心に残る一冊 その84  「菊千代抄」 椙村半三郎

山本周五郎の「菊千代抄」の二回目です。

半三郎は18歳になり元服します。そして菊千代の前に呼び出されます。
「今日はききたいことがある。そのほうは菊千代が男であるか女であるか知っているであろうな」
「、、、、おそれながら」
「返事をせぬか、半三郎」
「おそれながら、そればかりは、、」
「いえないというのでは、知っているからだな、半三郎!」
「面をあげて菊千代を見よ、この眼を見るのだ!」
「菊千代が女だということを、そのほうは知っていたのだな?」
「、、、、、はい」
菊千代は彼を生かしておいてはならないと考えます。そして半三郎の袖をつかみ、短刀で彼の胸を刺します。松尾は戻るやいなや「、、、おみごとにあそばしました」と云うのです。

やがて巻野家に男子が生まれます。それ以来「おまえは女だ、男ではない、女だ、女だ、、」という声が菊千代の頭の中で聞こえ、神経発作を起こすようになります。菊千代は分封され、中山の尾形という谷峡で松尾と矢島弥市という家来だけを連れて暮らすようになります。弥市と一緒に馬で領内をまわり、弓を持って山に分け入ったりします。領内で貧しい小作人らと出会います。竹次というひどい暮らしをする者に出会うのです。竹次は十年前にかけおちしてこの地に落ち着き妻と子で暮らしています。

その家族の近くの物置に1人のひどくやせた男が住んでいました。その男に侍や下僕たちが声高になにか云っています。通りかかった菊千代が黙って通り過ぎようとします。やせた男がじっと頭を垂れているのを目撃します。素性が怪しい、労咳などという病人では屋形の近くにおいておけないといって立ち退きを迫っているのです。菊千代は立ち退きには及ばない、許すからここにいて病気をいたわってやるがよいと命じます。

それから1年あまり、菊千代は落ち着いた静かな生活をおくります。彼女は時々、物置にいる男が歩き回る姿や薪を割る様子を見かけたりします。歩いていると丁寧に挨拶をしたりするのです。その身振りを見るたびに、男は武家の出で志操の正しい人間であると感じるのです。

父親が菊千代の世捨て人のような暮らしを変えようとして10人ばかりの供をつれて尾形にやってきます。芸達者なものも連れているのです。その中の一人、葦屋という芸人がつきっきりで菊千代の望む芸を披露します。ある夜、菊千代はひどくうなされます。「お姫さまとだけ、お姫さまと私二人だけ、」と葦屋が云って菊千代の耳へ口を寄せて呻ぐのです。菊千代は蒼くなり、葦屋が自分が女であることを知った、生かしておけないと思います。

菊千代は葦屋に向かって、短刀を振るおうとします。するとふいに横からつぶてのように走ってきて「お待ちください、御短慮でございます」こう叫ぶ者がいます。「お待ちください、どうぞお気をお鎮めください」と立ち塞がるのです。「どかぬと斬るぞ」菊千代は逆上したように刀をふり回します。「止めるな、斬らねばならぬ、どけ!」男は「刺してはいけません」と菊千代の前に立ち塞がり、自分の胸を開いて諫めようとするのです。胸元の傷を見た菊千代は、かつて自分が短刀を振るって傷つけた半三郎であることを知るのです。

半三郎はごく控えめな表現で菊千代に対する同情と愛憐の気持ちを伝えます。労咳を病みながらひところは医者にも見放されながらも、不思議に一命をとりとめて、若君のしあわせ見届けるまで、気力をふるいおこし、その一心を支えにここまで供をしてきたと告白するのです。

「今でもそう思ってくれるか」、「菊千代をいまでも哀れと思ってくれるか」
身を振るわせて菊千代は彼の手をつかみ、その手へ頬を激しくすりつけるのです。