アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その138 米西戦争の起源

注目

 1800年代後半のアメリカの外交政策を取り上げます。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配のもとで、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争(Cuban War of Independence)に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカにとって金銭的利益よりも重要だったのは、アメリカの人道的感情のことでした。

 スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「残虐者」(slaughterer)と呼ばれ、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々が放置され、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。

 独立を目指す植民地の人々に対して伝統的に同情するアメリカでは、苦しむキューバ人に対する人道的配慮が加わっていきます。他方、アメリカは、反乱軍への砲撃を防ぐための近海パトロールや、アメリカ国籍を取得した後、反乱に参加してスペイン当局に逮捕されたキューバ人からの援助の要請に直面することになります。

 戦争を止め、キューバの独立を保証するための介入を求める国民の声は、アメリカ議会でも支持されるようになります。1896年の春、上院と下院は同時決議で、キューバの反乱軍に交戦権を与えるべきであると宣言します。この議会意見の表明を無視したのがクリーブランド大統領(Stephen Grover Cleveland)です。彼は戦争が長引けば介入が必要になるかもしれないと議会への最終メッセージを送り介入に反対します。次ぎに大統領となったマッキンリーはスペインとの宥和政策を支持します。しかし、マッキンリーは新任の駐スペイン公使スチュワート・ウッドフォード(Stewart Woodford)への指示や議会への最初のメッセージで、アメリカは血生臭い闘争をいつまでも傍観することはできないと明言するのです。

 イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism) はイエロー・プレス(Yellow Press)とも呼ばれ、事実報道よりも扇情的な記事などを使って読者の関心をひき発行部数を伸ばそうとする行為です。米西戦争をめぐって、ニューヨーク・ジャーナル紙とニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを繰り広げ、無責任なニュースをでっち上げたりもしたといわれます。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その140 アメリカの介入

1897年の秋、スペインの新政府は反乱軍に譲歩を申し出ます。それは、ウェイラー将軍(General Weyler)を呼び戻し、再集中政策を放棄し、キューバに選挙で選ばれたコルテス(Cortes: 議会)を認め、限られた自治権を与えるというものでした。しかし、この譲歩は遅すぎました。反乱軍の指導者たちは、もはや完全な独立以外に道はないと叫びます。キューバでは戦争が続き、アメリカは介入寸前まで追い込まれる事件が相次ぎます。12月にはハバナ(Havana)でも暴動が起こり、アメリカ国民と財産の安全を守るために戦艦メイン(Maine)がハバナの港に派遣されることになります。

USS Maine

1898年2月9日、ニューヨーク・ジャーナル紙は、ワシントンのスペイン公使エンリケ・ローム(Enrique Dupuy de Lôme)からの私信を掲載し、マッキンリーを「弱腰で人気取り」と評し、スペインの改革計画に対する誠意に反するものと非難します。ロームは直ちに解任され、スペイン政府は謝罪します。この事件は、6日後に大きな反響を呼びます。2月15日の夜、ハバナに停泊していたメイン号(USS Maine)が大爆発を起こして沈没し、乗組員260人以上が犠牲になるのです。しかし、この事故の原因は究明されませんでした。アメリカ海軍の調査委員会は、最初の爆発は船体の外側、おそらく機雷か魚雷によるもので、戦艦の前部弾倉に着火したことを示す有力な証拠を発見します。スペイン政府はその責任を仲裁に委ねることを申し出たが、ニューヨーク・ジャーナル紙をはじめとする低俗で扇情的な誇張表現を用いたイエロー・ジャーナリズム の扇動に乗せられ、アメリカ国民はスペインの責任を疑うことなく認めるのです。「メイン号を忘れるな、スペイン地獄へ」(Remember the Maine, to hell with Spain!)というのが、アメリカ国民の叫びでした。

US-Spain War

介入を求める声は、議会では共和党、民主党の双方からでます。ただし共和党のマーク・ハンナ(Mark Hanna)上院議員やトーマス・リード(Thomas B. Reed)下院議長らは反対します。介入は国内でも根強くなっていきました。アメリカの経済界は、全般的に介入と戦争に反対していました。しかし、3月17日、キューバ視察から帰国したばかりのバーモント州選出のレッドフィールド・プロクター(Redfield Proctor)上院議員が上院で行った演説をきっかけに、こうした反対運動は沈静化します。プロクター上院議員は、戦争で荒廃したキューバを視察し、和解地での苦しみと死、その他の地域の荒廃、スペインが反乱を鎮圧できないでいることなど、淡々とした言葉で説明しました。3月19日付の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、この演説を「ウォール街の多くの人々を改心させた」と評価するほどでした。宗教指導者たちは、介入を宗教的、人道的な義務であるとして介入を求める声に賛同します。

スペインが勝利でも譲歩でも戦争を終わらせることができないことが明らかになると、介入を求める民衆の圧力は強まります。マッキンリー の対応は、3月27日にスペインに最後通牒を送ることでした。マッキンリーは、スペインに実質的に和解を放棄し、休戦を宣言して反乱軍との和平交渉においてアメリカの仲介を受け入れるように伝えます。しかし、彼は別の書簡の中で、キューバの独立以外は認めないことを明言します。