式で祈祷の朗誦ができるようになるのです。

この儀式を経るとユダヤ社会では大人として認められ、それまで免除されていた断食を初めとするすべての戒律の順守、倫理観に基づいた生活習慣の実践、責任ある行動などが要求されます。コミュニティの一員として儀式や礼拝への参加も正式に認められます。

ユダヤ人と私 その28 ユダヤ教とメンデルスゾーン

前回、ユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)に触れました。長い間、ユダヤ人はドイツに背を向け思想的に閉ざしていたとわれます。メンデルスゾーンはユダヤ人にドイツの文化を理解し交流を深めることを推奨し、それと同時にドイツ人に対してユダヤ人の文化も理解してもらおうと努力した人です。ドイツの社会を受け入れ、それにユダヤ人も同化していこうという姿勢でありました。

メンデルスゾーンは、ユダヤ人の思想的な解放の先頭に立ち、ユダヤ人啓蒙のためにドイツ語教育学校を興し、同時にユダヤの伝統文化や遺産の継承を重視します。さらにユダヤ教内部における近代ヨーロッパ文化の影響とそれに対する啓蒙主義運動であるハスカーラー(Haskalah)を提唱します。キリスト教社会に広く流布していたユダヤ教への偏見やユダヤ人への理由なき誹謗や中傷など反ユダヤ主義(Antisemitism)の修正を求めることにも腐心します。ユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させたといわれます。

ドイツもスペインもユダヤ人に改宗を迫った歴史があります。 こうして反ユダヤ主義も高まり、社会の抱えている問題をすべてユダヤ人に押し付けてしまう風潮も起こります。その例が、ユダヤは世界を征服しようとしているといったユダヤ陰謀説(Jewish plot)という荒唐無稽な風潮です。

他方でメンデルスゾーンらの同化思想は根本的な問題を生み出します。同化を推し進めることによってユダヤ人のアイデンティティとはなにかという問いが盛んになったのです。ユダヤ教という中核的な教えがあり、そうした要因にがユダヤ人の心の拠りどころとなっています。それがやがて伝統的なユダヤ教や宗教シオニズム運動(Zionism)を促進することになります。

モーゼの律法はユダヤ人たちのアイデンティティを維持する強固な役割を果たしてきました。同時に世俗に照らしてそれは遵守されるべき法ではありますが、徐々に人間の内的精神が自発的に従うべき道徳的基準に過ぎなくもなりました。つまり人間としての権利を獲得し義務を遂行できるためには、「国家と宗教」という市民的秩序、「世俗のことと教会のこと」という社会説という支柱を相互に対置させ均衡がとれるようにすることをメンデルスゾーンは叫ぶのです。

もう1人のユダヤ人哲学者にハーマン・コーエン(Hermann Cohen)がいます。メンデルスゾーンと同様に同化思想を唱道します。パレスチナにユダヤ人国家を建設しようというユダヤ民族運動にも反対します。ユダヤ主義とは本質的に歴史発展または伝統とは無関係であり、霊的で道徳的な使命を帯びているのであって、民族国家の建設を超越した思想であると主張します。偏狭になりがちな民族運動にくぎを刺したのがコーエンです。

ユダヤ人と私 その27 ユダヤの哲学について

ユダヤ人は古代ギリシャ人のような厳密な意味での哲学の概念を持っていたのか、というのが本文のテーマです。相当難しい課題です。

ギリシャ哲学は、百科事典などによりますと非常に大雑把にいって自然や宇宙、万有がいかにして生じ、なにを原理として成り立っているか、人間の道徳と実践という知に対する尊厳を追求します。古代ギリシャの哲学者は人間にとって「徳」とはなんであるかよりも、魂や精神の卓越性を知として追求してきたようです。ロゴス(logos)が世界原理であるとした哲学者はヘラクレイトス(Herakleitos)といわれます。ロゴスとは概念、理論、論理、理由、思想などの意味です。

本題のユダヤ人の哲学観についてです。旧約聖書には、神、人間、自然などについての哲学的関心を示す多くの思想が見いだされます。その目的は諸概念を知的対象として究明するのではなく、むしろそこに啓示されたモーゼの律法を絶対的なものとして受けとめ、それをいかにして具体化するか、という信仰的な実践の問題であったようです。ユダヤ人が哲学に対する関心を示したのは、異質な外来思想と接触し、彼らの伝統的な教えとの矛盾を感じ、それらについて懐疑し始めたからだといわれます。この外来思想とはギリシャ思想であり、近代の啓蒙哲学です。

ギリシャ思想とユダヤ思想との調和という課題をとりあげた最初のユダヤ人哲学者にフィロン(Philon Alexandrinus)がいます。フィロンは紀元前30年頃活躍したようです。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて援用したことで知られています。フィロンはロゴスに新しい観念を与えます。それは、この世に実在するのは、可知の世界といわれるイディア(Idea)であり、イディアの創造を行うのは神の精神であるというのです。旧約聖書の神の愛ついては、「我々の心の平和のなかに神を見いだすためには身体や感覚、あるいは語るということからさえ離れて、魂のなかにのみ生きることを学ばねばならない」とします。ロゴスが神の言葉であるという思想は、後にキリスト教において、イエスが天地の創造に先立って存在したというの思想と結びついていきます。

しかし、ユダヤ教の内部でいかにしてモーゼの律法を彼らの現実社会に適用するという課題が論議されます。これをまとめたのがタルムード(Talmud)と呼ばれる口伝です。別名口伝律法といわれ、五世紀頃までに編集されます。しかし、フィロンの思想は伝統的なユダヤ教の人々からは受け入れられませんでした。

近世になり、ユダヤ人はヨーロッパのキリスト教国に居住し、その国々の文化に同化するようになります。ユダヤ思想もまた、近代の啓蒙哲学の影響を受け新たな局面を迎えます。ユダヤ教の特徴を抑えて普遍的な理性原理の上で確立することが提唱されていきます。その代表的なユダヤ人哲学者がモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)とハーマン・コーエン(Hermann Cohen)です。

