ウクライナの歴史から学ぶ その十四 ウクライナ人と白系ロシア人

既に述べてきた「緑のウクライナ」の建設のために、極東には大勢のウクライナ人が入植しました。旧ロシア帝国からの亡命者を大雑把に総称して「白系ロシア人」(White Russians) と称していましたが、諸民族の出身者も多くいました。特に、ソ連による弾圧のひどかったウクライナ人やポーランド人、アシュケナジム(Ashkenazi)と呼ばれたユダヤ人は旧満州や樺太に亡命してきます。もちろん、旧ロシア帝国国民も多くいました。ウクライナ人やポーランド人は、日本では通用しにくいウクライナ語やポーランド語を用いる代わりに、より通じやすいロシア語を用いたのです。そのために日本では「白系ロシア人」はロシア人であると誤解されます。

白系ロシア人

「白系ロシア人」の多くはウクライナ人であったことを忘れるべきではありません。日本に亡命してきたウクライナ人のことです。洋菓子メーカー・モロゾフの創業者フョードル・モロゾフ(Fedor Morozoff)、大横綱大鵬の父、マルキャン・ボリシコ(Markiahn Vorisiko)も革命後、日本に亡命し樺太で酪農などを営んだウクライナ人です。プロ野球で大投手として活躍したヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin)なども著名な白系ロシア人です。

スタルヒン投手

1986年4月26日にキーウの北西、ベラルーシ国境近くにあるチョルノービリ(Chernobyl)原子力発電所で事故が起こります。放射性物質による汚染はウクライナだけでなく、隣のベラルーシ共和国、ロシア共和国領内にも拡大します。被曝の影響による全世界の癌死者数は2万人から6万人ともいわれています。1986年以来,ペレストロイカ(Perestroika)の下で,ウクライナでは知識人・作家を中心に民族運動が活発になります。それまで起こってきた民族運動に続いて「第3のウクライナ化」と呼ばれます。少し振り返りますが、「第1のウクライナ化」運動は1800年代、「第2のウクライナ化」運動は1960年に起こりました。

ウクライナの歴史から学ぶ その十三 コルホーズとウクライナ

1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域で人為的なホロドモール(Holodomor)と呼ばれ大飢饉が起きます。ウクライナで収穫される小麦は貴重な外貨獲得の手段でした。重工業化を進めるスターリンは、ウクイナのコルホーズ(集団農業) (Kolkhoz)に過剰な穀物徴収を課します。その結果、現地の農民が食べるものは残らず、約400万人もの人々が死亡したといわれる大飢饉です。自営農家(クラーク:Kulak)と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府によるコルホーズ化により家畜や農地を奪われます。クラークとは、「共産主義に反対して個人で富を蓄える農民」とわれました。それでも農民は各地で根強く抵抗しますが抗し切れず、最終的に自営農地や家畜などの資産はコルホーズに接収されます。2006年に当時のウクライナ大統領ユシチェンコ(Viktor Yushchenko)によって「ホロドモールはジェノサイド(大量虐殺)であった」とし、ホロドモールを否定した者を刑事罰に処するとします。

ホロドモール–大飢饉

1941年6月の独ソ戦の勃発にスターリン体制からの解放という希望がウクライナに生まれます。ウクライナ民族主義者組織(OUN)はドイツ軍の占領下でウクライナ独立を宣言しますが、ドイツ軍はそれを認めず、ウクライナを植民地とし、ウクライナ人を劣等人種として数十万人のウクライナ人を東方労働者として強制的にドイツに送ります。さらにウクライナ・パルチザン蜂起軍 (UPA)を組織し、ドイツ軍とゲリラ戦を展開します。

ドイツ軍の撤退のあと、蜂起軍は反ソ独立を掲げてソビエト軍と戦争を継続しますが、1950年半ばまでに鎮圧されます。第二次大戦で、ウクライナでは少なくとも民間人390万人を含めて550万人の死者がでて、そのうち90万人はユダヤ人といわれます。第二次大戦によってガリツィアはウクライナに併合されます。その直後から農業の集団化が強行されます。その地で優勢であったウクライナ・カトリック教会は非合法化され、ガリツィアから約50万人の人々がシベリヤに流刑となります。戦後、ウクライナ共和国は白ロシア共和国とともに国際連合(UN)に加盟します。これは、1945年のヤルタ会談(Yalta Conference)によるものでした。ヤルタ会談とは、クリミア半島の保養地ヤルタで戦後処理の基本方針について協議した会談です。

