北海道とスコットランド その22  宗教改革の聖書的根拠

前回、ルターが主張した信仰義認、すなわち人が救われるのは、その人の功徳でも免罪符でもなく信仰であり、その信仰の基盤は聖書にあるということに触れた。スコットランドの長老派教会もそれを受け継ぎ、現在の教会制度を維持している。

さて、この信仰義認はなかなか手強い思想である。それは、人は思いと言葉と行いとによって存在するものであり、自由な意志を授かっているからである。だが、生まれながらにしてその意志は薄弱なのである。なんとかして善行をして義とされたい、罪をおかさないようにしたい。こうした葛藤を抱え続けながら生きなければならない。

ルターは聖職者として、また神学者として同じような精神の苦しみ経てきた。それは、自分がいかなる行為によってこうした状態を克服できるかを模索する苦しみであったようである。しかし、彼はそうした葛藤が己の行為によって解決できるということをいわば諦めるのである。そして、罪深い人間の救いが聖書の教えのなかにあることにたどり着く。こうした結論を次のような聖書の解釈から導くのである。

第一は、エペソ人への手紙(Letter to the Ephesians)2章8節-9節である。そこには次のようにある。
▼「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。」

第二は、ローマ人への手紙(Letter to the Romans)1章17節である。
▼「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

人間は善行でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、徹底的に聖書の教えの原点にかえることを説くのである。

このような信条はローマカトリック教会からは、教会の権威を失墜させるまやかしの神学であると断定され、ルターは異端者として破門される。そして1521年にヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)にルターが召喚され尋問が始まる。

尋問の場面について、Wikipediaには次のようにある。「ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは自説の撤回を拒絶する。”聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。自分は聖書に則る。それ以上のことはできない。神よ、助け給え”(“Here I stand. I can do no other.”)」

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