森有正の「遥かなノートル・ダム」

注目

 私がかつて一度会ったことのある哲学者が森有正です。呼び捨てにするのは少々ためらいますが、彼は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。

 私が森有正に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンター教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

森 有正

 森はパリでの長い生活で、その間数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。」

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、といういうのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

森有正選集

 言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であるというのです。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」というのが森が強調したいことでもあります。

「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」このように経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

オルガン演奏の森有正

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のもとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

参考資料
『バビロンの流れのほとりにて』 (講談社) 1968年
『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房) 1967年
『経験と思想』(岩波書店) 1977年

(投稿日時 2024年8月18日)  成田 滋

ボンヘッファーの「抵抗と信従」

注目

 ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の「抵抗と信従」(Widerstand und Ergebung: Resistance and Surrender)という著作を紹介します。ボンヘッファーは、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(Die Evangelische Kirche der altpreußischen Union)の、ルター派の牧師です。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人として知られ、反ナチ主義者でもありました。第二次世界大戦中にヴァルキューレ作戦(Operation Walkure)と呼ばれたヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、刑務所内で著述を続けます。その後、暗殺計画は挫折し、ドイツ降伏直前の1945年4月9日に強制収容所で処刑されます。

Dietrich Bonhoeffer

 1933年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「職業官吏再建法」が制定されます。これは「非アーリア人種」や「政治的に信用のできない者」を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨の法律です。教会にもいわゆる「アーリア条項」 (Arierparagraph)が適用されるようになります。これはユダヤ人また、ユダヤ人以外の「非アーリア人」を、組織や職業、その他の公共生活の側面から排除するために使われた最初の法制度です。アーリア(Aryan)という言葉は、中立的な概念を表す用語として生まれたのですが、思想的、または悪意のある目的のために適用され、操作されて過激な意味を持つようになります。

 その後、ドイツ的キリスト者 (Deutschen Christen) と呼ばれる親ナチス勢力の追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になりますが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)らと牧師緊急同盟を結成します。これが後の告白教会(Bekennende Kirche)の結成に繋がるのです。ここから告白教会の牧師は、ナチスに対する反対運動を開始します。この牧師緊急同盟にはドイツの福音主義教会牧師の約3分の1が加入します。しかし、アーリア条項に反対した当時の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではないといわれます。教会指導者らにとってアーリア条項に反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点でありました。ボンヘッファーは、ナチスの福音派の牧師らの姿勢について、その問題の重大性を深く認識し彼らと袂を分かっていきます。

堅信礼を受ける少年らと

 1933年以来、告白教会の路線にそって教会的な抵抗を続けてきたボンヘッファーは、1940年頃から国防予備軍を中心とする政治的抵抗運動に身を投じます。彼がこの抵抗運動の中で演じた役割は3つあります。第一は牧師として抵抗運動の精神的な支柱となることでした。第二は告白教会の若い世代の教会的で神学的な指導者として、ヒトラー打倒の陰謀計画が成功した暁に平和的で民主的なドイツにおいて、奉仕すべき教会の再建を検討することでありました。第三は1930年頃から抱いていたエキュメニカル(Ecumenical)な交わりを通して、特に抵抗派が望んでいたイギリスとの政界との繋がりをつけ、ヒトラー打倒とその後に来たるべきドイツの再建のために不可欠とされていたイギリスとの和平への保証、及びその条件の確認と、抵抗派への理解と支持を求める働きという任務を負っていたからでした。

 しかし、ボンヘッファーがヒトラー打倒について協力を仰いでいたミュンヘンの実業家シュミットフーバー(Schmidhuber)が秘密国家警察(ゲシュタポ)に逮捕されると、シュミットフーバーはヒトラー打倒計画の情報を明かすのです。こうして1943年4月にボンヘッファーもゲシュタポに逮捕されるのです。本書「抵抗と信従」には多くの手紙が網羅されています。そのほとんどが刑務所内で書かれたものです。すべて、正規の検問を経て書かれた両親宛の手紙は、彼の獄中生活の比較的明るい面をつたえています。「運命にたいする迅速で自覚的かつ内面的な和解」とか「ある無自覚的で自然な馴れ」といった自省的な思索も感じられます。獄中にありながらも、旺盛な読書力によって神学的な思索や聖書研究に没頭し、神学、哲学、歴史、文学、自然科学に渡る書物を読破していきます。詩をや音楽を愛し、自由な生きた人間としてのボンヘッファーの姿があります。

