囲碁にまつわる言葉 その26 【爛柯】

「親の死に目に会えない」といって碁を打つ人に反省を促す言葉があります。碁打ちは時の経過を忘れがちで、囲碁愛好者なら誰でも身に覚えがあることです。今は、時計を使って「長考」を止めさせる工夫をしています。アマの3対局は一時間以内で終わらせたいものです。「爛」とは腐る、「柯」とは斧の柄のことです。

—–【爛柯】——–
【爛柯】とは、囲碁に没頭してしまい時間の経過を忘れるという用語です。中国南朝の梁王朝時代に作られた「述異記」というに載っている物語からの話です。「述異記」は、梁王朝の任昉が撰したとされる山川等地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた小説といわれます。

あるとき、王質という木こりが洞窟の中で、童子たちが集まって、碁を打ちながら歌をうたっているのを見つけます。木こりがその歌に聴き入っていると、子どもたちはナツメの種のようなものをくれます。それを食べた後は、飢えをまったく感じません。しばらくたって、ふと「斧の柯を視みれば、爛尽す(手に持った斧の柄を見てみると、腐ってぼろぼろになっていた)」。びっくりして自分の村に戻ってみると、何十年かが過ぎ去っていて、知り合いはすべて亡くなっていたということです。こうした時間の喪失感というテーマは、浦島太郎でも使われています。

囲碁にまつわる言葉 その25 【方円】

「水は方円の器に従う」という諺があります。水は容器の形によってどんな形にでもなります。器とは、環境とか周囲の状況のことで、水は人を指し、人は交友や環境次第で善にも悪にも感化されるという喩えです。

—–【方円】——–

百舌鳥耳原中陵(仁徳天皇陵)


[方円]という用語は本来は、古代中国で世界観を示す言葉だったといわれます。我が国でも各地に古墳時代の天皇の墓である「前方後円墳」があり、世界観上での調和を表す形とされてきました。正方形の碁盤と円形の碁石から囲碁の別称にも用いられるようになります。四角い盤上で丸い碁石で戦うゲームを「方円」と洒落たわけです。世界観といえば宇宙流という武宮正樹九段が愛用した布石があります。あまり地にこだわらず厚く打ち、攻めを重視し中央を目指す戦術です。

囲碁にまつわる言葉 その24 【烏鷺】

平成21年の碁楽連だより209号に、同会員の三浦隆郎氏が「囲碁の別称」という随筆を投稿しています。「囲碁」の別称はいくつかあります。「烏鷺(うろ)」、「手談(しゅだん)」「方円(ほうえん)」「坐隠(ざいん)」といった言葉です。囲碁をして、故事来歴や伝説に由来するものから形(デザイン)をあらわすものを指します。

2012年に白泉社から発行された囲碁漫画「星空のカラス」全8巻に囲碁が大好きな13歳の少女、烏丸和歌が登場します。プロ棋士だった祖父から碁を教わり、年齢も性別も関係なく人とつながれる碁の楽しさを知ります。そんなある日、若手天才棋士の鷺坂総司に出会います。鷺坂の全身を傾ける対局に感銘を受けた和歌は、自分もプロ棋士になることを決意します。2人の主人公の名前は囲碁を意味する「烏鷺」から由来しています。

天才棋士の鷺坂総司

—–【烏鷺】——–
烏鷺(うろ)とは、囲碁の別称で、黒石と白石を烏と鷺に例えたものです。碁の対局は「烏鷺の争い」ともいわれます。「烏鷺」とは、「カラス」と「サギ」のことです。カラスは黒色を象徴し、サギは白色を象徴する鳥なので、「烏鷺」という言葉に用いられています。「烏鷺の争い」は「囲碁で勝負をすること」という意味の諺です。「烏鷺」は、単に「黒色と白色」を表す言葉としても用いられます。

