「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

ThisIsMyWay z653042