ボンヘッファーが牧会したシオン教会

 獄中でリューマチや腹痛で苦み、さらには爆撃の恐怖、別離と孤独、釈放への憧れなどが混ざり合いながらも、そこにユーモアによって苦悩を克服したかのような書簡が綴られています。「十年後」という書簡ですが、これはヒトラーが帝国宰相の地位につき、ドイツの全体主義運動に乗り出してから十年後に書いたものです。この十年間のヒトラー支配下の自己を含めて、ドイツ人の精神的な状況を省察しています。
 「悪の一大仮面舞踏会が、一切の観念を倫理的観念を支離滅裂な混乱に陥れた」
 「市民的勇気の欠如を嘆く訴えの背後に、一体何が潜んでいるのだろうか。近年われわれは多大な勇気や犠牲的行為をみた。しかし、市民的行為というものはほとんどどこにも見られなかった。」
 「ドイツ人は今日始めて自由な責任とは何であるかということを発見し始めている。」
 「愚鈍であるが、知的には非凡なほど活動的な人間がおり、愚鈍とはおそ別ものでありながら、知的には全く愚鈍な人間がいる」
 
 ナチスの全体主義思想下による国民の影響について、ボンヘッファーは、良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが大衆のヒトラー崇拝となったというのです。ゲシュタポの探索を目を逃れて後に発見された少数の友人あての書簡で、以上のようにドイツにおける時代の精神状況をとらえ、抵抗運動を分析していることに着目すべきと考えられます。

 次ぎに「獄中報告」です。これはベルリン市内にあった陸軍刑務所で書かれエーベルハルト・ベートゲ(Eberhard Bethge)という友人に送られたものです。獄中の待遇一般や食事、作業、空襲警報、個別的なことなどです。特に留置者の空襲の際の叫声や怒号は経験した者しかわからないだろうと記しています。こうした手紙はすべて事前に当局によって検閲されていました。

 「両親への手紙」は、刑務所内から正規の検問とルートを経て、ほとんど10日に一度の割合でベルリンに住む両親に送られてものです。拘留生活のこと、日課、誕生日のお祝いの言葉、姪の結婚への祝い、獄中からの結婚式のための説教、などです。「あなた方二人は、これまでの生活を他に比べようもない感謝を持って振り返るべき理由を十分に持っているに違いありません。神はあなた方の結婚を結びつけて、離し給うことはありません。」

ウエストミンスター寺院の彫像 右端がボンヘッファー

 「ある友人への手紙」は親友であったベートゲへの書簡です。1940年以来、彼が一切の表現の自由を当局から剥奪されて以降は、告白教会のための、また抵抗運動のための多忙な生活を割いて原稿を書き続けます。昼間は、倫理学についての書物を書いたり、告白教会の常議委員会のための神学的な原稿を書き、夜は政治活動に携わっていたようです。こうした執筆は逮捕と投獄によって中断されます。

 本著の最後の章である「生命の微」は、神への感謝の祈りに満ちています。そのほんの一部を紹介します。

  神よ、私はあなたの永遠へと身を沈めながら
  私の民が自由の中に歩みいるのを見る。
  罪を罰し、喜んでこれを赦し給う神よ
  私はこの民を愛した。
  この民の恥と重荷とを負い、
  その救いを見たことにまさる歓びはない。
  私を支え、私を捕らえ給え!
  私の杖は倒れて地に落ちた。
  信実なる神よ、私の墓を備え給え。

 ナチスドイツの敗北直前に刑死するまで、数年間の過酷な獄中生活から紡ぎ出された著作で、戦後のキリスト教神学に絶大な影響を与えたのがディートリヒ・ボンヘッファーです。彼の死は、まるでキリストを木の十字架の上にかけたローマの政治の継続の姿です。それでも「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」とも主張し、キリスト教会がナチス政権に賛同し、自己存続のためだけに活動することに警告するのです。まるで、

参考資料
「抵抗と信従」ボンヘッファー選集(全9巻) 倉松功・森平太訳 新教出版社、1962年
「告白教会と世界教会」 ボンヘッファー選集(全9巻) 森野善右衛門訳 新教出版社、1962年
「服従と抵抗への道」森平太 新教出版社、2004年
                            