囲碁にまつわる言葉 その23 【武士道】

碁老連初代会長の熊崎正一氏は、囲碁の位置づけに関して「国の認識を”ゲーム、娯楽”から”伝統的文化”へと修正させよう」と奮闘されます。囲碁は他の娯楽と違って武士道に通じており、その普及は道徳の普及でもあるという主張です。1899年にニューヨークで英文の「Bushido:The Soul of Japan」が出版されます。原題は『武士道』といい、新渡戸稲造が武士道を論じた書物です。西洋の騎士道に対比させ、武士道を西洋の騎士道にも匹敵する高潔な精神と主張しています。

佐賀藩鍋島家の家臣・山本常朝が口述した『葉隠』には、「武士道とは死の教えである」とあります。死の強要ではなく、死の覚悟を不断に持することによって、生死を超えた「自由」の境地に到達する精神というように解釈されています。さらに「奉公の至極の忠節は、主に諫言して国家を治むること」ともあります。主君が誤った方向に進んでいるならば、主君を諫めることが大事だというのです。藩主に仕える者の心構えのことです。これはかなり思い切った主張といえそうです。

新渡戸稲造夫妻

—–【武士道】——–
囲碁は昔から武士の間で嗜まれ、強い人を集めて城で碁を打っていたようです。平時にはたっぷりと時間があったからでしょう。武士は美徳を大事にし、行動の道徳性が尊敬されていました。「敵に塩を送る」という逸話ですが、敵の弱みにつけこまないで、逆にその苦境から救うことも武士道の例といえましょう。

もともと囲碁は、伝統的文化として定着したはずですが、武士道とか道徳という精神性は、戦後の改革によって「娯楽」に追いやられます。そのことは、総務省が発行しているの「日本標準産業分類」をみると理解できます。この分類の大項目に「娯楽業」があり、その下部に「遊技場」という中項目があり、その中に、ビリヤード、マージャンクラブ、パチンコホール、ゲームセンターに交じって「囲碁・将棋所」が配置されています。

囲碁にまつわる言葉 その22 【長考】

碁の大会では時計を使い、大会を円滑に進めようとします。時計のお陰で高段者同士でも一局一時間くらいで終わります。長考するのは次のような状態の時です。
1. 局面で次の一手がわからない時
2. 次の一手でそのあとの展開が全く異なるため迷っている時
3. 有利になりそうになり、読み切ろうとしている時
4. 不利を意識し対応に苦慮している時

1の場合は、良い手を打つのはあまり期待できません。2~4も同様で、着手そのものは平凡なことになりがちです。素晴らしい手は、割合短時間で瞬間的に閃く傾向にあります。棋士は、素晴らしい手を見つけようとして長考するとはいえないようです。

—–【長考】——–
最善手を模索するためにできるだけ多くの選択肢を考慮する様です。「長考に耽る」「長考に沈む」などの姿です。思考型のゲームにおいては、ゲームの目的に適った行為です。トランプや麻雀ではこのようなことはありません。「長考」とは「読み」とも呼ばれ、何手や何十手先の着手を考える行為です。どのような選択肢によって、どのような結果になるかを考える行為です。名人による長考がときに伝説となることがあります。

他方、「長考に耽る」のは、事前に相手の出方を予想できていなかったためともいえる姿ともいえます。「長考」は実際には、迷いに費やす時間のほうが圧倒的に多いのです。この場合は、「長考」は窮余の策に過ぎず、けっして胸を張れる行為ではありません。慣用句に「下手の考え、休むに似たり」と揶揄する言い方もあります。時間を浪費するだけで、なんの効果もないく、相手が考え続けることあざける言い方です。

囲碁にまつわる言葉 その21 【駄目】

今回は【駄目】の考証です。その前に【駄】という漢字についてです。広辞苑によりますと、「乗馬にならぬよくない馬」など、「名詞に冠して粗悪の意をあらわす」とあります。子どもの持つ小銭程度で買える菓子が駄菓子、質の低い馬が駄馬、出来の良くない作品は駄作、洒落にならないような表現は駄洒落など、不出来というのが共通点のようです。

—–【駄目】——–

駄目な箇所


「価値がない」の意の「ダメ」は、囲碁用語から転じたものといわれます。漢字では「駄目」囲碁で、多くの場合、カタカナ表記を使います。「ダメ」は石の周囲または相手の地との境界にあって、双方の地に属さない空点で、ここに石を打っても地は増えません。終局後、相手と交互に石を埋めあいます。地になりそうにない実質のない着点を「ダメ場」と呼びます。