Holodomor in Ukraine

1954年には、ウクライナ・コサックのポーランドからの独立戦争勝利を祝い,クリミア半島はロシア共和国からウクライナに移譲されます。そして1956年以降、多くの粛清されたウクライナ人の名誉回復が行われます。1960年代になると若い世代の作家や詩人らによってウクライナ化を求める声が上がります。1963年から共産党第一書記シェレスト(Petro Shelest)は、これを支持しますが後に民族主義者として批判され失脚します。

ウクライナの歴史から学ぶ その十二 レーニンのウクライナ政策

1919年12月、レーニンはウクライナの労働者や農民に公開状を送り、ロシア、ウクライナ両人民の平等性を承認するとともに、両者の同盟条約を提案します。この同盟はロシアへの併合に他なりませんでした。1922年12月の第一回ソ連邦ソビエト大会で、ソビエト社会主義共和国であるロシア、白ロシア(今のベラルーシ)、ウクライナ、ザカフカースの間の連邦結成案が可決され、1923年に憲法を発表し、ここにソビエト連邦を構成することになります。これによりウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生します。この頃、戦時の共産主義から転換し市場経済などを容認し生産力向上を目指したネップ(NEP)と呼ばれる経済政策が施行されます。

Vladimir Lenin

1920年代から1930年代にかけて、ウクライナの党や政府公式路線としてウクライナ化が採用されます。シュムスキー(Oleksii Shumsky)ら党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われます。ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えます。

Lenin and Stalin

ウクライナではウクライナ化が推進され、1923年の言語法ではウクライナ語をロシア語の上位におくことを宣言します。多くのウクライナ人亡命者は、ウクライナ化運動を推進するために帰国を始めます。しかし,1930年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示します。1921年に成立していたウクライナ独立正教会も解散に追い込まれます。その罪状は民族主義というものでした。1928年、スターリンはネップを放棄するとともにウクライナ化政策を停止します。ロシア語を第二公用語ともします。その後10年間、ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は民族主義者とか反逆者の汚名を着せられ逮捕され流刑となったり粛清されて、ロシア化の時代が再開します。1934年、ウクライナの首都はハリキウからキーウへ移されます。

ウクライナの歴史から学ぶ その十一 第一次世界大戦とロシア革命

1905年の血の日曜日事件のことです。ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による王朝への平和的な請願行進に対し、動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者が出ます。これによって始まったロシア第一革命以後、ウクライナ語の新聞や書物の出版が認められるようになります。かつてのロシアでは、東ガリツィアの住民もルテニア人もロシア国籍でありました。しかし、帝政ロシアは第一次大戦で敗北し、革命に巻き込まれていきます。

白軍兵士

ウクライナは統一と独立を達成する機会がやってくると考えます。ウクライナ民族会議が1917年4月にキーウで開かれ、ラーダ(評議会)においてグルシェスキーを議長に選出し、ラーダはグルシェスキーを大統領とするウクライナ自治共和国の成立を宣言します。11月20日、ラーダは自由選挙によるウクライナ憲法制定会議の招集を発表します。

これに対抗して、ロシア共産党政府はハリキウ(Kharkiv)にウクライナ・ロシア政府をつくります。1918年1月にラーダは重ねて「自由と主権」をもつウクライナ共和国を宣言します。1918年11月には、リビュでは武装したウクライナ人が西ウクライナ共和国の独立を宣言します。しかし、ポーランド軍がリビュを陥れたので、この共和国はスタニスラフ(Stanislav)へ撤退します。1919年1月、二つのウクライナの統一が宣言されます。しかし、赤軍は再度キーウを占領します。フリスチャン・ラコフスキー(Frischan Rakovsky)がキーウでウクライナ・ソビエト社会主義共和国政府を結成します。

赤軍と白軍兵士

1919年5月、東ガリツィア全域はポーランドに占領され、夏にはアントン・デニーキン(Anton Denikin)という白軍の司令官がモスクワへ進攻します。デニーキンはウクライナ・ポーランドの独立を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により白軍は撃破されます。その結果、赤軍がウクライナ全土を掌握します。