(投稿日時 2024年8月3日) 成田 滋

休憩ブラック・スピリチュアルズ

注目

霊歌ときくと、「黒人霊歌」という言葉がすぐに浮かびがちです。本稿では、この言葉ではなく、時代の流れにそって「ブラック・スピリチュアルズ」」(black spirituals)という用語を使うことにします。霊歌とは、「北アメリカの白人と黒人の精神的とか霊的な民族音楽や民俗讃歌である」とブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopedia)に掲載されています。霊歌には、白人と黒人の霊歌があるというのです。白人とは、通念として北ヨーロッパ系のアメリカ人といわれます。

Black Spirituals

まずは白人の霊歌というジャンルです。これは、リバイバル(revival)音楽やキャンプ集会の歌そして、少数の他の讃美歌が含まれます。リバイバル歌とは、信仰復興運動の形式である伝道集会とかクルセード(Crusade)と呼ばれる集会で、信者の信仰が励まされ、未信者が信仰に導かれるように歌われるものです。未信者をある種の高揚状態にさせて回心に導くような想定です。リバイバル歌は、さまざまな背景から生まれたのですが、主に旧約聖書(Old Testament)にある「詩篇」(Psalm)が下敷きとなっています。詩篇は、讃美、祈り、感謝、悔い改め、また神に対する信頼を謳っています。その言葉は神の言葉でありながら、人間の視点で表現されているのが特徴といわれます。20世紀の伝道集会で有名な牧師はビリー・グラハム(Billy Graham)です。世界中で伝道集会を開き、日本でも多くの信者や未信者を集めたことで知られています。

Rev. Billy Graham

キャンプ集会とは、開拓期にキリスト教の長老派(Presbyterian)といわれる教会から始まった集会様式のことで、大規模な野外での天幕集会とか伝道集会を意味します。会衆が詩篇を読めない場合は、指導者が歌詞を一行ずつ読み上げ、会衆は与えられた各行をなじみのあるメロディーに合わせて歌うという手順を交互に行います。ゆっくりと歌われるこの曲は、優雅さに溢れ、各歌手が自分の心地よいピッチレベルで独自に即興で装飾していきます。このスタイルは、20世紀においても辺鄙な地域や白人や黒人の教会でも引き継がれています。

霊歌のもう一つの源です。18世紀の信仰覚醒運動(faith awakening movement)と呼ばれるものです。メソジズム(Methodism)の創始者であるジョン・ウェスレー(John Wesley)らは、教義上の違いからイングランド国教会(Church of England)から訣別します。そして自らが、詩篇のみに依拠しないで讃美歌を作曲していきます。また他からメロディーを引用するなど、世俗的な民謡に合わせて歌を作ります。こうした福音主義の讃美歌の多くはその後に受け継がれていきます。福音主義とはキリストが伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想のことです。

信仰覚醒集会

18世紀後半から19世紀半ばまで、信仰覚醒主義の波が続きました。覚醒主義から生まれたキャンプの集会とリバイバルは、自発的な集団歌唱によって特徴付けられているといわれます。曲の歌い方の典型は男性の高い声で始まり、男性の低音や女性がオクターブ上、または下のオクターブ、または他の快適な音程も加わります。呼び出しと応答のパターンが繰り返され、メロディーは和音で装飾されていきます。歌詞には繰り返しがあり、曲ごとに違っていました。歌手のインスピレーションによって新しい曲が即興で作成されていくのです。曲のテーマには、旧約聖書に登場する「約束の地への帰還」、「サタンの敗北」、「罪に対する姿勢」などの主張が含まれていました。 典型的な繰り返しとしては「ロール、ジョーダン」(Roll Jordan)とか「グローリー、ハレルヤ」( Glory Hallelujah)などが歌われます。 こうして歌われた曲の多くは民俗讃美歌集としてまとめられていきます。

さて本題の「ブラック・スピリチュアルズ」の話題に入ります。以前は「negro spirituals」と呼ばれるのが普通でしたが、現代的な解釈によって「African American spirituals」とも呼ばれるようになりました。ブラック・スピリチュアルズは、主に白人の田舎の民謡から発展してきたといわれます。 例えば、黒人も白人も同じキャンプ集会に参加して、黒人の演奏スタイルがリバイバルソングに逆影響を与えたともいわれます。このように、多くのブラック・スピリチュアルズは白人の民族音楽の伝統にも存在しています。