ユダヤ人と私  その26 アメリカの大学とユダヤ系

アメリカの大学の発展、とくに超一流大学といわれる大学経営の充実にはユダヤ系の資産家が深く関わっています。多くの総合大学にはヒレル・インターナショナル(Hillel International)という団体があります。ユダヤ系の学生や留学生を支援しています。 Hillel とは1世紀頃のパレスチナにおけるユダヤ議会(The Jewish Sanhedrin)の議長であり霊的指導者の名前です。

Hillel Internationalが設立されたのは1923年で、イリノイ大学アーバナ・シャンペン校(University of Illinois, Urbana-Champaign)です。創立したのはバーナイ・ブリス(Bnai Brith)という資産家です。翌年、ウィスコンシン大学のノーマン・ナサク(Norman De Nosaquo)という学生がHillel Internationalに手紙を書き、それがきっかけでUW-Madison内にヒレルの組織ができます。

1937年にリー・レビンジ(Lee Levinge)というユダヤ人の研究者が「The Jewish Student in America」という論文を書き、その中で1,400の大学でユダヤ人が学んでいることを報告しています。1939年になるとHillel Internationalは全米の12大学で財団を組織し、その他18大学に支部組織をつくります。その後、オハイオ州立大学(Ohio State University)、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University) などにその組織が広がっていきます。

今や、ほとんどの大学でユダヤ系アメリカ人が学んでいます。一流大学の1/4がユダヤ人で、1/5がアジア系の学生が占めるといわれています。こうした学生は学費の全額を払うので、私立大学では大いに歓迎されています。学費の納入が困難な学生を救うために、州立大学ではアファーマティブ・アクション(Affirmative action)があって黒人やヒスパニックの学生を優先的に受け入れる枠を設けています。

大学教官の採用でもアファーマティブ・アクションが働いています。適度な資質又は研究成果があったとしても、マイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁があるといわれてきました。特に女性のキャリアを阻む障壁のメタファー(metaphor)が「ガラスの天井(glass ceiling)」といわれるものです。「ガラスの天井」は男女を問わずマイノリティの地位向上を阻む壁としても用いられるようになりました。ただ大学の研究と教育の質を維持するために、アファーマティブ・アクションに対して疑問視する人々が大勢いるのも事実です。

一流大学の学長や理事にはユダヤ人が多くいます。特に第二次大戦後はそうです。この現象は、ロックフェラー(Rockefeller)、JPモルガン(J.P. Morgan)、ハリマン(Brown Brothers Harriman)、メロン(Andrew Carnegie)、ロスチャイルド(Rothschild)といった資産家がこぞって大学に多額の寄附ををすることに現れます。大学は財団をつくり、大学経営の財源とするのです。このように大学経営には資産家からの寄附が欠かせません。そのために理事会(Board of Regents)は資産家や銀行家などで組織し、学長(president)選びなどで巨大な権限を有するようになりました。現職の教職員は理事にはなれません。アメリカの大学で一番偉いのは学長ではなく理事会なのです。これがアメリカの大学のガバナンスです。

ユダヤ人と私  その25 アメリカのインターネットと金融界とユダヤ系人

ンターネット関連の業界をみると、オラクル(Oracle)の創始者ラリー・エリソン(Larry Ellison) 、フィイスブック(Facebook)の創始者マーク・サッカーバーガー(Mark Zuckerberg)、デル(Dell)のマイケル・デル(Michael Dell)、グーグル(Google)のラリー・ペイジ(Larry Page)など蒼々たる人材がユダヤ系です。恐らくこうした起業家は多くの投資をユダヤ人から受けたのではないでしょうか。例えば投機家であり投資家であるジョージ・ソロス(George Soros)。彼もユダヤ系アメリカ人です。世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の創始者はマーカス・ゴールドマン(Markas Goldman)。彼もユダヤ系です。

リーマンブラザーズ(Lehman Brothers)の創業者は、ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emmanuel)、マイヤー(Myer)のリーマン兄弟(Lehman Brothers)です。1850年に創立されアメリカで第4位の規模を持つ巨大証券会社でした。2008年9月に破産し、その影響は「リーマンクラッシュ(Lehman Crash)」と呼ばれました。 財閥のロスチャイルド家(Rothschild)もアシュケナジムです。

しかし、ユダヤ系の人々が世界の金融や資本を支配しているというのは言い過ぎです。世界経済のほんの一握りの影響です。なぜかユダヤ人の活躍が話題となりがちですが、それはたまたま彼らの家庭環境や受けてきた教育、所属していたコミュニティの影響が大きいと思われます。金融界どの人物にも共通するのが、超一流の大学で高等教育を受けてきたことです。そして全員上昇志向であるのは頷けます。「成功の半分は忍耐だ」というユダヤ人の格言もあります。

現在のニューヨーク・タイムズ(New York Times)の社主はアーサー・サルツバーガー(Arthur Sulzberger Jr.)でユダヤ系です。この新聞の伝統はリベラルな論調で知られています。多くのユダヤ人はこの新聞を読んでいます。議論好きだからだでしょうか。

ユダヤ人と私  その24 世界経済とユダヤ人

新聞紙上などでアメリカの経済界の人物を見渡しても、ユダヤ系アメリカ人の活躍は抜きんでています。アメリカ中央銀行である連邦準備制度理事会(Federal Reserve System:FRS)の第15代議長はジャネット・イエレン(Janet Yellen)です。史上初の女性議長です。副議長はザンビア出身のスタンレーフィッシアー(Stanley Fischer)。彼は2013年にまでイスラエル中央銀行総裁です。イエレンの前任者のベン・バーナンキ(Ben Bernanke)。さらにバーナンキの前任者は、アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)です。偶然かどうか分かりませんが全員ユダヤ系です。特にグリーンスパンは四代の大統領に仕えた人です。