「ダメ」はその他に、不可能なこと、何の役にも立たないこと、してはいけないこと、等の意味があります。「駄目を出す」は、注文を出すとか、仕事のやり直しを命じることです。「駄目を押す」は、くどくどと念を押すことです。

囲碁にまつわる言葉 その20 【純碁】

碁もいろいろな楽しみ方があります。九路盤、十三路盤、そして正式な十九路盤での対局です。そして、純碁という碁の楽しみです。純碁はなんと盤面に置かれた石の数で勝敗を決めます。眼の数ではありません。ただし基本ルールは囲碁と同じです。石が取られないように着手禁止点を2つ残しておく必要があります。離れた所に眼を二つ作ることです。

—–【純碁】——–

純碁の終局図


純碁とは、石埋め碁とも呼ばれ、囲碁の入門用としてプロ棋士の王銘琬が提唱し囲碁のルールを母体としたゲームです。囲碁のゲーム性を保ったままルールを簡明化したものであり、これから囲碁を覚えようとする者がより理解しやすいものとなっています。最初のぶつかり合いが、勝敗を決めます。最終的に、二眼を作ることが肝要です。陣地の境界を自分に有利になるように決めます。

純碁のルール
基本的なルールは通常の囲碁に準じますが、次に挙げるような違いがあります。
石の数を競う
通常の囲碁では、それぞれ地の大きさからアゲハマを引いた目数を比較して勝負を決めますが、純碁では、最終的に盤上に置かれている石の数だけを比べます。盤上の石が置かれていない空所や、アゲハマの数は勝負の判定材料にはなりません。
地の概念がない
終局時、盤上の空所は勝負に直接関係しません。そのため通常の囲碁とは異なり地をいくら囲っていてもそれだけでは点数にはなりません。点数にするためには、通常の囲碁で言う自分の地を埋めていく作業をします。
死活の判定がない
死んでいる相手の石は、終局前に明示的に打ち上げます。終局時に盤上に残っている石は、どのような形であれ点数に数えられます。純碁の勝負の結果は、大抵の場合、通常の囲碁に切り賃のルールをつけた場合の結果とほぼ一致する。

囲碁にまつわる言葉 その19 【碁所】

現在、八王子に数カ所の碁会所があります。2000年代ごろからはネット碁の普及が進み、碁会所に行かず対局相手を探すことが容易になりました。碁会所にとっては厳しいライバルとなっています。店主は席亭と呼ばれ、来客者の棋力の認定とマッチメイキングが主たる仕事です。2010年ごろには「囲碁ガール」という言葉も生まれ、女性向きの雰囲気の碁会所や、囲碁喫茶・囲碁カフェなどもできてきました。多様な碁会所の在り方が模索されています。2008年には、フリーペーパー「碁的」という囲碁ガールのための無料の雑誌が刊行されます。囲碁のお堅いイメージを避け、「囲碁メン 恋の徹底攻略」「碁クササイズ」といった女性ファッション誌のような内容となっています。

—–【碁所】——–
碁所(ごどころ)のいわれは、1588年に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことに始まるといわれます。役職となって碁打が召し抱えられるのです。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、江戸幕府でも役職の一つとされて、寺社奉行の管轄下で、その職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄などといわれました。1668年に幕府により安井算知を碁所に任命したのが始まりといわれます。各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあったようです。

本因坊記念館

碁所の定員は1名で50石20人扶持をもらっていました。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていることでした。各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開します。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られています。

日本の政治家の中にも碁を好んでいる人がいます。民主党代表の小沢一郎とか、亡くなりましたが自民党の与謝野馨が有名です。二人は長年の碁敵で対局はしばしば行われたようで、対局直後に自民党と民主党の大連立構想が持ち上がったといわれます。2011年の菅第二次改造内閣では与謝野は、内閣府特命担当大臣〔経済財政政策、少子化対策、男女共同参画〕に就任します。野党議員と碁を打って対立色をほどき、互いに無理をのみ合うことがよくあったようです。