ヨルダン川

ブラック・スピリチュアルズは、声の質、声の効果、リズミカルな伴奏の種類などで白人霊歌とは著しく異なります。ブラック・スピリチュアルズは礼拝だけでなく労働歌や作業歌としても歌われ、歌詞のイメージは従事していた仕事や作業の姿を反映していることがよくあります。ハンマーソング(hammer song)がそうです。例えばかつて北大合唱団が歌った「This Old Hammer」では、トンネル掘りでずば抜けて優れたハンマー打ちのジョン・ヘンリー(John Henry)が蒸気ドリルと競争して勝つのですが、疲労困憊して倒れるという歌詞です。「Go Down Old Hannah 」という曲は、毎日、厳しい日射しのなかで強制労働をさせられている黒人囚人が太陽に向かって、「もう沈んでくれ、もう登ってくれるな」と叫ぶのです。Hannahとは太陽の呼び名です。

ブラック・スピリチュアルズは自由とか救済を求め、主の御許に導かれるようにと祈る歌でもあります。例えば、「Deep River」はヨルダン川(Jordan River)の向こう岸には自由な故郷があると待望する歌です。生と死の境に「Deep River」があると象徴的に解釈される歌詞となっています。類似する歌に「Michael Row the Boat Ashore」があります。ヨルダン川の向こう岸は約束の地カナンがあり、「そこにたどり着けばこんな辛く苦しく明日の見えない毎日から開放されるのだ、マイケルよ、ボートを漕ぐんだ」という歌詞となっています。

Moses

旧約聖書の「出エジプト記」(Exodus)で、民を率いて脱出し40年にわたって荒野を流浪し「約束の地」にたどり着くモーゼ(Moses)を歌った「Go Down Moses」があります。モーゼの従者であったヨシュア(Joshua)が、指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコ(Jericho)の砦を攻めるのを歌ったのが「Joshua Fit the Battle of Jericho」です。北大合唱団もこの曲を取り上げたことがあります。こうしたブラック・スピリチュアルズは、神への信頼、現実からの脱出、救い、来世での希望、生まれかわり、などが主題となっています。

ブラック・スピリチュアルズは、シンコペーションの多いリズムや「ペンタトニック」(Pentatonic)と呼ばれる五音音階などが特徴です。音楽的には、アフリカと白人の民俗音楽の要素が複雑に絡み合い、アフリカ音楽と白人の民謡の特徴が互いに影響し合った音楽と考えられています。アフリカ音楽の伝統には、多声歌や合唱も含まれていました。リング・シャウト(ring shout)と呼ばれるリーダーと会衆とが掛合いで歌い,興奮が高まるような歌い方、歌と手拍子の伴奏による宗教的な踊りはアフリカ起源のものです。

Hammer Songs

南北戦争後、ブラック・スピリチュアルズは北部のアメリカ人によって取り上げられ、しばしば洗練された合唱団によって歌われ、調和されたバージョンに発展します。と同時に特に農村部や特定の宗派で古い伝統的なスタイルとしてが保存されるようになります。その一つに「ノアの箱舟」(Noah’s Ark)という霊歌があります。これも旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)にある物語です。「ノアの箱舟」は、神が人類の堕落を怒り大洪水に際し、神の指示に従ってノアは箱形の大舟をつくり、家族と雌雄一対のすべての動物を引き連れ、よって人類や生物は絶滅を免れるという物語です。

この曲の演奏を聴くと、19 世紀から 20 世紀初頭にかけて、プロテスタントのキリスト教の讃美歌やリバイバル集会の霊歌、さまざまなポピュラースタイルなど、ヨーロッパ系アメリカ人の音楽の伝統が感じられます。曲はリフレインを伴う詩的なものであり、ノアの個人的な宗教的な体験を描写し、救いの重要性を強調していることが伝わります。歌手のジェシー・ノーマン(Jessye Norman)やマリアン・アンダーソン(Marian Anderson)らが霊歌も歌っていました。