ユダヤ系の経済学者のことですが、クリントン(William Clinton)政権での財務長官はローレンス・サマーズ(Lawrence Henry Summers)です。かれはハーヴァード大学の学長を歴任した経歴があります。女性は統計的にみて数学と科学の最高レベルでの研究に適していないといった発言などによって学長を辞任し、さらに連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board: FRB)議長候補として有力視されましたが辞退します。FRBは七名の理事で構成されますが、一時は五名までがユダヤ系の人であったことがあります。ドナルド・コーン(Donald Kohn)もイエレンとともにFRBの理事でした。

世界銀行 (World Bank: WB)と国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF)があります。いずれもワシントンDCに本部があり、共に国際金融秩序の根幹を占めています。二つともアメリカが実質的な拒否権を持っています。世界銀行の出資額の 16%、IMFの出資額の18%がアメリカであるからです。第10代世界銀行総裁だったのがポール・ウォルフォウィッツ(Paul Wolfowitz)です。彼もユダヤ系アメリカン人です。アメリカが金融の中心であるのは世界銀行と国際通貨基金をいわば抑えており、その出資はユダヤ系の金融資本といわれます。

ユダヤ人と私 その23 タルムードとベーグル

なんともとぼけたようなタイトルですが、ユーモアは人間味と笑いとペーソスに溢れ、知的で機知に富んでいるものです。ユダヤ人は交渉や商談商談の最中にジョークを盛んに活用するといわれます。辛辣なジョークもユーモアとともに相手を丸め込む手段となります。ユダヤ人は話術を磨くことで難局を切り抜け、3000年の歴史を歩んできたのでしょう。

ユダヤ人のユーモアの起源は、紀元前10世紀にイスラエルを統治したソロモン王が記したとされる旧約聖書の「箴言(Book of Proverbs)」といわれます。この書には3,000あまりの格言があるといわれます。ユーモアがもたらす効用を熟知するのはこうした書物に辿ることができます。

以下の名句の中に差別用語がでてきますが、原典からの引用なのでそのまま使っています。

●ベーグルを全部食べてしまったら、穴しか残らない。
とぼけたようなジョークです。ベーグル(bagel)は真ん中に穴のあいた歯ごたえのあるパン。大事なものは残しておくべきということでしょうか。「五円玉使ったら穴しか残らない」。

●アイディアに税金はかからない。
なににでも税金がかかる時代です。合法的な税金逃れが提案されています。寄附をするとか、ふるさと納税とか、医療費控除とか、「知らない人は損をして、知ってる人が得をする」のがアイディアということでしょう。

●10回尋ねるほうが迷うよりまし。
あれこれと迷うと良い考えが浮かびません。周りに助言をもらったり提案してもらうことがよいようです。解決方法を探すには尋ね歩くことです。

●返答しないのも立派な返答である。
これは難しい名句です。あまり喋りすぎると矛盾が生じることがあります。言い訳しないで黙り込む。短く要領よく答えるのが大事なようです。

●バカとは決して商売をするな。
商売相手を見極めよ、という警句です。たとえ儲かっても相手によってはうしろめたさが残ることもあります。

●バカに決して腹を立ててはならない。
バカに旗を立てるのがバカ、ということです。笑ってやりすごすこと、無視することです。

●もっともバカなのは、自分を賢いと思い込んでいるバカだ。
皆、「自分を賢い」と密かに思っています。これが「バカ状態」です。バカにつける薬はない、というフレーズもあります。

●学習を怠る人はすべてに欠ける。
なんともいえないいい響きの言葉です。努力とか精進とかを欠かしては成長がないということです。歩きながら、自転車に乗りながらスマホを操作する人は学習を怠っている証左です。

●無知な人には老年は冬だが、学習を重ねた人にはそれは収穫期だ。
励ましになるような、同情をかうような言葉にも響きます。無駄に時をつかい、歳をとってはならないことです。老年は意味ある時代です。

●学べば行動したくなる。
学ぶことは好奇心があるからです。学んで実行したくなるのは、真の学びといえるのではないでしょうか。行動するとまた学びに返ってくるものです。

●口数を少なくして行動せよ。
冗長で話をくどくどとする人は周りから嫌われます。誰も耳を傾けないのです。行動したり実践することが雄弁に語るのです。

●時間ができたら勉強をする、と言っていたのでは、いつまでたっても時間はできない。
勉強する人は時間を惜しんでも勉強します。時間を作る人のことです。暇になったらなにかをしようではなく、今の時を将来のために有益に使うことを示唆しています。

素のベーグルはたまらないですね。暖めてクリームチーズを塗るのが定番の食べ方。厚くハムをはさむのもええです。

ユダヤ人と私 その22 タルムードからの名句

トケイヤー師は、「タルムード(Talmud)」からいろいろな名句や言葉を紹介しています。タルムードユダヤ教徒の生活や信仰の基となっている聖典です。いくつかの本からその一部を紹介することにします。「本日、「いいかげん」日和:そのまんま楽しく生きる一日一話」、「ユダヤ人5000年のユーモア―知的センスと創造力を高める笑いのエッセンス」は笑えて考えさせられます。また烏賀陽正弘著の「ユダヤ人ならこう考える」からも引用します。

一人の古い親友は、新しくできた10人の友人よりも大事だ。
友達の大切さを強調しているのですが、とりわけ親友はなににもまして代え難い存在であることです。友人をつくり親友を探すことを勧める名句です。

豚は食べ過ぎる。苦しんでいる人間は話し過ぎる。
食べ過ぎるとブヨブヨに太り病気になりがちです。話が冗長になるのは苦しんでいるか、困っているために、言葉を探そうとするからなおさら話が長くなるのです。国会の答弁のようです。

ロバは長い耳によって見分けられ、愚か者は長い舌によって見分けられる。
饒舌で長い演説をするもの、国会で長々と答弁する大臣がいます。「そもそも」とか「いずれにせよ」など余計なフレーズで言い訳や説明をすることへの警鐘の言葉です。

貧しい者は僅かな敵しかいないが、金持ちは僅かな友しかいない。
金持ちは孤独になりがちで、貧しい者のほうが生きていくうえで幸いであるということです。何が大事かと言えばそれは友ということでしょう。

