アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その122 労働組合の台頭

注目

産業の発展に伴い労使間の緊張が高まり、アメリカでは初めて全国的な労働組合が誕生します。1869年にフィラデルフィア(Philadelphia)にて結成された労働騎士団(Knights of Labor)は、会員数、影響力ともに地域的な規模を超えた最初の有力な労働組織でした。雇用主から労働者を保護する秘密結社として始まりました。騎士団は、あらゆる生産者集団の利益が平等となるよう、すべての労働者だけでなく、生産者と分類される人々を組合に加入させようと努めていきます。彼らは、様々な大義を唱え、その多くは産業よりも政治的なものであり、経済的強制力よりも政治や教育によって目的を達成することを叫んでいきます

 1873年から1878年にかけての不況で多くの労働者が苦しみ受け、全国的な鉄道ストライキは失敗します。ヘイズ大統領 (President Hayes)がピッツバーグ(Pittsburgh)とセントルイス(St.Louis)での混乱を鎮圧するために連邦軍を送ったことで、騎士団の仲間に大きな不満が生まれます。1879年、鉄道員でペンシルベニア州スクラントン(Scranton)市長のテレンス・ポーダリ(Terence Powderly)が、全国組織の委員長に選出されます。彼は、積極的な行動計画よりも協調を重視しますが、騎士団の実質的な支配は、目的を達成するためにストライキやその他の経済的圧力をかけることをいとわず、大きな影響力を有するようになります。

 1884-1885年、騎士団はその影響力のピークに達し、ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific)、サウスウェスト・システム鉄道(Southwest System)、ウォバシュ鉄道(Wabash railroads)に対するストライキが大きな反響を呼び、賃金の引き下げを阻止することに成功します。当時、彼らは全国で70万人近い組合員を擁していました。1885年、労働者の力が明らかに増大していることに注目した議会は組合の要求に応じ、特定の雇用主のもとで働く契約を結ぶ移民のアメリカへの入国を禁止するようになります。

 1886年は、労使関係で大きな問題を抱えた年となります。1,600件近いストライキがあり、約60万人の労働者が参加します。8時間労働は、労働者の要求の中で最も顕著な項目でした。しかし、このうち約半数はメーデー(May Day)に招集されたもので、参加や不参加の労働者に分かれ、また熟練者と非熟練者の内部対立もあって、騎士団の人気と影響力は低下していきました。

 やがて1955年にアメリカ労働総同盟(AFL)と産業別組合会議(CIO)が合同します。現在アメリカ・カナダの53単産が加盟し、組合員は1000万人を超えるアメリカ唯一の労働組合の中央組織です。支持政党は民主党となっています。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その124 労働組合と騒動

労働組合にとって最も大きな打撃となったのは、組合が間接的にしか関与していない悲劇的な出来事でした。それは1886年のメーデーに呼びかけられたストライキの1つに、シカゴのマコーミック農耕機器製作会社(McCormick Harvesting Machine Company)に対するものでした。5月3日、ヘイマーケット広場での騒動(The Haymarket Riot) です。ピケットラインで争いが起こり、警察が治安を回復するために介入しますが、数人の労働者が負傷したり死亡したりします。

組合幹部は5月4日夜、ヘイマーケット広場で抗議集会を開きますが、集会が終わると、極右たちが占拠して扇動的な演説を始めました。警察がすぐに介入し、爆弾が爆発して警官7人が死亡、多数の負傷者が出ます。8人の極右が逮捕され、裁判にかけられ、殺人の罪で有罪になっります。そのうち4人は絞首刑、1人は自殺します。残りの3人は、1893年にジョン・アルトゲルド知事(Gov. John P. Altgeld)によって恩赦されます。知事は、彼らが偏見に満ちた雰囲気の中で有罪判決を受けたので、有罪であると確信することは不可能であると認めざるをえなかったのです。

世論はヘイマーケットの悲劇について組織労働者を非難し、多くの人が組合の活動には暴力が伴う可能性があると確信していきました。騎士団は1886年に失った信頼を回復することはなく、今世紀に入るまで、組織労働者が一般大衆の共感を得ることはほとんどありませんでした。組合員総数が最大となった1885-86年の数字に再び達したのは1900年になってからでした。組合活動は依然として活発であり、1889年から世紀末まで毎年1,000回以上のストライキが行われました。

騎士団の力が弱まるにつれ、労働組合運動の指導者はアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor: AFL)に移ります。労働総同盟は1881年に最初に組織され、1886年に再編成された地方労働組合とクラフト・ユニオン(craft unions)の緩やかな連合体でした。数年間、騎士団とAFLの間には名目上の協力関係がありましたが、両者の基本的な組織と理念の違いが協力を困難なものにしました。労働総同盟は熟練労働者のみにアピールし、その目的は労働時間、賃金、労働条件、組合の承認など、組合員にとって直接関係のある要求が主体でした。労働総同盟はストライキとボイコットを中心とする経済的手段に依存し、州や地方の選挙キャンペーンを除いては政治活動を避けていきます。労働総同盟の中心人物は、ニューヨークの葉巻製造業者であったサミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)で、1886年から1924年に亡くなるまで会長を務めます。