Gospel Singers

Jessye Norman

次ぎに「ゴスペル・ソング」(Gospel Song)のことです。霊歌と間違えやすいのですが、異なった音楽ジャンルといわれます。「ゴスペル」とは福音書とか福音的という意味です。19 世紀の信仰覚醒に根ざしたアメリカ発祥のプロテスタント音楽が「ブラック・ゴスペル・ソング」です。霊歌が白人の教会音楽と黒人音楽の融合のジャンルであるのに対して、ゴスペルは黒人の心情表現やリズムに、アフリカ的なシンコペーションなどの特徴があるといわれます。リング・シャウトと同じような意味の「コール・アンド・レスポンス」(Call and Response)、つまり掛け合いを使い、コンサートなどでは、演奏者の呼びかけに対して観客が応えるといった按配です。

現代のブラック・ゴスペル・ソングもスピリチュアルなものの産物であり、世俗的な黒人音楽である労働歌やブルースに対するスピリチュアルな音楽と同様に密接な関係があります。伝統的な手拍子による伴奏に加えてジャズのリズムや楽器が含まれることが多く、ダンスも含まれます。こうして何十年にもわたって、白人と黒人の両方の伝統が、歌の出版、コンサートや録音、宗教礼拝のラジオやテレビの放送を通じて広められてきました。

Mahalia Jackson

1992年のコメディ映画に「天使にラブ・ソングを、」(原題 Sister Act)がありました。この中で、沢山のゴスペル・ソングが歌われました。「Oh Happy Day」、「I’ll Follow Him」、「Hail Holy Queen」、「You Can’t Beat God Giving」といった曲目です。ウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)が演じたのはシスターの見習いで聖歌隊の指揮者です。礼拝では教会の伝統的な聖歌を歌い始めるのですが、途中から一転アフリカ的なシンコペーションに手拍子を加え、軽快なリズムで会衆を驚かせるのです。この映画は、日本のゴスペル音楽の普及に大きな貢献をしたと思われます。

20 世紀後半、ゴスペル音楽は人気の商業ジャンルに発展し、アーティストが世界中をツアーしました。世界で最も影響力のあるゴスペル歌手に後に「ゴスペルの女王」といわれマヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)がいます。彼女は公民権運動にも積極的に関わり、マーチン・ルーサー・キング牧師(Rev. Martin Luther King, Jr)の葬儀で歌い、後にジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)の就任式でも歌唱します。彼女を抜きにしてゴスペル・ソングの音楽史に与えた影響を語ることはできないでしょう。

(投稿日時 2024年3月01日)  成田 滋

【話の泉ー笑い】 その四十一 パントマイム その1 その語源

話の泉は、パントマイムという「沈黙の芸術–笑い」へと展開していきます。週末、ヨーロッパやアメリカの大都会の繁華街を歩くと、必ずといってもよいほど大道芸(ストリートパフォーマンス;street performance) に出会います。ジャグリング(juggling)もそうです。台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態で黙劇とか無言劇とも呼ばれる「パントマイム」(pantomime)も見かけます。

大道芸人

パントマイムでは、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現します。特異な服装や化粧をして全く身じろぎをしないパフォーマンスにも会い、子ども達を驚かせたり喜ばせたりします。

パントマイムの語源をWikipediaから引用します。パントマイムとは「全てを真似る人」「役者」を意味する古典ギリシア語 「pantomimos」とあります。古代ギリシアの頃のパントマイムは、演劇の一演目という扱いだったようで、今とは違い仮面舞踏に近いものだったといわれます。

「泣き笑いして我がピエロ」(堀口大学)

パントマイムをする人を、パントマイミスト(pantomimist)、マイマー(mimer)、パントマイマー(pantomime)などと呼びます。英語圏ではマイムアーティスト(mime artist)という呼びかたもあるくらいです。イギリスでは18世紀以降、台詞のある滑稽劇として独特の発展を遂げ、クリスマスの風物詩となるくらい人気がでます。

旅のエピソード その11 「ボディは部厚く」

アメリカのジョージア州(Georgia) に2か月生活したことがあります。ローターリークラブ(Rotary International) からの奨学生としてそこで英語の研修を受けたときです。マスターズ・ゴルフコース(Masters Golf)のあるオーガスタ(Augusta)の東、車で1時間のところにある小さな街ステイトボロ(Stateboro)です。