人から秘密を聞き出す事は易しいが、その秘密を守る事は難しい。
森友学園や加計学園をめぐる土地の売却や認可の過程にある秘密のことをこの名句は指摘しているかのようです。名句の真骨頂といえるでしょう。公文書管理の難しさを指摘しています。

三つのものは隠す事が出来ない。恋、咳、貧しさ。
恋は誰かに感づかれ、咳は隠しようもなく、貧しさは周りの者から見破られます。自然に振る舞うのがよいようです。隠せば隠すほどぼろがでます。学校設立認可を巡る官庁間の鬩ぎ合いもそうです。

侮辱から逃げろ。しかし名誉を追うな。
周りから蔑まれても落ち込むことなく静かに勇気をもって退く。だが名誉は追っかければ追っかけるほど逃げていく。それは名誉を求めるのは愚かな行為であるというのです。

ユダヤの名句やジョークは知的なものが目だちます。長く苦しい歴史が生んだ智恵といえるでしょう。馬鹿馬鹿しいギャグやコントの比ではありません。

ユダヤ人と私 その21 タルムードの教えから

一般には、旧約聖書を分かり易く解説したものが「タルムード(Talmud)」だと言われています。このことに関してラビであるマーヴィン・トケイヤー師(Marvin Tokayer)は「タルムード的」という言葉を頻繁に使い、しきりに賞賛しています。ユダヤ教の霊的な指導者ですから当然のことといえます。トケイヤー師は在日米空軍の従軍牧師(chaplain)として日本に滞在し、退役後は日本ユダヤ教団に勤務し1976年まで日本に滞在しています。その間日本語で20冊の本を著しています。

「タルムード」は素晴らしい書物といわれていますが、全巻を日本語に翻訳されて出版されていません。書店が日本語に翻訳する許可を求めても、発行元はそれを許可しないといわれています。 どうしてかといいますと、ユダヤ以外の民族、いゆる異邦人にとって不快感を抱くに十分な内容もそこに書かれているからだといわれていますが、真偽は定かではありません。

「タルムード」は「口伝律法」と呼ばれています。文字通り古代から言い伝えられてきた教えです。口伝律法が必要だったのは、現実の状況に適合する規定をつくるために成分律法と直接関係のない広範囲な権威を認めなければならなかったからです。

平凡社の「世界大百科事典」によりますと「タルムード」は三つの内容となっています。第一はミドラッシュ(Midrash)です。これはモーセ五書であるトーラ(Torah)本文分の講解や解釈です。第二はハラハ(Halakhah)と呼ばれ古から受け入れられてきた慣習や権威ある律法学者の判定や裁定のことです。Halakhahの原意は「歩き方」といわれています。第三はハガダ(Haggadah)です。これは説話や民話、伝説など基づく教えのことです。

旧約聖書に書かれていない物語や様々な逸話は、ユダヤ教のあり方、思想、歴史、生活、人物などに及びます。こうした逸話の概念用語は「アガダ(Aggadah)」と呼ばれ、その意味は「語り」といわれます。口伝律法はユダヤ教の口伝えの伝統を示すといえます。

ユダヤ人と私 その21 「学びの宗教」

このシリーズの[その1]でミルウォーキーの近くに住む医師で熱心なユダヤ教徒であるDr. Robert Jacobs一家のことに触れました。国際ロータリークラブの会員で地域貢献活動にも極めて活発な方です。Jacobs氏はユダヤ系といってもアシュケナジム(Ashkenazim)です。ドイツ系ユダヤ人のことです。国際ローターリークラブ奨学生であった私のスポンサーでもありました。

アシュケナジムのユダヤ人は子供の教育を大事にしています。週2回、子供達をシナゴーグ(Synagogue)での教典の勉強会に通わせています。神と人間との関係を定めた「トーラ」(Tola)」、慣習や倫理、専門知識など、より具体的に人間同士の関わりについて定めた「タルムード」(Talmud)を学ばせ、大人への仲間入りを準備させるためです。Jacobs氏は子供にヘブライ語も学ばせていました。近くにユダヤ人学校がないために公立学校で勉強させ、下校後シナゴーグで勉強させていたといいます。

ユダヤ教は、経典を学習する「学び」の宗教であると主張する学者がいます。この学者によればタルムードの解釈をめぐっては、先人たちの考えを決して鵜呑みにしないのだそうです。今の時代に合わせて教えが妥当するのかを検証します。そして様々な新しい視点を取り入れて議論しながら、幅広い知識を身につけるのユダヤ人の学習スタイルだといわれます。

特にアシュケナジムのユダヤ人には、教育は投資であるという徹底した考え方があります。彼らの多くは公教育のレベルが非常に高い地域や名門私立校のある街を選んで暮らします。たとえその街の固定資産税が高くても、自分の子供にとってベストな環境を選ぶといわれます。子供達に高い望を期待するのがユダヤ人です。学力のみならず、道徳的な基盤となる人格形成もユダヤ人の教育機関が担っています。

ユダヤ人が集まった街があちらこちにあります。その代表的がイリノイ州(Illinois)のスコーキー(Skokie)です。1960年代には40%の人口がユダヤ系だったそうです。2009年には、イリノイ・ホロコスト博物館兼教育センター(Illinois Holocaust Museum and Education Center)がスコーキーに造られます。いうまでもなくユダヤ人の浄財によるものです。

ユダヤ人と私 その20 セファルディムとミズラヒム

第一次大戦前のオスマン帝国(Osman Empire)時代のパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況は、イスラエルの建国後とは全く異なっていたようです。セファルディムがパレスチナ(Palestina)での実権を握っていたのです。というのはスペインがレコンキスタ(Reconquista)という国土回復運動を完了したとして、1492年のユダヤ人追放令によって、多くのユダヤ人、セファルディムがイベリア半島からオスマン帝国領に避難してきます。オスマン帝国は、ミレット制(millet)といわれる保護と支配を兼ねる特殊な宗教自治体を設け、各宗教や宗派の宗教的な自治を認めてきました。ユダヤ教徒ではその自治を担ってきたのがセファルディム系でした。彼らはオスマン帝国によって庇護されてきたのです。

Petty Officer 2nd Class Bridget Shanahan, a corpsman with Shock Trauma Platoon, 2nd Combat Logistics Battalion, and Lance Cpl. Michael Johnson, a wireman with Communications Platoon, Headquarters and Service Company, 2nd Battalion, 25th Marine Regiment, Regimental Combat Team 5, hand out stuffed animals to a second grade student at Houran Primary School in Rutbah, Iraq, Dec. 2. Not only was this the first time most of the children at Houran had ever interacted with Coalition forces, but it was an education in the integral role that females serve in the U.S. military.

