ウィスコンシン州とジョセフ・マッカーシー その一

はじめに
 ウィスコンシン州の政治で忘れられないのは、極右と呼ばれた上院議員の存在です。その人物は、ジョセフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)。1947年から1957年に48歳で死去するまで、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(Republican U.S. Senator)を務めたアメリカの政治家です。1950年以降、冷戦の緊張により共産主義による破壊活動が国内に広まるのではないかという恐怖がアメリカで高まっていた時期に頭角を現した政治家です。これから四回にわたり、合衆国の政治でマッカーシーがどのような影響を与えたかを考えていきます。

 冷戦状態が高まるにつれて、多数の共産主義者とソ連のスパイやシンパがアメリカ連邦政府、大学、映画業界などに潜入していると主張し、いわばレッドパージ(red purge)しようとしたのがマッカーシーです。1950年にマッカーシーの行為に関連して作られた「マッカーシズム」(McCarthyism)という用語は、反共産主義活動に適用されるようになりました。今日では、この用語はより広い意味で、扇動的で無謀で根拠のない非難、および政治的反対者の性格や愛国心に対する公的な攻撃を意味します。最終的に、マッカーシーは、彼が非難されるべきかどうかを調査するために設置された委員会への協力を拒否し、委員を攻撃したとして1954年に上院から非難され政界から追われます。

Joseph R. McCarthy

マッカーシーの経歴
 ウィスコンシン州グランドシュート(Grand Chute)生まれのマッカーシーは、1942年に海兵隊(Marine Corps)に入隊し、急降下爆撃機中隊の情報報告担当官を務めます。第二次世界大戦の終結後、少佐に昇進します。砲手観測員として12回の戦闘任務に志願します。これらの任務は概ね安全で、後に彼の英雄的行為の主張のいくつかは後に誇張または偽りであることが判明し、「テールガンナー・ジョー」(Tail-Gunner Joe)というあだ名がつけられ揶揄されたようです。テールガンナーとは爆撃機の最後尾に備えられた攻撃機を狙う機関砲の射手のことです。

 マッカーシーは1944年、現役軍人(active duty)でありながらウィスコンシン州で共和党上院議員候補指名選挙に立候補しますが、現職のアレクサンダー・ワイリー(Alexander Wiley)に敗れます。太平洋戦争が終結する1945年9月の5か月前の1945年4月に海兵隊を退役した後、マッカーシーは巡回裁判所判事(circuit court judge)に無投票で再選されます。その後、ウィスコンシン州共和党の政治ボスであるトーマス・コールマン(Thomas Coleman)の支援を得て、1946年の共和党上院議員予備選挙でより組織的な選挙活動を開始します。この選挙でマッカーシーが挑んだのは、ウィスコンシン進歩党の創設者で、ウィスコンシン州知事兼上院議員のロバート・M・ラフォレット・シニア(Robert M. La Follette Sr)の息子で、3期務めたロバート・M・ラフォレット・ジュニア(Robert M. La Follette Jr)上院議員でした。

(投稿日時 2024年9月12日) 成田 滋

ウィスコンシン州とマッカーシズム その2

注目

 マッカーシーは選挙運動で、真珠湾攻撃のときラフォレットは46歳だったにもかかわらず、戦争中に入隊しなかったとしてラフォレットを攻撃します。また、マッカーシーが祖国のために戦っている間にラフォレットは投資で莫大な利益を上げたと主張します。実際、マッカーシー自身も戦時中に株式市場に投資し、1943年に4万2000ドル、現在の価値で73万9523ドルに相当の利益を上げていました。マッカーシーがそもそも、その投資資金をどこから得たのかは謎のままとされています。ラフォレットの投資はラジオ局への部分的な投資で、2年間で4万7000ドルの利益を上げたといわれます。

Harry Truman

 1944年まで民主党員だったマッカーシーは、1946年に共和党員として上院議員選挙に立候補し、ウィスコンシン州共和党予備選挙で現職のロバート・ラフォレット・ジュニアを破り、当時の民主党候補ハワード・マクマリー(Howard McMurray)を61%対37%の差で破り上院議員となります。上院議員として3年間目立った活躍はありませんでしたが、1950年2月にマッカーシーは、国務省(State Department)に雇用されている「共産党員とスパイ組織のメンバー(members of the Communist Party and members of a spy ring)」のリストを持っていると演説し、突如全国的に有名になります。