1978年の7月と8月。家族との始めてのアメリカ生活です。この街にきて驚いたの、富める人と貧しい人が住み分けしていることでした。車で走ると街のたたずまいや雰囲気がはっきり違うのがわかります。富裕層と貧困層、白人と黒人の対照がはっきりしています。

日本車はほとんど目にしない時代でした。日本の製品は「安かろう、悪かろう」という言葉が流布する頃です。走っていた車のほとんどは大型のセダンです。かつて日本で働いていた宣教師から譲ってもらったGMの車はシボレーシェベル, マリブ(Chevrolet Chevelle Malibu) というのでした。ボディは部厚く、押してもボコボコしないのです。こうした車は当時「タンク」と呼ばれていました。燃費などは話題視されないほどガソリンが安い頃でした。ボンネットを開けると地面が見えるほどエンジン部分がすかすかしているのです。ですから、自分で部品交換などメインテナンスができるのです。「Do It Yourself -DIY」(自分のことは自分でやる)というフレーズを知ったのもこの頃です。

音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その53 ノルウェーとペイガニズム

7b31bfb61b8077bb32b99ab659cbf32d scaletowidth maxresdefaultかつて神戸にあった葺合区は生田区と共に、中央区になりました。葺合区にあった聖書学院というところで半年学んだことがあります。この運営はノルウェー (Norway)の福音ルーテル伝道会でした。教文館発行の「日本キリスト教歴史大事典」によりますと、ルーテル伝道会の日本での宣教開始は1949年とあります。

この伝道会の前身は1891年に設立された「ノルウェー・ルーテル中国伝道会」で、この年8名の宣教師を中国に派遣したようです。さらに1900年には、フィンランド(Finland) のルーテル福音教会は、最初の宣教師を日本に派遣し長野県を中心に伝道したという記録もあります。スカンディナヴィアの小さな国から「東の果て」ではあり「日の昇る国」でもある日本に「福音を聞き主を受け入れ信仰の道を歩む体験をする」というスカンディナヴィア人の心意気を感じます。

戦後、中国から引き揚げたノルウェーの宣教師は賀川豊彦の協力を得て、兵庫県西明石を宣教の出発点とします。賀川豊彦は大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動の指導者として活躍します。神戸のスラム街での無料の巡回診療よって「貧民街の聖者」とも呼ばれました。自伝的小説「死線を越えて」の印税はすべて社会運動につぎ込まれたといわれます。

ノルウェーにキリスト教が入ったきたのは西暦1000年時代といわれます。アイルランド (Ireland)やブリテン(Britain) などへの侵略争いがヴァイキング (Viking) を通してキリスト教がもたらされます。その頃のノルウェーには自然崇拝や多神教の信仰であるペイガニズム (Paganism) がありました。ノルウェー人はノース人 (Norse) とも呼ばれていました。彼らの中にあった信仰に基づく神話が「Norse mythology」です。キリスト教化される前の神話のことです。当初キリスト教はペイガニズムや神話によって退けられてしまいます。やがてアングロ-サクソン (Anglo-Saxons) の宣教師がイングランドやドイツからノルウェーにやってきます。

アングロ人というのは、ドイツ北部よりグレートブリテン島 (Great Britain) に渡ってきた民族、同じくサクソン人はニーダーザクセン地方からの民族です。加えて北海 (North Sea) とバルト海 (Baltic Sea) を分かつユトランド半島 (Jutland) に住んでいたジュート人 (Jutes) がグレートブリテン島に渡ってきますJutland とは「ジュート人が住むところ」という意味です。こうしたアングロ人、サクソン人、ジュート人は先住のケルト系(Celtic) のブリトン人を支配しその文化を駆逐していきます。

アングロ-サクソン人のノルウェーにおける宣教活動は前述した前述したペイガニズムや土着の神話などに阻まれて困難だったようです。しかし、国王オラフ一世 (Olaf I) の改宗により全土にキリスト教が宣撫することになります。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その52 コラル(聖歌隊)

purple-tree the-academy English_Choral_855755758今回は、素人ですがルーテル教会の音楽について知っていることを少し説明します。もともとカトリックの司祭であったマルチン・ルター(Martin Luther)らの宗教改革 (Reformation) によって、キリスト教会の礼拝に大きな変化がもたらされたといわれています。その最も大きい変化とは、礼拝に集う会衆全員が讃美歌を歌うようになったことです。中世のカトリック教会では聖歌隊員とか司祭など特定な者、あるいは専門家だけが礼拝で歌うことが多かったのです。