ウクライナの歴史から学ぶ その十 ウクライナのポグロム

やがて愛国主義者の間で対立が始まります。アントノビッチは、専制ロシアと貴族制ポーランドに挟まれたウクライナは真の民主政治を代表しているとし、クリッシュは、コサックは民主的というよりは、無政府的であると主張します。1876年、ロシアは再び学校教育、新聞、書物の印刷にウクライナ語を用いることを禁止します。1876年以降、リビュはウクライナ民族運動の中心となります。リビュはウクライナ南西部ガリツィア地方の中心地です。東ガリツィアは、農村の住民の多くはルーシ人、別名ルテニア人でした。アントノビッチの弟子、ミハイル・グルシェスキー(Mikhail Gruchesky)は「ウクライナ・ルーシの歴史」という書物を出版し、その中でキーウ・ルーシこそがウクライナ・ルーシであると主張します。さらにモスクワの周辺は、ロシア諸国家の中心に過ぎないとも叫びます。

Pogrom in Ukraine

1881年頃、オデーサ(Odessa)などユダヤ人入植者への不当な待遇が起きてきます。この不満が拡大し、ウクライナとロシア南部で広範囲に反ユダヤ暴動が始まります。やがて集団的な略奪や虐殺行為に発展し、この行為はポグロム(Pogrom)といわれます。ポグロムとはロシア語で「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味です。ポグロムは、1881年のロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺の衝撃が直接の契機とされますが、農奴解放後の農民の土地不足や貧困、激化する階級対立、ロシア人の宗教的偏見が土台となり、ユダヤ人がスケープゴートとされた悲劇ともいわれます。

Jewish in Pogrom

ウクライナの歴史から学ぶ その九 ウクライナのルネッサンス

ウクライナの民族主義が文芸復興–ルネッサンス(Renaissance)により台頭します。ウクライナはロシアの一部族とか小さなロシア人(Little Russians)とみなされていました。ウクライナの良心を喚起したのは画家で詩人のタラス・シェヴェチェンコ(Taras Shevchenko)です。その詩の内容は、民謡のバラードやロマン主義的なコサックの栄光を謳ったものです。そして、ウクライナの自由で民主的な社会を求め、その後の政治思想に大きな影響をもたらしていきます。

1798年に、詩人・作家であるイヴァン・コトリャレーウシキー(Ivan Kotliarevsky)が、ウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩「エネイーダ」(Eheida)を刊行します。この書物は、近代ウクライナ文学の基盤となり、後に「ウクライナ学大事典」とも呼ばれていきます。1846年、ウクライナの愛国主義者がキーウで秘密結社、キュリロス・メトディオス協会(Brotherhood of Saints Cyril and Methodius)を結成します。その指導者は、歴史家のニコライ・コストマロフ(Nikolay Kostomarov)、パンテレイモン・クリッシュ(Pantelejmon Kulisch)やウクライナを代表する詩人で前述したタラス・シェフチンコらです。彼らは社会運動家で農民の啓蒙と革命運動への組織化を促進するナロードニキ(Narodniks)とも呼ばれました。

Zhovkva Castle in Lviv

1861年、クリッシュやウラジミール・アントノビッチ(Vladimir Antonovich)は、ペテルブルグ(St. Petersburg)でウクライナ語の定期刊行誌「オスノバ」(Osnova)を発刊します。オスノバとは「出発」という意味です。1863年には、ロシア王朝内務大臣のピョートル・ヴァルフ(Pyotr Valuev)は、ウクライナ語の出版物や演劇活動などを禁止します。学校教育でもウクライナ語の使用は禁止となります。しかし、農民の間における運動や1853年のクリミア戦争の敗北により、ロシアの影響が弱体化します。それでも農民からの土地略奪や過重な賦役は、農民を苦しめます。

Renaissance in Ukraine

ウクライナの歴史から学ぶ その八 ロシア皇帝とレーニンの登場

ロシアは1775年、コサックの本拠を襲いコサックを武装解除し、ロシア・ウクライナを三分割します。1793年のポーランド分割でウクライナは再び統合されます。然してウクライナの政治的自治権ばかりか、その名称さえも消滅します。1764年から1781年に、エカチェリーナ2世(Yekaterina II) は中央ウクライナをロシア帝国に編入します。その頃になるとコサック族やその本拠であったシーチは滅亡しています。1783年にクリミア半島を併合し、ロシア人によって ノヴォロシア(Novorossiya)という街が造られます。ノヴォロシアとは「新しいロシア」という意味です。