しかし、第一次大戦後はイギリスによるパレスチナの委任統治が始まると情勢は一変します。19世紀末からユダヤ国家建設運動であるシオニズムが台頭するにつれて、国家建設を主導しパレスチナへの移民し入植していきます。その中心がアシュケナジムです。そのため建国後政治や社会、経済や文化といったあらゆる面でセファルディムに代わって権力や影響力を握ることになります。

ナチスの露骨な反ユダヤ主義的な政策のために、パレスチナへの移民の中心となったユダヤ人はドイツやポーランドなど中央ヨーロッパの出身者です。こうした移民の特徴は、資産家というカテゴリに属する人々です。イギリスによる委任統治政策は1,000パレスチナ・ポンド以上の資産を有するユダヤ人に限り、無制限にパレスチナへの入国を許可します。ドイツ系ユダヤ人はパレスチナに膨大な資本と技術をもたらし、経済の再生産を促すことになります。こうしたユダヤ人はアシュケナジムです。ドイツ系ユダヤ人を受け入れることで、パレスチナは経済的に自律的な社会の成長をとげていきます。

もう一派のユダヤ系の人々のことです。1948年のイスラエルの建国後、アシュケナジムに加えてアラブ諸国やイスラム世界からユダヤ人が増加します。こうした人々は伝統的なアラブ世界やイスラム教が多数派の社会のユダヤ人で「ミズラヒム(Mizrachim)」と呼ばれました。「ミズラハ Mizrach」 とはヘブル語で「東」を意味し、文字通り中東やモロッコ(Morocco)から移住してきたユダヤ人です。「ミズラヒム」の人々は、イスラエル建国への反発から生まれたイスラム世界におけるユダヤ人迫害が強くなり、イスラエルに移住を余儀なくされた人々のことです。こうした東方系のユダヤ人は、セファルディムとしてくくられているようです。

以上の考察から、イスラエルという国は、人種のるつぼであり多民族で他文化の国であるということがわかります。

ユダヤ人と私 その19 アシュケナジムとセファルディム

イスラエルの民族や文化の理解のためには、ユダヤ人の内部のエスニックな事情を知っておく必要があります。といいますのは、イスラエル人とは曖昧な総称であり、その解釈は様々で時に誤解が生まれるからです。

ユダヤ人は大きく二つに分類される人種といわれます。その第一がアシュケナジム(Ashkenazim)、第二はセファルディム(Sephardim)です。前者は一般にドイツ系ユダヤ人であり、後者はスペイン系ユダヤ人といわれます。

アシュケナジムは、もともとドイツのライン川(Rhine River)流域や北フランスに定住していたユダヤ人とその子孫です。その後東ヨーロッパやロシアへ移住していきます。ユダヤ系のディアスポラ(diaspora)と呼ばれてもいます。白系ユダヤ人ともいわれます。ドイツ語に似たイディッシュ語(Yiddish)を使っていました。アシュケナジムの語源は、旧約聖書におさめられた創世記(Book of Genesis)10章3節ならびに、ユダヤの歴史書である歴代誌(Books of Chronicles)上1章6節に登場する男性の名前です。

他方、セファルディムは中世にスペイン、ポルトガルが位置するイベリア半島(Iberial Peninsula)に住んでいたユダヤ人の子孫です。ユダヤ系スペイン語である「ラディノ語(Ladino)」を使っていました。セファルディムは有色人種、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われています。セファルディムの意味はヘブル語でスペインを意味します。この二つの民族が今日のユダヤ社会の二大勢力となっています。

ユダヤ人は当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったといわれます。ヨーロッパとイスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから定住商人となり、キリスト教徒が禁止されていた金融業等へと進出していきます。

ユダヤ人と私 その18 ユダヤ人と日本とのつながり

ユダヤ人と日本人は世界史の中で寄り添うような関係を持ったことがあります。日露戦争の経緯にその関係がうかがわれます。

戦争の遂行のために日本は膨大な戦費を必要としていました。そのために国債を発行し外貨を得ようとします。当時の日本銀行副総裁、高橋是清はそのための外貨調達に非常に苦心したといわれます。投資家からは日本の敗北予想、国債支払い能力の不安などで外貨調達は困難を極めます。

高橋らの努力で、帝政ロシアを敵視するユダヤ系のアメリカ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)は、500万ポンドの外債を引き受け、その後も追加の融資をします。融資の理由はロシア国内での反ユダヤ主義(Antisemitism)に対するシフらユダヤ人の抗議であったといわれます。反ユダヤ主義の例は、ポグロム(pogrom)というユダヤ人への集団迫害です。

日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を追加募集します。シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)などに呼びかけ、この募集も実現するという幸運に恵まれるのです。日本はシフなどのユダヤ系投資家によって軍費を調達し日露戦争を遂行できます。日露戦争は、帝政ロシア崩壊のきっかけとなったといわれます。

シフは実業家として成功します。同時に彼は寄附や慈善とか形で同胞に貢献します。ヘブライ・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College-Jewish Institute of Religion)の創立に援助します。このカレッジは、聖職者を養成するユダヤ教改革派の神学校です。その他、コロンビア大学(Columbia University)とかイスラエル工科大学(Israel Institute of Technology)などにも多額の資金を提供したことで知られています。

今もアメリカにあるまざまなユダヤ人の団体、例えばアメリカシオニスト機構(Zionist Organization of America: ZOA)とかアメリカ・イスラエル公共問題委員会(American Israel Public Affairs Committee: AIPAC)アメリカとイスラエルの関係を維持する強力ななロビイスト団体であると同時にイスラエルに多額の支援をしています。