ここにコラル(Choral)が登場します。Choralとは、声をそろえてとか、一斉の、あるいは合唱隊のといった意味です。会衆が一斉に歌うことが次第に広まっていき、教会音楽が会衆の中に親しまれていきます。コラルで歌う賛美歌の旋律は多くの場合、四分や八分音符が中心で歌うのはそう難しくはありません。

ルターは、教職者中心の礼拝執行という長い伝統を破り、聖書のみことばを伝えるために音楽の意義を強調し、礼拝における音楽を大事にしたのです。振り返りますと、ヨーロッパの中世から音楽の地位は確立していました。大学には、「自由七科」という学問分野があって、おもに言語にかかわる3科目の「三学」 (trivium)とおもに数学に関わる4科目の「四科」(quadrivium)の2つに分けられていました。三学の内訳は、文法学、修辞学、論理学 (弁証法)、四科の内訳は、算術、幾何、天文、そして音楽でした。なお天文学は円運動についての学問で現在の地理学にも近いといわれます。リベラルアーツ (Liberal Arts) の原型です。ついでですが、triviumの「tri」は三、quadriviumの「quad」は四という意味のラテン語です。

作曲家でもあった改革者のルターは、自ら「神はわがやぐら」などの讃美歌を書いています。またカトリック教会の聖歌の中から聖書に基づいて作られた音楽をドイツ語に翻訳して礼拝で用いるようにしたのです。例えば「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」、、「来たり給え、創造主なる聖霊よ」等のラテン語で歌われていた聖歌です。こうした曲はルーテル教会の賛美歌集にとり入れられています。新しい教会では会衆が賛美をしない礼拝を考えることはできない」とまで言ったとされています。今に至るような皆が共に歌い、祈り、朗読する伝統が始まるのです。

音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その51 マディソンでの生活と我が家のこと

f6d89827ed2748aa84313f6161d596dd 122616_1fe58dd84c_toppage_image Anders-Corbin NY私の合唱の話の続きです。マディソンでの生活が落ち着くと、早速Mt. Olive Lutheran Churchの聖歌隊 (Choir) に入ることにしました。毎週木曜日の夜に練習がありました。北大の男声合唱団で歌っていた宗教曲も偶然練習することもありました。男声合唱団というのはカトリックからプロテスタント教会の歌まで幅広く歌うという「節操」のなさでした。ですがルーテル教会の聖歌隊ではカトリック(旧教)や正教会の曲は歌いません。例えばアヴァ・マリア (Ave Maria) もそうです。マリアを賛美するか否か、といった信条の違いによるものだからです。Ave Mariaは「おめでとう、マリアさん」という意味で「天使祝詞」ともいわれます。ルカによる福音書 1章28節にある受胎告知の場面です。

毎週の礼拝で聖歌隊は2曲から3曲歌います。パイプオルガンを伴奏にして歌うのは実に心地良いものです。会員の多くは家族も歌っていたようで、大抵は楽譜を初見で歌うことができました。体格や喉のつくりが違うせいか、声量が違うな、とも感じました。会衆にはいろいろな楽器を弾く人がいて、時々室内楽の雰囲気で礼拝の前後に演奏していました。私の長男も室内楽でヴァイオリンを弾く機会がありました。

マディソンでは音楽をする者の層が幅広いと感じました。小学校では4年から弦楽器を選び弾き方を学びます。学校は楽器を保有していて子どもに貸し出しています。長男は、小学校から高校までヴァイオリンをやり、大人になってからボストンでは市民オーケストラで弾いていました。

長男は毎朝学校へでかける前に息子 (孫) のヴァイオリンレッスンをやっていました。技量が高まるにつれ、もう息子に自分で教えることはできないといって、新たに個人レッスンを受けさせ始めました。今、息子はボストン交響楽団の下部組織である「Boston Youth Symphony Orchestras」で演奏しています。何度もオーディションを受けて段々と上のレベルの組織に上がっていきます。アジア系の団員が多くいます。

長男の音楽活動からいえることですが、親に音楽に対する適度な関心、そして時間やお金がないと子どもの音楽活動を続けることは困難だということです。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その49 「 St. Thomas Boys Choir」