赤狩りの開始
 1950年の演説の後の数年間、マッカーシーは国務省(State Department)、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の政権、ボイス・オブ・アメリカ(Voice of America)、および米軍への共産主義者の浸透についてさらに非難しはじめます。彼はまた、共産主義、共産主義者への共感、不忠、性犯罪などさまざまな容疑を使って、政府内外の多くの政治家やその他の個人を攻撃していきます。これには、同性愛(homosexuals)の疑いのある人々に対する同時進行の「ラベンダーの恐怖」(Lavender Scare)も含まれていました。当時、同性愛は法律で禁止されていたため、同性愛は脅迫の危険を高めるとも考えられていたのです。「ラベンダーの恐怖」とは、共産主義者を標的にした赤狩りの一環として、政府内の同性愛者とおぼしき人間を粛清する大規模な取り組みのことです。いわば、アンチゲイパージ(Anti-Gay Perge)のことです。

ハリウッドの赤狩り反対運動

 新聞コラミストであったジャック・アンダーソン(Jack Anderson)によると、マッカーシーの選挙資金はラフォレットの10倍で、その多くは州外からの資金だったとされます。マッカーシーへの票はラフォレットに対する共産党の恨みによるものでした。ラフォレットが戦争中に不当利得を働いたという指摘は大きなダメージとなり、マッカーシーは予備選挙で勝利します。この選挙運動中にマッカーシーは戦時中のニックネーム「テールガンナー・ジョー」を宣伝し始め、「議会にはテールガンナーが必要だ」というスローガンを掲げて選挙戦を展開します。ジャーナリストのアーノルド・ベイクマン(Arnold Beichman)は後に、マッカーシーが「共産党が支配する全米電気・ラジオ・機械労働組合(CIO)の支援を受けて上院議員に初当選した」と述べます。同組合は反共産主義者のラフォレットよりもマッカーシーを推薦したのです。民主党の対立候補ハワード・マクマリー(Howard J. McMurray)との総選挙では、マッカーシーは61.2%の得票率で勝利します。

 1953年1月に上院議員としての第2期の初めに、マッカーシーは政府事業(Government Operations)に関する上院委員会の議長になりました。いくつかの報告によると、共和党の指導者たちはマッカーシーの手法を警戒し、内部のセキュリティ小委員会ではなく、この比較的平凡なパネルとされていた共産主義者の調査に関与している委員会に権限を与えました。上院多数党の指導者ロバート・タフト(Robert A. Taft)の言葉によれば、政府事業に関する委員会には、調査に関する上院恒久小委員会(Senate Permanent Subcommittee)が含まれており、この小委員会の任務は、マッカーシーが政府の共産主義者の彼自身の調査にそれを使用できるようにするのに十分な柔軟性を備えていたといわれます。マッカーシーは、ロイ・コーン(Roy Cohn)を最高顧問に、27歳のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)を小委員会の助言補佐官に任命します。
(投稿日時 2024年9月16日) 成田 滋

ウィスコンシン州のフランク・ロイド・ライト

注目

 アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wight)はウィスコンシンの出身です。フランスのル・コルビュジエ(Le Corbusier)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)とともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる世界的に著名な建築家です。建築好きな人に限らず、多くの人々は彼の作品には魅了されています。

Frank Lloyd Wight

 ウィスコンシン州の田舎で育ったライトは、ウィスコンシン大学で土木工学(civil engineering)を学び、その後シカゴでジョセフ・シルズビー(Joseph L. Silsbee)のもとで短期間、その後アドラー・アンド・サリバン社(Adler & Sullivan)でルイス・サリバン(Louis Sullivan)のもとで徒弟として働きます。ライトは 1893年にシカゴで自身の事務所を開き、1898年にはイリノイ州オークパーク(Oak Park)の自宅にスタジオを構えます。

 ライトは、建築家はもちろん、デザイナー、作家、教育者でもありました。70年間の創作活動で800以上の建築物を設計します。ライトは20世紀の建築運動において重要な役割を果たし、作品を通じて世界中の建築家に影響を与えます。「タリアセン・フェローシップ」(Taliesin Fellowship)という建築塾で何百人もの弟子を指導します。 「タリアセン」とは、ウイスコンシンのスプリング・グリーン(Spring Green)という町にある工房であり、弟子や学生と自給自足の共同生活を営みながら、建築の教育と実践を行なったところです。スプリング・グリーンは、州都マディソンの西約55キロにありウィスコンシン川沿いに位置する1,566人の街です。