囲碁にまつわる言葉 その18 【御城碁】

「ボケ防止のための啓発囲碁大会」は後に「活きいき囲碁大会」に改名されます。ボケ防止大会は4月より毎週のように、寿同好会の持ち回りで開かれます。さぞかし、参加申し込みの受付や対戦組み合わせなどで忙しかったろうと察します。それ以上に大会会場に碁盤や碁石を運ぶ手間も大変だったはずです。八王子市、八王子教育委員会、日本棋院の他に、町会総連合会、住民協議会などの後援を得て大会を開いています。この後援を得る努力にも敬服します。

京都、寂光寺

—–【御城碁】——–
江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局が「碁城碁」です。寛永3年とありますから1626年頃に始まり、毎年1回、2、3局が打たれ、1864年に中止となるまでの230年余りに渡って続いた御前対局です。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとって最も真剣な対局でありました。また碁によって禄を受けている本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露することの意味もあり、寺社奉行の呼び出しによる形式で行われたようです。実際に将軍が必ず観戦したかどうかは分かりませんが、老中などが列席したこともあったようです。

御城碁は数日に及び、対局者は外出を禁じられました。外出によって仲間による対局の検討がなされるのを避けるためです。その後「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉が生まれたといわれます。徳川家康も碁を好み、文禄から慶長にかけて京都や周辺の碁打ちや将棋指しをしばしば招くようになったようです。また時に御所である禁裏に出掛けることもあったという記録があります。

日海–本因坊算砂

本因坊秀策は「碁聖」の名でも知られていますが、「碁聖」と呼ばれる棋士がもう一人います。第四世本因坊道策がその人です。段位制やを整え、優秀な弟子を数多く育てるなど、元禄時代の囲碁の興隆を支えたといわれます。

囲碁にまつわる言葉 その17 【寝浜】

八王子が輩出したアマチュア棋士の三浦浩氏は、日本アマチュア本因坊決定戦全国大会で最初の優勝を果たします。昭和46年の17回大会でした。この大会の特徴は選手の年齢が大幅に若くなったことで、前回の16回大会では37.5歳、17回大会は30.8歳というそれまでにない若々しい大会だったといわれます。24歳という少壮気鋭の三浦氏が初出場で初優勝という栄冠を獲得します。そして、平成11年の第45回同アマ本因坊決定戦で5度目の優勝を飾ったとき、25歳の対戦相手をして「昔の自分を見るようでした、若さの勢いを感じました」と対局を振り返っています。五強といわれた村上文祥、平田博則、菊池康郎さんらを破っての優勝です。

—–【寝浜】——–
戦国武将が碁を好んだことは知られています。武田信玄は大の囲碁好きだった記録があります。信玄の配下には優れた武将が多かったことで知られています。武田四天王の一人高坂晶信、またの名を弾正も碁に強かったようです。『囲碁百科辞典』の囲碁年表に、「長遠寺に於いて、武田信玄、高坂弾正と対局す」とあります。高坂昌信は、しばしば信玄の相手をしたようです。その棋譜が残っています。

信玄の死により家督を相続したのが武田勝頼です。勝頼は、強硬策を貫き領国拡大方針を継承しますが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退します。その戦では、騎馬隊という特殊な兵力を持つ武田軍を信長の鉄砲隊という新たな兵力で打ち破ったといわれます。鉄砲隊が騎馬隊に勝ったとする図式をして、勝頼は、「碁に寝浜(ねばま)をして勝ちたるに同じ」と慨嘆したというのです。
 
「寝浜」とは、囲碁で打ち始める前に、相手の石を隠し持って、作り碁の時に出す悪質な行為を指します。信長の鉄砲隊を「寝浜」であると揶揄するのですが、負けは負けです。「甲陽軍鑑」という信玄と勝頼の2代にわたる武士道、治績,合戦,戦術,刑法等が記された書籍があります。高坂弾正昌信の遺記を基に、後の人々が編纂したらしいです。この中に「寝浜」がでてくるようです。