Ukrainian Ukraine Flag Danube Swamp Ukrainian Flag

ロシア皇帝ツァーリ (Tsarist) の支配が及び、ロシア化が進み、ウクライナ語の使用は禁止され、ウクライナの国民性は封印されていきます。現在のウクライナの西側は、ロシアとオーストリアのハプスブルグ王家 (Habsburg)の支配に置かれ、1795年のポーランド・リトアニア公国の消滅まで続くのです。ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた名門で、オーストリアを領有しカール五世(Karl V)のとき、スペイン王をかねて「日の沈まない世界帝国」と呼ばれるほど、ヨーロッパ最大の勢力となります。

19世紀になると、ロシア帝国の奥地にウクライナ人の移民が始まります。1897年の統計によれば、223,000人のウクライナ人がシベリアへ、 102,000人が中央アジアへ移民しています。レーニン(Vladmir Lenin)が率いた左派のボルシェビキ(Bolsheviks) が極東共和国を建設しようとします。1906年のシベリア鉄道の開通によって、その後10年間に1,600万人のウクライナ人が極東へ植民します。アムール川(Amur River)から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地は、「緑のウクライナ」(Green Ukraine)と呼ばれるようになります。しかし、「緑のウクライナ」と呼ばれる国家の建設運動は失敗します。

Green Ukraine

ウクライナの歴史から学ぶ その七 ウクライナのコサック

15世紀になるとウクライナに新しい軍事社会が起こります。トルコ・カザック系のコサック(Cossacks)です。ウクライナの南部草原地帯を開拓してきます。コサックは、主として狩猟や漁業、養蜂などを営みます。コサックは、冒険人とか自由人と称しながらも賦役が課せられていました。彼らは戦士としての誇りから農奴という扱いを受けたくないという信念を持っていました。ザポリージャ(Zaporozhia)という開拓地に逃れてきたコサックは、領主からみれば反逆者のような存在で、領主はコサックに隷従を強いていき、コサックの反感をかっていきます。こうした反目には、領主、代官、地方長官がほとんどローマカトリック教徒であるという宗教的な敵愾心から生まれるものでした。こうして次第に民族の分離運動が起こります。

Cossacks

ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同によって、ウクライナ人は三つの宗教集団に分かれます。ラテン語の典礼を行うポーランド人のローマ・カトリック教徒、東方カトリックとよばれる合同派カトリック教徒、そしてギリシャ正教徒です。1578年からポーランド軍に服従するコサックの小常備軍がつくられます。コサックを従属させるために、ポーランドは草原地帯にクダーク(Kudak)要塞を構築します。コサックの将軍ボダン・フメリニッキ(Bohdan Khmelnytsky)は領袖として、数千人にコサック兵を率いてクダーク要塞を破壊し、ポーランド軍を破ります。その間、領主、カトリック僧侶、ユダヤ人の虐殺が行われます。

フメリニッキらは、キーウ、チェルコブフ、ブラック地方の公国側の人々をギリシャ正教徒に帰依させる協定を結びます。これに対して、ポーランド側や地方貴族らも反対します。貴族層はポーランド国境内に自治のウクライナ公国が成立することに反対し、コサックはポーランド人領主が復帰することにも不満でありました。フメリニッキが率いるコサックのラーダ(Rada)と呼ばれる評議会は、シーチ(Sich)に軍事、行政の本拠を置きます。やがてコサックは劣勢に陥るにつれて、評議会は1652年にロマノフ朝(Romanov Dynasty)の二代目アレクセイ一世(Aleksei I)に保護を求めることを決めます。アレクセイ一世はキーウ・ルーシを奪還する好機と捉え、1653年にロシアはフメリニッキの要請を受けてポーランドに宣戦します。ロシア・ポーランド戦争は、スウェーデン人(Swedish)の侵入により複雑化し、1656年に休戦となります。

Cossacks

フメリニッキの死後、イワン・ヴィゴフスキー(Iwan Vygovsky)がコサックの領袖となり、1658年、ポーランド、リトアニア、ウクライナによる連邦国家の結成が調印されます。ウクライナはドニプロ川を境にポーランド・ウクライナとロシア・ウクライナに分割されます。ヴィゴフスキーは、わずか2年間の首長でしたが、彼はウクライナを自立させるために大規模な戦争、新しい条約の締結、モスクワとワルシャワの外交作戦などを遂行していきます。

次ぎにコサックの領袖となったのは、ペトロ・ドロシェーンコ(Petro Doroshenko)です。彼は、ウクライナをオスマン帝国の属国となる構想を抱きます。そして1668年、スルタン(Sultan)のメフメット四世(Mehmed IV)はウクライナを保護下におきます。1672年、オスマン軍はポーランドに進攻し、ドニプロ川右岸のポーランド・ウクライナはオスマン帝国の宗主権下に入ります。ポーランドのヤン三世(Jan III Sobieski)は1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲(Vienna Siege)で勝利し、1688年、ポーランド・ウクライナからトルコ人を駆逐して英雄として名を馳せます。