 ライトは、人間と環境との調和を考えた設計を信条としており、これを有機的建築(organic architecture)と呼びます。この哲学は、1935年に設計されたフォーリング・ウオーター(Fallingwater)という建物に示され、「アメリカ建築史上最高の作品」と呼ばれています。この建物は、ペンシルベニア州のピッツバーグ(Pittsburgh)から南東に80キロほどの地に今も建っています。ニューヨーク市マンハッタン(New York, Manhattan)にある「グッゲンハイム美術館」(Solomon R. Guggenheim Museum)も傑作の一つとされています。「かたつむりの殻」と形容される螺旋状の構造をもった建築で、美術館施設の概念を根本から覆した作品として知られています。

Solomon R. Guggenheim Museum


 ライトは、後にプレーリー派(Prairie School movement)と呼ばれるようになった建築運動の先駆者です。プレーリー派とは、屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる設計手法で、草原様式とも呼ばれています。建物は自然に調和するというのが彼の信条です。都市構想である電化、機械的機動性、有機的建築というブロードエーカーシティ(Broadacre City)の考え方による、コンパクトで魅力に満ちた小住宅であるユーソニアン住宅(Usonian home)のコンセプトも考案し、アメリカの都市計画のビジョンを示します。また、独創的で革新的なオフィス、教会、学校、高層ビル、ホテル、美術館、その他の商業プロジェクトの設計も手がけていきます。マディソン市にあるユニテリアン教会(Unitarian Church)も独特な設計で有名です。

Unitarian Church, Madison,WI


 ライトの設計では、内装要素である鉛ガラスの窓、床、家具、さらには食器などが構造物に取り入れられています。ライトは数冊の本と多数の記事を執筆し、アメリカやヨーロッパで人気の講師でもありました。ライトは1991年にアメリカ建築家協会から「史上最も偉大なアメリカ人建築家」として認められます。2019年、彼の作品の一部が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築」(20th-Century Architecture of Frank Lloyd Wright)として世界遺産に登録されるのです。

Fallingwater


 ライトの建築物は我が国でも見られます。兵庫県芦屋市の丘の上にある「ヨドコウ迎賓館」は、1918年に灘五郷の造り酒屋、櫻正宗の八代目当主山邑太左衛門の別邸として設計されました。西池袋に所在する「自由学園明日館」は、1997年に国の重要文化財として指定され、歴史ある建物となっています。世田谷区にある旧林愛作邸もライトの設計によるものです。旧知であった帝国ホテル初の日本人支配人、林愛作の住宅です。

帝国ホテル、明治村

 最後に紹介するのは、博物館明治村にある「帝国ホテル中央玄関」です。1923年に、4年間もの大工事を経て2代目として開業した帝国ホテル・ライト館です。ライトが日本で初めてホテルの建築を手がけ、彼の代表作の一つとも言われています。旧帝国ホテル解体と保存は、株式会社帝国ホテル、日本建築学会、帝国ホテルを守る会、博物館明治村らによって17年間もの歳月を要して実現します。”東洋の宝石”と称される帝国ホテルのデザインは、まさに造形美の粋といわれ、現在は愛知県犬山市の博物館明治村でその雄姿を見ることができます。
(投稿日時 2024年9月9日) 成田 滋

ウィスコンシン州の政治とロバート・ラフォレット

注目

 ウィスコンシン州の政治の歴史を取り上げることにします。20世紀になるとウィスコンシン州にロバート・ラフォレット(Robert M. La Follette)という政治家が登場します。やがて彼は州知事となります。1916年にはウィスコンシン州では女性参政権運動家の選挙運動が認められ、さらに合衆国憲法第19修正条項(Nineteenth Amendment)を批准した最も早い州の 1つとなりました。この条項は、女性の参政権を認め、性別による選挙における差別を禁止するものです。

Robert M. La Follette

 20世紀初頭は、ラフォレットが推進した進歩主義政治の出現が注目されました。1901年から1914年にかけて、ウィスコンシン州の進歩主義共和党は、国内初の包括的な州全体の予備選挙制度、初の有効な職場傷害保障法、および初の州所得税を創設し、実際の収入に比例した課税を行いました。

 第一次世界大戦中、ウィスコンシン州は中立の立場にありました。その理由はウィスコンシン州の共和党員、進歩主義者、および州人口の 30~40パーセントを占めるドイツ人移民が多かったことからです。そのためにウィスコンシン州は「反逆者州(Traitor State)」というあだ名をつけられ、国内にいる多くの過激な愛国者(hyper patriots)によって非難されるという経過を辿りました。