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私はまだドイツへ行ったことはありません。書籍や写真、音楽、その他教会聖歌隊の活動でドイツの歴史や政治、思想、ルターの宗教改革、バッハなどの作曲家のことを学んでいるだけです。この目で確かめる実体験がないので少々筆を持つことにためらいがあります。

聖トーマス教会 (St. Thomas Kirche)と聖ニコライ教会 (St.Nikolai Kirche)が、ライプツィヒ (Leipzig)のシンボル的な教会といわれます。それは、音楽分野の発展と東西ドイツの統一において重要な役割を果たしてきたからです。中でもトーマス教会は作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハゆかりの場所、そしてトーマス教会少年合唱団の活動の舞台として世界的に知られているルーテル教会です。

ニコライ教会のことです。もともと東ドイツ領であったライプツィヒでは、冷戦の真っ只中に、この教会で平和のあり方を考える「平和の祈り」 (Friedensgebete) と呼ばれる集会が毎週月曜に開かれるようになりました。東ドイツにおける民主化運動の出発点です。時代は経て1989年11月10日のベルリンの壁の崩壊につながり1990年11月に東西ドイツの統一が成ります。

聖トーマス教会の創建は1212年の聖トーマス修道院設立まで遡ります。同時期に創設された聖トーマス教会聖歌隊は変声前の子どもによって組織され、教会と共にその歴史を歩みます。現在の建物は1496年に献堂されたもので、マルティン・ルター (Martin Luther) は1539年の聖霊降臨日 (Pentecost)に説教を行い、教会はプロテスタント・ルター派としてその信念と伝統を受け継ぎます。

ニューグローヴ世界音楽大事典 (New Grove Dictionary of Music and Musicians) によりますと、熱心なルター派信徒であったバッハ (Johann Sebastian Bach) は1723年から1750年まで市の音楽活動を統括する聖トーマス教会音楽監督(楽長)(Thomaskantor)を務めました。バッハは少年たちの音楽指導にあたりながら数々の傑作を書き上げ、その代表作、かつ西洋音楽史上の最高峰といわれる「マタイ受難曲」(Matthew Passion  BWV 244) を作曲します。1727年にこの教会で初演されたとあります。

ライプツィヒを拠点とするゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhaus Orchestra) は、 聖トーマス教会やライプツィヒ歌劇場での演奏も担っています。楽団が三つに分かれて演奏しているようです。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その48  「Escolanía de Montserrat」

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カトリック教会(Catholic church)というのはいくつかの教派から成ります。聖書に基づく教義の解釈には大きな違いはありませんが、どこで誰が宣教活動をしたか、どのように礼拝するかなどによって教派が生まれるのです。

カトリック教会の男子修道会がイエズス会 (Society of Jesus) です。我が国には、1534年にイグナチオ・デ・ロヨラ (Ignacio de Loyola) やフランシスコ・ザビエル (Francisco de Xavier) らが宣教活動を始めます。ジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれます。教皇ピウス10世 (Pius X)がイエズス会に対し高等教育機関の設置を要請し、その結果上智大学 (Sophia University) が設立されます。なおイエズス会は全米に28の単科、総合大学を擁しています。

フランシスコ会 (Order of Friars Minor)は日本では比較的なじみのあるカトリック教会です。宣教師ルイス・ソテロ (Luis Sotelo) が来日して徳川家康らに謁見します。その後、日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始します。さらに1613年には洗礼を授けた支倉常長らを引率して慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されます。

カトリック最古の修道会がベネディクト会(Benedictine Order) です。その教えは「服従」、「清貧」、「純潔」とされます。ベネディクト会士は黒い修道服を着るこから「黒い修道士」とも呼ばれます。日本でも北斗市にあるトラピスト修道院 (Trappists)や当別町にある「灯台の聖母トラピスト大修道院、函館市にある「天使の聖母トラピスチヌ修道院」などを運営する教会です。

前振りが随分長くなりましたが、サンタ・マリア・モンセラート修道院 (Monasterio de Santa María de Montserrat) もベネディクト会の経営による教会です。ここにヨーロッパ最古の少年合唱団といわれているモンセラット・エスコラニア (Escolanía de Montserrat) があります。10歳から14歳までの声変わりする前の少年が、平日13時と18時45分から聖歌を2曲ほど披露してくれます。

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