ユダヤ人と私 その17 ユダヤ人の日本とのつながり ヨセフ・トランペルドール

マーヴィン・トケイヤー師(Rabbi Marvin Tokayer)は著者の中で、日本とユダヤの関係は、日本がユダヤから影響を受けるだけでなく、日本がイスラエルに大きな影響を与えたこともあったというエピソードも紹介しています。

Die sogenannten “Hep-Hep-Krawalle” in Frankfurt am Main, Antisemitische Ausschreitungen in Deutschland 1819; Radierung, zeitgenössischOriginal: Frankfurt am Main, Historisches MuseumStandort bitte unbedingt angeben!;

日露戦争で捕虜となったヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor)のことです。数千人のロシア兵捕虜の一人として大阪は堺市の捕虜収容所で暮らします。彼は収容所での親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓ったとか。収容所内でユダヤ人に関する新聞を発行し、小さな教室を開いて歴史や地理、文学に関する講義をしたようです。後にトランペルドールはシオニスト運動に加わり英国軍とパレスティナの各地で戦いイスラエルの建国に尽くします。

少し遡りますが1848年には、那覇にユダヤ系で当時はイギリス国籍であった医師兼プロテスタント宣教師のバーナード・ベッテルハイム(Bernard Bettelheim)とその家族がやってきます。本土でユダヤ人共同体が構成されたのは万延元年の1860年頃といわれ、開港間もない長崎の外国人居留地にコミュニティがつくられます。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいたとあります。横浜は山手の丘の上にある外国人墓地では、ユダヤ教の象徴である「ダヴィデの星」の墓碑をみることができます。

1861年には、ロシアやポーランドで集団的迫害であるポグロム(Pogroms)を受けたユダヤ系の難民が長崎に上陸します。さらに1894年頃、長崎に日本初の礼拝所であるシナゴーグ(Synagogue)がつくられます。このシナゴーグは別名ケヒッラー(Qehillah)と呼ばれるユダヤ教徒のコミュニティのことです。技術者、船員、商人が多く、シナゴーグと宗教的指導者であり学者でもあるラビ(rabbi)をおいて、学校もつくったといわれます。こうした記録は墓銘などから分かっています。ユダヤ人にとって宗教的な教育は大事な活動だったことが伺われます。

ユダヤ人と私 その15  ユダヤ教とキリスト教の論争

19世紀に入り、近代化の流れの中でヨーロッパに政治運動としてのシオニズム(Zionism)が台頭します。その理由は、ナポレオン一世(Napoleon Bonaparte) が征服した国々の中でユダヤ人の平等視を命じたことにあります。こうして一方でヨーロッパでユダヤ人が政治的に解放されていくにつれ、他方でユダヤ教の民族性脱却の考え方への不満を反映していく機運が高まっていきます。これがシオニズム運動です。

のような経緯かといいますと、伝統的なユダヤ人とユダヤ教がローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)やプロテスタント教会(Protestant Church) と同じように民族性を越えた信仰者の団体であるべきことを確信するユダヤ人との間で激しい論争が交わされていたことです。この論争を終息させたのは、皮肉にもナチス時代の迫害でありました。

ユダヤ教の立場からは、キリスト教はユダヤ教の異端の一つであるという見方です。この二つの宗教の確執は2000年にもわたります。キリスト教の側は、キリスト教が契約の真に成就した教義として宣言します。しかし、両者の新しい和解の芽生えが1993年のヴァチカン(Vatican)とイスラエル(Israel)との外交関係の樹立です。単に政治的な関係の改善だけでなく、和解という宗教的な意味を持つできごとでした。

和解の具体的なこととして、両者がパレスチナ(Palestine)の重要な役割を認識すること、ユダヤ人コミュニティの教会的な定義づけが歴史に公正な判断を下すことにならないこと、ユダヤ教が観念的な教義で成り立つと見なすことは神学的に健全でないこと、反ユダヤ主義や人種差別と対決すること、礼拝の自由を擁護し、ユダヤ教、キリスト教の聖地を尊重することなど、政治的な内容を越えたものが盛り込まれます。

ユダヤ人と私 その13 エスノセントリズムとホロコスト

ユダヤ民族の悲劇は第二次大戦中のホロコスト(Holocaust)です。Encyclopaedia Britannicaによりますと「Holocaust」は「神への焼かれた生けにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉といわれます。ホロコストは、生けにえを捧げる儀式「燔祭」から由来し、後にナチスが組織的に行った大量虐殺のことです。旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)には、年老いたモーゼ(Moses)と不妊の妻サラ(Sarah)との間にもうけた一人息子イサク(Isaac)を生けにえとして捧げるよう、モーゼが信じる神によって命じられるという試練の記述があります。

エスノセントリズムの代表例がホロコストです。自分の属する内集団と,属さない外集団との差別を強く意識し,内集団には肯定的服従的態度を,外集団には否定的敵対的態度をとる精神的傾向を指します。これが極端になるとユダヤ人迫害のホロコストにみられるような極端な排外主義になります。アングロサクソン(Anglo-Saxons)を含むゲルマン(Germanic peoples)民族の選民思想や人種思想を標榜したのがナチスドイツでありました。

ワシントンD.C.のモール(Mall)の一角にホロコスト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)があります。1993年4月に開館した比較的新しい博物館です。ついでながら、この博物館で私の国際ロータリー奨学金のスポンサーであるDr. Robert Jacobsの名前が寄付者の碑にありました。

 

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ユダヤ人と私 その12 選民思想と「エスノセントリズム」

反ユダヤ主義者(anti‐Semites)は、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、民族や人種の文化を基準として他の文化を否定的にとらえる自民族中心主義である」などと主張します。それはユダヤ人への偏見と憎悪に満ちた見方であります。ユダヤ人は散らされた民であるがゆえに、共同体をつくり、知恵を絞り懸命に働いて財をなし、生き延びなければならなかった歴史があります。