 ヨーロッパで戦争が激化する中、ウィスコンシン州の反戦運動のリーダーであるラフォレットは進歩派の上院議員のグループを率いて、商船に銃を装備するというウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領の法案を阻止しました。しかし、エマニュエル・フィリップ(Emanuel L. Philipp)やアーヴィン・レンルート(Irvine Lenroot)などウィスコンシン州の共和党政治家の多くは、アメリカの忠誠心を二分していると非難されていきます。

 州内に戦争に公然と反対する人々がいたにもかかわらず、戦争が始まると、多くのウィスコンシン州民は中立を破棄します。やがて企業、労働者、農場はすべて戦争による繁栄を享受していきます。118,000人以上の若者が兵役に就き、ウィスコンシン州は米軍が実施した全国徴兵(national drafts)に最初に応募した州となります。

Woodrow Wilson

 進歩的な州の発展原理であるウィスコンシン・アイディア(Wisconsin Idea)は、このときウィスコンシン大学エクステンション・システム(statewide expansion)を通じてウィスコンシン大学の州全体への拡張の推進力となります。その後、ウィスコンシン大学の経済学教授ジョン・コモンズ(John R. Commons)とハロルド・グローブス(Harold Groves)は、1932年にウィスコンシンが米国初の失業手当プログラムを作成するのに貢献します。同大学の他のウィスコンシン・アイディアを支持する学者は、ニューディール政策(New Deal’s)の1935年社会保障法(Social Security Act)となる計画を考案します。この計画を推進したのはウィスコンシンの法律学者であったアーサー・アルトマイヤー(Arthur J. Altmeyer)で、彼は重要な役割を果たします。

第一次世界大戦のヨーロッパ戦線

 第二次世界大戦直後、ウィスコンシン州民は、国連の創設、ヨーロッパの復興支援、ソ連の勢力拡大などの問題で分裂していました。しかし、ヨーロッパが共産主義陣営と資本主義陣営に分裂し、1949年に中国共産主義革命が成功すると、共産主義の拡大から民主主義と資本主義を守ることを支持する方向に世論が動き始めていきます。
(投稿日時 2024年9月8日) 成田 滋

ウィスコンシンは多民族のるつぼ

注目

 2022年のウィスコンシン州で実施されたアメリカ人コミュニティ調査(American Community Survey)によりますと、ヨーロッパ系の祖先が最も多かったのは5つのグループで、ドイツ系(36%)、アイルランド系(10.2%)、ポーランド系(7.9%)、イギリス系(6.7%)、ノルウェー系(6.3%)となっています。ドイツ系は、メノミニー(Menominee)、トレンパロー(Trempealeau)、ヴァーノン(Vernon)といった郡を除く州内のすべてで最も一般的な祖先となっています。ウィスコンシン州は、ポーランド系の住民の割合がどの州よりも高いのも特徴です。その他、ウィスコンシン州の人口の7.6%はヒスパニック(Hispanic)やラテン系(Latino)です。最大のヒスパニック系の祖先グループは、メキシコ系(5.1%)、プエルトリコ系(1.1%)、中央アメリカ人(0.4%)、キューバ系(0.1%)で、0.9%がその他のヒスパニック系またはラテン系の起源であるといわれています。

民族のお祭り

 ウィスコンシン州はもともと、民族的に多様性に富んでいる州です。フランスの毛皮商人が活躍した時代が過ぎた後、次の移住者の波は鉱山労働者で、その多くはコーンウォール人(Cornish)で、州の南西部に定住します。コーンウォール人とは、イングランド南西端に位置する地域から移民でやってきた人々です。次の波はニューイングランド(New England)とニューヨーク州北部からのイギリス系移民である「ヤンキー(Yankee)」が支配的でした。州成立初期には、彼らは州の重工業、金融、政治、教育を支配していました。1850年から1900年の間、移民は主にドイツ人、スカンジナビア人で最大のグループはノルウェー人(Norwegian)、アイルランド人(Irish)、ポーランド人(Polish)でした。20世紀には、多くのアフリカ系アメリカ人とメキシコ人がミルウォーキー(Milwaukee)に定住し、ベトナム戦争の終結後にはモン族(Hmongs)の流入が特徴的です。