ウクライナの歴史から学ぶ その六 宗教的な発展

リトアニアとポーランドにおけるウクライナ人の社会的な地位が次第に低下するにつれ、ルテニア貴族へも波及していきます。ローマ・カトリック教会が次第にウクライナに浸透するにつれ、ギリシャ東方正教会に対して、治世や法的な優越性を示していきます。外側からの圧力や規制によって、ルーシー・カトリック教会(東方カトリック教会)は次第に衰えていきます。16世紀中盤から、カトリック教会と活力を取り戻したポーランドにおけるイエズス会、そしてプロテスタント教会が、ルーシー・カトリック教会を脅かしたのです。

ウクライナ東方カトリック教会


ルーシー・カトリック教会の再興を期して16世紀の終わり頃、教会は結集し始めます。1580年には、コンスタンチン・オストロズキ皇太子( Konstantyn Ostrozky)が西ウクライナのヴォルィーニ(Volhynia)地帯やオストロ(Ostroh)等の街を建設し、そこを文化の中心にしようとします。学校や出版社をつくり、当時の有名な学者を招聘したりします。その成果はスラヴ語(Slavonic)による聖書の出版として現れます。リビュや近郊の街では信徒や市民によって教会が維持され、学校を運営し出版を行い慈善活動もやっていました。こうした人々は、しばしば正教会の階級制度と対立し、制度の改革を要求していきます。

マロン典礼カトリック教会

1596年10月にはベラルーシ南西部にあるブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)において急進的な宗教改革が起こります。キーウ近郊の大司教らがローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同を発表します。この行為によって東方カトリック教会は、ローマ教皇権の承認、ギリシャ正教会やスラヴ語による典礼の維持により、地方教会の自治や伝統的な教理、そして聖職者の婚姻を認めていきます。こうして教会の合同によりローマ・カトリック教会との対等な地位を得ていきます。

ウクライナの歴史から学ぶ その五 リトアニアとポーランドの統治

3世紀にわたるリトアニアとポーランドの統治17世紀中頃のウクライナは大きな変容を遂げていきます。キーウ公国に端を発する王侯による支配階級の一族は、リトアニアとポーランド統治によって特権を得ていきます。東方正教会やルテニア言語によって、ポーランド文化化(Polonization)がルテニア貴族の間に浸透していきます。これは、イエズス会(Jesuits) の学校やローマ・カトリックの影響によるものです。

ウクライナ西部の街や周辺での貿易が盛んになり、中産階級(burghers)が社会的な階層となってきます。ギルト組織や宗教や民族という2つの階級に分かれていきます。13世紀以来、ポーランド人、アルメニア人、ゲルマン人、ユダヤ人(Jewish)が都会に定住するとともに、ウクライナ人は少数派となっていきます。

中産階級は、ウクライナ社会で主だった役割を発揮しますが、法律上の不平等から非カトリック教徒にとってはマグデブルク法(Magdeburg Law)によって、地方の自治や政治には限られた参加しかできませんでした。マグデブルク法は、神聖ローマ帝国の初代皇帝のオットー1世(Otto I)により作られた地域の支配者による市や村の統治に関する法律です。

Fiddler on the Foof

ポーランドの支配下で中産階級は次第に没落していきます。自由な農民は存在はその力が増していき、小作人は農奴への賦役の対応に苦慮していきます。16世紀の終わり頃には、東ウクライナでは農民が反乱を起こし始めます。人口が希薄な地帯がポーランドの領土となり、ヨーロッパの食糧市場の要求にそって、大きな農村地帯が形成されていきます。こうした農業地帯に必要な労働者を惹き付けるために、農民には期限付きながら納税などの賦役が免除されます。

Ladies in Fiddler on the Roof

しかし、納税義務が失効し、賦役が再度課せられにつれ、自由を求める農民は荒野といわれていたウクライナの東方や南方の草原地帯へと移動していきます。次第に農民の緊張は悪化していきます。農民はウクライナ人や東方正教会の信徒であり、領土の持ち主はポーランド人やローマカトリック教徒でありました。無人の土地を耕していたのはユダヤ人(Jewish) でした。こうして、社会的な不安を抱いた人々は絆を強めながら、宗教的な角逐に直面していきます。