4月14日、最近になって顕在化する反ユダヤ主義的な言動は、一時的な苛立ち、それとも無理解、あるいは単なる無知からくるものなのだろうか。写真は2014年9月、ベルリンで行われたユダヤ人差別に反対する大規模集会の開始を待つ男性(2017年 ロイター/Thomas Peter)

ユダヤ人は、神が選びだして聖なる使命を与えた民族であり、神との間に特別な「契約」を結んだ民族であるということを信じています。ユダヤ人は選ばれた民族であることを誇りにしますが、理不尽に他を排除することはありません。ですが安全保障を脅かす者に対しては,武力などあらゆる手段を講じます。その例は三度にわたる中東戦争であり、エルサレム(Jerusalem)のユダヤ化政策であり、分離壁の建設です。この意味で、現在のイスラエルは軍事国家といえるのです。

選民であるという思想は、しばしばエスノセントリズム(ethnocentrism)と関連しています。エスノセントリズムは、自文化中心主義ともいわれ、自己の属する集団のもつ価値観を据えて,異なった人々の集団の行動や価値観を評価しようとする見方や態度を指します。キリスト教での定義では「選ばれた」という状態は自らを卑下する思想とされます。この考え方は他者よりも多くの責任を負い、ときに自分を犠牲にするという姿勢です。ユダヤ教の選民思想とは異なります。

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ユダヤ人と私 その11 「戦場のピアニスト」

映画は、私たちが文字で学ぶ歴史を可視化してくれる不思議なメディアです。歴史の場にいなくても歴史の事実を追体験させてくれ、我々の知性や悟性を大いに刺激してくれます。

「The Pianist」という映画がありました。ここに登場するのは、第二次大戦のポーランド・ワルシャワ(Warsaw)と苦悩する市民です。破壊尽くされた街を一人の男がとぼとぼと食料かなにかを求めて歩いています。これが有名なピアニスなどとは誰も想像できません。戦争は人間を貴賤の別なく、哀れな存在としておっぽり出すのです。栄光も名誉もかなぐり捨てて食べ物をあさる人々がそこにいるのです。

「The Pianist」は、ポーランドに住み、ピアニストとして活躍していたユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマン(Whadyshaw Szpilman)の生き様を描いています。シュピルマンは、廃墟でピックルス入りの缶詰を拾い、それを開けようとします。そこにドイツ軍将校が立っています。「お前は誰か?」、「お前の職業はなんだったのか?」とシュピルマンにきく。

シュピルマン:「ピアニストだった。」
将校:「では弾いて貰おうか。」

半信半疑の将校は、ピアノのある部屋にシュピルマンを案内します。こうしてシュピルマンはピアノに向かってしばらく沈黙し、そして意を決して弾き始めます。曲はショパン(Frederic Chopin)のバラード一番、ト短調(Ballade NO.1, G minor)。戦争の最中、将校は至福の時間を過ごすかのように聞き惚れるのです。

弾き終わると自分のマントを寒さにあえぐシュピルマンに与えます。その時からピアニストに食料を届けるのです。将校の名はウィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld)。弾く者と鑑賞できる者に国籍はいりません。この瞬間に二人には戦争もありません。

ユダヤ人と私 その10 「シンドラーのリスト」

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画には、見応えのある印象的な手法が随所に散りばめられています。監督スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)がいかに創造的な映画制作者であるかを考えさせられる作品でもあります。

登場するシンドラー(Oskar Schindler)はドイツ人の実業家です。ドイツ軍への食器類を製造しています。決して死の商人ではなく、ドイツ人将校を賄賂で手玉にとり、ビジネスを発展させるのです。ですがユダヤ人に対するナチスの苛酷な対応に次第に疑問を持ち、少しでも彼らを救おうと決心します。シンドラーの改心ともいえるところがこの映画の一つの見所です。

シンドラーは、ポーランドのクラカウ・プラショフ(Krakow-Plaszow)という街で琺瑯食器工場を造り、軍に納めるのです。そこで闇マーケットで活躍するスターン(Itzhak Stern)というユダヤ人を会計士として雇い、ビジネスを展開します。シンドラーとスターンは工場経営のために、いろいろなところから融資を受けます。そして多くのユダヤ人を工員として採用するのです。これによって強制収容所行きを免れるのです。

クラカウ・プラショフ強制収容所の所長としてエーモン・ゲート(Amon Goeth)という将校が赴任すしてきます。残忍な手法でユダヤ人を苦しめるのですが、シンドラーは巧みに振る舞い、賄賂によってゲートからいろいろな譲歩を引き出します。シンドラーはゲットーや収容所での恣意的な拷問や殺害を目撃します。一人の少女が赤い服を着てナチスから逃れようします。だが、シンドラーはやがてこの赤い服を着て冷たくなった少女が手押し車に積まれて運ばれるのを目撃するのです。

ユダヤ人と私 その9 Hannah Arendtと「凡庸な悪」

アドルフ・アイヒマンの裁判は1961年4月にエルサレムで開始されます。この様子は世界中に報道されます。罪状は「人道に対する罪」や「ユダヤ人に対する犯罪」ということです。

ユダヤ系のアメリカ人であるハナ・アーレント(Hannah Arendt)は、原告と被告とのやりとりを傍聴し、その記録を精査しながら、1961年に雑誌「The New Yorker」において、「エルサレムにおけるアイヒマン:凡庸な悪」と題して投稿します。その中で、被告は思考を停止した「凡庸な悪(Banality of Evil)」を実行した人物であり、命令を忠実に実行し、その行為と結果になんらの評価もせぬ一凡人であり、弾劾するに値しない人物だと看破するのです。

この裁判は、世界中の人々の監視にさらすことで公正な裁き期そういう意図ですが、アーレントはセンセーションを煽るようなこのような裁判に疑問を投げかけます。こうして彼女は、ホロコストの犠牲者に対する冷酷で憐れみのない人間として、同胞やの友人から強い批判を受け、教鞭をとっていたニューヨーク市内のThe New Schoolからは辞職を勧告されます。だが彼女の信念は揺るぎません。

