文化の日を考える その十 ヘルシンキ・オリンピック

フィンランドの思い入れの話題です。ヘルシンキの街中に立ったときです。それは北海道の片田舎で小さな私が経験した興奮の瞬間のような時です。ラジオや新聞で初めて文化の祭典、オリンピックに接したのです。

paavonurmi_500 856fd60a03dba893ea4c4b8ece2153d8404683ca 20150727-3-emilこのとき私は10歳。新聞やラジオからのオリンピックの話題はひとつも漏らさず、今も鮮明に記憶にあります。戦後の日本にとって、フィンランドは記憶に残る国です。それは1952年にヘルシンキで開かれた夏季オリンピックです。その前の1948年のロンドン・オリンピックには戦争責任のために日本は参加できませんででした。フィンランドは第二次世界大戦後初の夏季オリンピックへの復帰です。

復興しはじめた日本が国際舞台で再出発する大きな転機となります。聖火を点火したのは、パーヴォ・ヌルミ(Paavo Nurmi)。1920年から1928年の間、オリンピックで陸上の中長距離で合計9個の金メダルを獲得した彼は今も国民的な英雄です。

新聞で大賑わいだったのが、チェコスロヴァキア(Ceskoslovenska)のエミール・ザトペック (Emil Zatopek)です。ヘルシンキでは陸上競技長距離種目で3つの金メダルを獲得したのです。彼はそれまで「人間機関車」というニックネームがつくほどの驚異的なランナーでした。5,000m、10,000m、マラソンでの優勝は前人未踏の偉業となりました。

それにもまして、日本人を驚喜させた活躍が選手がいました。唯一の金メダルを獲得したのが、レスリングバンタム級の石井庄八でした。決勝戦の相手は、優勝確実との下馬評の高いソヴィエトの選手。フィンランドの選手らは雑巾のように叩きつけられたと報じられました。

その他、水泳1,500m自由形の橋爪四郎が銀メダルをとります。彼のライバルは古橋廣之進。「フジヤマのトビウオ」の異名で世界中の水泳界で知られ、1,500mで泳ぐたびに世界新記録を塗り替えてきました。ロンドンオリンピックに出場していれば、金メダル確実といわれました。古橋はヘルシンキ五輪ではすでに峠を越えていました。
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