国民の団結という旗印と一体感については、説得力のあるような見解とは違った方向を示しています。強力な国家政府を支持する人々を喜ばせた最高裁判所の判決は、反対派を激怒させましたが、マーシャルの私有財産の権利の擁護は、批評家によって財産保有の原則を裏切るものとして解釈されました。
1812年の米英戦争中の先住民族の土地の収奪は、西部の人々は、決しての手放しの祝福とは受けたとってはいませんでした。東部の保守派は地価を高く維持しようとしました。投機的な利益を求める人々は、貧しい不法占拠者に有利な政策に反対しました。政治家は、こうのような勢力均衡の変化を危惧していきます。ビジネスマンは彼ら自身とは違った関心を持つ新しい層に警戒していました。ヨーロッパからの訪問者は、いわゆる「好感情の時代(Era of Good Feelings) 」の間でさえ、アメリカ人は、彼ら自身以外の田舎者を軽蔑するという傾向があると指摘しました。
1819年の経済的困難がもたらす恐慌も、国民の間に不和を生み出しました。混乱の原因は複雑でしたが、その最大の影響は明らかに、犠牲者が互いに混乱を非難する傾向がうまれました。第二合衆国銀行、東部資本家、利己的な投機家、または背信的な政治家など、敵対的または悪意のある利益のいずれかによる主張は、互いの感情を表現していました。
調和が国家政党のレベルで支配しているような場合には、不調和が州内で蔓延します。19世紀初頭のアメリカでは、地方および州の政治は通常、大きな問題ではなく小さな利益の追求が主たる関心でした。 政治の目標がしばしば愚かであるということは、政治的な争いが当然起こることを意味します。あらゆる面で、狡猾な派閥は、権力の獲得や安定のために激しい政治党争を繰り広げました。
国の分裂の最も劇的な兆しは、奴隷制、特に新しい領土への広がりをめぐる政治的闘争でした。 1820年のミズーリ妥協(Missouri Compromise)は、少なくとも当面の間、さらなる不和の脅威を和らげることになりました。これにより州間の部分的なバランスは維持されます。ルイジアナ買収は、ミズーリ領土を除いて、奴隷制は36°30’線の南の地域に限定されることになっていました。しかし、この妥協は危機を終わらせることはなく、むしろ延期するだけでした。北部と南部の上院議員の議席が互いに拮抗するという状況は、人々がさまざまな大きな地理的部分における相反する利益を有するのだということを示唆していました。 ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)から10年後は、複雑な国民感情が広がる「好感情の時代」ではなかったということです。