「人間は人道的、技術的な知力を身につけるにつれ、行動の結果を制御する能力がなくなくなるパラドックスに直面する存在である」とアーレントはいいます。このパラドックスは現代においても私たちを脅かし続けています。例えば、核開発競争と平和運動であり、自由貿易主義と保護貿易主義のせめぎ合いといったことです。

ユダヤ人と私 その8 映画「Hannah Arendt」

映画「Hannah Arendt」を観た方はいるでしょうか。2012年のドイツとフランス合作の伝記ドラマ映画です。この映画のテーマは、ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家であったハナ・アーレント(Hannah Arendt)の「人間の知性には限界がある」という主張です。どいうことかを2回に分けて説明します。

映画はアーレントがアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の裁判を傍聴するところから始まります。ナチスドイツの親衛隊中佐(SS)としてホロコスト(Holocaust)に関わったアイヒマンは、1960年に逃亡先のブエノスアイレス(Buenos Aires)でイスラエル(Israel)の諜報特務機関であるモサド(Mossad)によって逮捕されます。

この裁判は1961年4月、イスラエルのエルサレム(Jerusalem)で開始されます。アイヒマンは「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」、および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴されるのです。その裁判は世界に報道され国際的な注目を浴びました。多くの証言によってナチスによる残虐行為が語られ、ホロコストの実態がいかに醜いものであったか、ナチスの支配がいかに非人道的であったかを世界中に伝えられることになります。

裁判を通じてアイヒマンはナチスによるユダヤ人迫害について遺憾の意を表しながらも、自らの行為については「命令に従った」と主張します。さらに「戦争では、たった一つしか責任は問われない。命令に従う責任ということだ。もし命令に背けば軍法会議にかけられる。そうした状況で、命令に従う以外には何もできなかった。」と陳述するのです。そして「自分の罪は命令に従順だったことだ」とも弁明します。こうして、かつての親衛隊員に対して怨嗟していた傍聴者や報道機関を戸惑わせたといわれます。

ユダヤ人と私 その7  KosherとHalal

ユダヤ教では、食べてよいものと食べてはならないものの掟があります。旧約聖書のレビ記(Book of Leviticus)や申命記(Book of Deuteronomy)にその記述があります。この食事規定のことはヘブル語(Hebrew)でカシュルート(kashrut)とかユダヤ人食事法(Jewish dietary law)と呼ばれます。「kashrut」とはヘブル語で「相応しい状態」という意味です。

レビ記は清浄と不浄などを規定し、献げ物や動物の扱いに関しても定めています。レビ記はユダヤ教における律法の中心となったと神学者はいいます。申命記はモーゼが死海 (Dead Sea)の東岸にあるモアブ(Moab)の荒野で民に対して行った3つの説話から成り、十戒が繰り返し教えられています。食のタブーは宗教や民族によって異なる厳格なルールです。

食べてよいものは一般にコーシャ(Kosher)と呼ばれます。ユダヤ教に掟にそって作られたものです。マーケットにいくとコーシャ食品と名のつくものが時々目につきます。例えば、ピクルス(pickles)にも塩にもKosherというのがあります。コーシャの意味は「適正だ」(fit)とか「浄い」ということです。イスラム圏では、ハラル(Halal)がありイスラム法上で食べることが許されている食材や料理を指します。

ユダヤ人にとって宗教的に不浄な食物の例に豚肉があります。食事の作法も律法で規定されています。手を洗うこと、食卓に就いて感謝の祈りを捧げること、そして食後の感謝の祈りがあります。神が命じたことを守るという習慣と行為は、食事にはっきり示されています。食事が宗教儀式となっているといえます。

ユダヤ人と私 その6 「栄光への脱出」

映画好きの私は、ユダヤ教やキリスト教関連のフィルムの場面を想い出すことができます。「十戒」もそうです。この映画の舞台は旧約聖書時代です。時代を経て現代の作品となりますと1960年制作の『栄光への脱出』(Exodus) となります。この映画は、シオニズム(Zionism)を信奉するユダヤ人たちのイスラエル建国までの苦闘を描いた物語です。『栄光への脱出』は、アメリカ人歴史小説家、レオン・ユリス(Leon Uris)の作品「Exodus」に基づいています。

監督は、オーストリアーハンガリー(Austrian-Hungary)帝国生れのオットー・プレミンジャ(Otto Preminger)、憂愁に満ちたテーマ音楽を作曲したのはアーネスト・ゴールド(Ernest Gold)。二人ともユダヤ人です。サウンドトラックの演奏はHenry Manciniで知られている映画です。「Exodus」とは「大量脱出」とか「集団逃亡」という意味です。「Exodus」のもともとの出典は、旧約聖書の「出エジプト記」です。

祖国を失っていたユダヤ人がキプロス島(Cyprus)に集まります。しかし、英国による対アラブ諸国への政策によって拘留されます。英国は、アラブ諸国を刺激させないため、そのような措置をとっていたといわれます。アリ・ベン・カナン(Ari Ben Canaan)をリーダーとするユダヤ人地下組織がキプロス島に潜入し、収容されている同胞を貨物船エクソダス号で脱出させる計画を実行します。

1947年11月、国連はパレスチナ分割を可決し、翌年ユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生します。しかし、その独立によってユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することになります。元ナチ将校らに指揮されたアラブ人たちはユダヤ人地区を襲撃し地下運動家らを殺すのです。双方が多くの犠牲者を出すなかで、それを埋葬するアリはやがてユダヤ人とアラブ人が平和に暮らせる努力をすることを誓うのです。

第二次世界大戦以前、多くのユダヤ人はシオニズムを非現実的な運動と見なしていたといわれます。ヨーロッパにいたユダヤ人自由主義者の多くは、ユダヤ人が国民国家に忠誠を誓い、現地の文化に同化した上で完全な平等を享受すべきと説きます。そうしたユダヤ人には、シオニズムがユダヤ人の市民権獲得の上で脅威に映ったようです。ハナ・アーレント(Hannah Arendt)もそうした思想家の一人です。