ノルウェー人の独立記念祭

 モン族は中国からラオスまで国境をまたいで拡がっている民族ですが、ベトナム戦争により、アメリカに避難してきた人々です。ウィスコンシン州のアジア系人口の約33%はモン族であり、ミルウォーキー(Milwaukee)、ウォソー(Wausau)、グリーン ベイ(Green Bay)、シュボイゲン(Sheboygan)、アップルトン(Appleton)、マディソン(Madison)、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、オシュコシュ(Oshkosh)、マニトワック(Manitowoc)に重要なコミュニティがあります。ウィスコンシン州では 61,629人、つまり人口の約 1%がモン族であると自認するほどです。

 さまざまな民族グループが州のさまざまな地域に定住しました。ドイツ人移民は州全体に定住したのですが、最も集中していたのはミルウォーキーで付近です。ノルウェーからの移民は北部と西部の林業と農業地帯に定住しました。アイルランド、イタリア、ポーランドからの移民は主に都市部に定住していきました。グリーンベイの北部に位置するメノミニー郡(Menominee County)はアメリカ東部で唯一、ネイティブアメリカン(Native American)が多数を占める郡となっています。

モン族の人々

 アフリカ系アメリカ人(African American)は、特に1940年以降、ミルウォーキーに移住します。工業が盛んなので就労が容易だったからです。ウィスコンシン州のアフリカ系アメリカ人人口の86%は、ミルウォーキーやラシーン(Racine)地域に住んでいます。

 終わりにウィスコンシン州の住民のうち、71.7%はウィスコンシン州で生まれで、23.0%はアメリカの他の州で生まれ、0.7%はプエルトリコ、アメリカの島嶼部で生まれたか、またはアメリカ人の両親のもとで海外で生まれ、4.6%は外国生まれという調査結果となっています。まさに人種のるつぼがウィスコンシンなのです。
(投稿日時 2024f年9月6日)  成田 滋

ウィスコンシン州の地理的な特徴

注目

 ウィスコンシン州の地理や地図を紹介することにします。日本人の多くは、「一体、ウィスコンシンってどこにあるの?」と聞き返すでしょう。それも仕方がありませんね。ミシガンやイリノイ(Illinois)に比べて知名度はいまちといったところです。ですが、最近の2025年大統領選挙戦の報道で一躍その名が知られています。

Map of Wisconsin

サイロ

 ウィスコンシン州は、アメリカ中西部に位置し、五大湖(Great Lakes)地域と中西部北部(Upper Midwest)の両方にまたがっています。州の総面積は169,630 km2です。ちなみに日本378,000 km2です。ウィスコンシン州は、北はモントリオール川(Montreal River)、スペリオル湖(Lake Superior)とミシガン州、東はミシガン湖(Lake Michigan)、南はイリノイ州、南西はアイオワ州(Iowa)、北西はミネソタ州(Minnesota)と接しています。ミシガン州との国境紛争は、1934年と1935年の2つのウィスコンシン州対ミシガン州訴訟で解決しました。ウィスコンシン州の境界には、西はミシシッピ川(Mississippi River)とセント・クロワ川(St. Croix River) 、北東はメノミニー川(Menominee River)が流れています。

 五大湖とミシシッピ川の間に位置するウィスコンシン州には、多様な地形が広がっています。州は 5つの地域に分かれています。北部のスペリオル湖低地は、スペリオル湖に沿った一帯を占めています。そのすぐ南の北部高地には、61 万ヘクタールのチェワメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む、針葉樹と広葉樹が混在する広大な森林があり、数千の氷河湖と州最高地点のティムズヒル(Timms Hill)があります。

 中央平原には、豊かな農地に加えて、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩層があります。南東部のイースタンリッジ(Eastern Ridges)とローランド地域(Lowlands)には、ウィスコンシン州の大都市の多くが集まっています。尾根には、ニューヨークから伸びるナイアガラ断崖(Niagara Escarpment)、ブラックリバー断崖(Black River Escarpment)、マグネシアン断崖(Magnesian Escarpment)などがあります。南西部のウェスタンアップランド(Western Upland)は、ミシシッピ川沿いの多くの断崖を含む、森林と農地が混在する険しい地形となっています。この地域はドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部であり、アイオワ州、イリノイ州、ミネソタ州の一部も含まれています。全体として、ウィスコンシン州の陸地面積の46%は森林に覆われています。

なだらかな平原と酪農

 ウィスコンシン州には、30億年以上から数千年にわたるさまざまな地質構造と堆積物があり、ほとんどの岩石は数百万年前のものといわれます。最も古い地質構造は、6億年以上前の先カンブリア時代(Precambrian)に形成され、その大部分は氷河堆積物の下にあります。バラブー山脈(Baraboo Range)の大部分はバラブー珪岩(Baraboo Quartzite)とその他の先カンブリア時代の変成岩で構成されています。この地域は、最も最近の氷河期であるウィスコンシン氷河期には氷河に覆われていませんでした。ラングレード郡(Langlade County)には、アンティゴ・シルト・ローム(Antigo silt loam)と呼ばれる砂・シルト・粘土がほぼ等分の土壌が堆積しています。郡外ではあまり見られない土壌といわれます。

Summer of Wisconsin

 氷河が後退するとき、谷を削りながら時間をかけて流れ、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように残ります。この岩石や岩屑のことをモレーン(moraine)といいます。ウィスコンシンの平原は氷河の影響でなだらかになっていますがモレーンが多いのです。酪農が盛んになったのは、気候の他にこうしたモレーンのために土壌が小麦やトウモロコシなどの大規模農業に敵さず、人々は酪農に従事することになります。
(2024年9月4日) 成田 滋
 

ウィスコンシンの歴史−毛皮貿易

注目

 イギリスはフレンチ・インディアン戦争中(French and Indian War)にウィスコンシンを次第に勢力を拡大し、1761年にグリーンベイ(Green Bay)を支配し、1763年にはウィスコンシン州全体を支配します。フレンチ・インディアン戦争とは、1754~1763年まで、北米大陸でのイギリスとフランスの戦争で、フランス軍がインディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したのでイギリス側でこのように呼んでいます。植民地を巡る両国の最初の戦いです。

シングルヒルの戦い

 フランスと同様、イギリス人も毛皮貿易以外にはほとんど関心がなかったといわれます。ウィスコンシンの毛皮貿易産業における注目すべき出来事は、1791年に2人のアフリカ系アメリカ人がミシガン州境(Michigan)にあるマリネット(Marinette)にあるメノミニー族(Menominee)との間で毛皮交易所(fur trading post)を設立したことです。

 最初の永住者は、ほとんどがフランス系カナダ人(French Canadians)、一部のアングロ・ニューイングランド人(Anglo-New Englanders)、少数のアフリカ系アメリカ人解放奴隷で、彼らはウィスコンシンがイギリスの支配下にあったときに到着します。チャールズ・デ・ラングラード(Charles de Langlade)が一般に最初の入植者といわれ、1745年にグリーンベイに交易所を設立し、1764年にそこに永住します。入植は1781年頃にプレーリー・デュ・シン(Prairie du Chien)で始まります。プレーリー・デュ・シンは、ウィスコンシン州南西部にあり、ミシシッピ川に沿い,ウィスコンシン川との合流点から上流約 5kmに位置しています。 17世紀後半には軍事上,交易上の要地で,フランスやイギリスはそれぞれ砦と毛皮の交易所を設置していました。「Prairie du Chien」とは「平原のシダ植物」という意味です。

French and Indian War

 現在のグリーンベイ(Green Bay)にある交易所のフランス人居住者は、その町を「ラ・ベイ」(La Baye)と呼んでいました。しかし、イギリスの毛皮商人は、春先に水と海岸が緑色に染まることから、ここを「グリーンベイ」と呼んでいました。古いフランス語の呼び名は徐々に使われなくなり、最終的にイギリスの「グリーンベイ」という呼び名が定着しました。

 この地域がイギリスの支配下に入ったことは、フランス人居住者にほとんど悪影響を及ぼしませんでした。イギリスはフランスの毛皮商人の協力を必要とし、フランスの毛皮商人はイギリスの好意を必要としていたからです。フランスがこの地域を占領していた間、毛皮取引の許可証はほとんど発行されず、一部の商人グループにのみ発行されていましたが、イギリスはこの地域からできるだけ多くの金を儲けようと、イギリス人とフランス人居住者の両方に毛皮取引の許可証を自由に発行しました。

毛皮貿易

 当時、ウィスコンシン州における毛皮取引はイギリスの支配下で最高潮に達し、州で最初の自給自足の農場も設立されたほどでした。1763年から1780年まで、グリーンベイは繁栄したコミュニティとなり独自の食料を生産し、人々は優美なコテージを建て、ダンスや祭りを開催するほどでした。
(投稿日時 2024年9月2日)  成田 滋