懐かしのキネマ その76 【ブレイブハート】

原題は【Braveheart】というアメリカ映画です。スコットランド(Scotland) の独立のために戦った実在の人物ウィリアム・ウォレス(William Wallace) の生涯を描いた歴史映画です。スコットランドは現在はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland:UK)に属しますが、1707年まではスコットランド王国として存続しました。UKの通称はイギリスとか英国と呼ばれます。

13世紀末、イングランド王(England)エドワード1世(EdwardI) の過酷なスコットランド支配に対して、ウィリアム・ウォレスは、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行います。家族を殺害されるも、難を逃れたウォレスは、成人して彼は故郷に戻り、そこで幼なじみのミューロン(Murron)と恋に落ち、結婚します。しかし彼女はイングランド兵の手によって殺害されます。ウォレスは復讐を決意し、圧政に苦しむスコットランドの民衆の支持によって、抵抗運動は高まっていきます。

1297年のスターリング・ブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)でウォレスらは、イングランド軍に勝利をおさめます。ウォレス率いる反乱軍は連勝を重ね、逆にイングランド領のヨーク(York) を占領します。エドワード1世は講和しようと息子の妻イザベル( Isabelle) をウォレスの元に送ります。彼女はウォレスに魅了され、イングランドへの侵攻を止めるように進言します。しかし、ウォレスは独立の好機ととらえ、スコットランドの王位継承者と目されるロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce) をはじめとする貴族層にも蜂起を促します。ですが、権益を保持したい貴族たちは土壇場でウォレスを裏切り、1298年のフォルカークの戦い(Battle of Falkirk) でイングランド軍に大敗を喫します

その後も辛くも生き延びたウォレスは行方を眩まし、各地でゲリラ戦を展開し、エドワードの支配への抵抗運動を継続しますが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となります。ロンドンで行われた公開処刑では慈悲を乞うことを拒否し、【祖国の自由を】と叫びながらウォレスは息絶えます。ブルースに率いられたスコットランドの勇士たちは果敢に戦い、バノックバーンでの戦い(Battle of Bannockburn)でイングランド軍を破り自由を勝ちとるのです。

北海道とスコットランド その24  スコットランド、イングランド、日本

朝ドラ「マッサン」はまだまだ続くが、この「北海道とスコットランド」シリーズはこの稿で終わりとする。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランドとにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルターと宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。

東大出版会の「日英交流史」は興味深い本である。幕末から維新、その後の日本の歴史において国家や社会の形成に最も影響を与えたのはイギリスだ、という主題で貫かれている。弱小国日本はイギリスとの交流なしに帝国海軍の近代化もあり得なかったし、日露戦争も戦えなかったほどである。その後の日本の国際社会への進出もなかったはずである。

▼司馬遼太郎は「坂の上の雲」で次のように書いている。
「まことに小さき国が開化期を迎えようとしている」
「勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を迎える作戦をたて、これを実施して撃破した」

イギリスは立憲君主制をしき、日本も天皇を頂点としながらも議院内閣制といった統治機構を有していた。日本は昭和の半ばまで議会選挙によって、まがりなりにも政党政治が行われていた。

イギリスはアフリカや中東、アジアに進出し、植民地を拡大していく。同時にインドへのロシアの進出を恐れていた。ロシアは清国政府を応援し、イギリスのアジアでの力を削ごうとしてきた。阿片商いの主導権争いでもあった。こうしてイギリスは長年ロシアと確執を続けてきた。日本もこうしたイギリスの動向から、その外交戦略を学んでいった。後の朝鮮や中国やインドシナへの進出もイギリス流の植民地主義の表れであろう。1902年の日英同盟はその結果といえるほどイギリスへの依存は高まる。

1921年には日英米仏の四カ国条約により日英同盟が廃止される。同年、皇太子裕仁親王のイギリスは訪問、続いて皇太子エドワードの訪日となる。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれ、その結果を巡り海軍内部の対立と統帥権干犯問題が起きる。1937年の盧溝橋事件とともに日中戦争が激化し日本とイギリス、アメリカとの対立が決定的になる。イギリスとの不幸な時代が1945年まで続く。太平洋戦争の敗北は、単なる外交の失敗だけではないだろう。歴史や文化を学ぶことが欠けていたのではないか、科学技術の違いを認識できていなかったのではないかとも思うのである。

時代を経て1980年代には、首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の政策である「小さな政府」による電話、ガス、空港、航空、水道等の国有企業の民営化や規制緩和などの大胆な改革が日本に影響を与えた。そうした政策から我が国でも国鉄、通信、専売の3事業の民営化が断行される。

イギリスと日本にはいろいろな共通点がある。地理的な特徴だけでなく、行動面での特徴、たとえばマナーの重視、感情表現のつつましやかさなどである。科学技術への取り組みにも熱心である。日本人は幾多のスコットランド人医師、技術者、宣教師、教育者によって薫陶を受け国を発展させてきた。これからも両国の人々の交流が続くことを期待したい。

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北海道とスコットランド その23  スコットランド宗教改革の先駆者パトリック・ハミルトンとジョン・ノックス

「岩波キリスト教辞典」によるとスコットランドの宗教改革はパトリック・ハミルトン(Patrick Hamilton)を始めとして、本格的な宗教改革が進められたとある。しかし、ハミルトンは異端視されて処刑される。後にジョージ・ウィシャート(George Wishart)も宗教改革を実践し、カルヴァン(Jean Calvin)とフルドック・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)の信仰をスコットランドに広めたが、彼もハミルトン同様に1546年に処刑される。

既に述べてきたが、ウィシャートの弟子であったジョン・ノックス(John Knox)らにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められた。ノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとした。スコットランド信条(Scottish Confession)は1560年にスコットランド全議会に提案され、神の誤りない御言葉に基づく教理として全議会の公開の投票によって批准される。この結果、カトリックのミサは非合法化され、改革派の教会が建ち上げられた。

スコットランド信条は、使徒信条(Apostles’ Creed)の構成順に25条からなる。使徒信条とは、信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによる。プロテスタント教会では、この信条は三位一体の信仰を強調しており、礼拝において唱えられている。

ドイツから始まりやがてヨーロッパ全体にひろがった宗教改革という運動は、カトリック教会の「堕落」に対する改革という側面がある。と同時に、ローマカトリック教会の呪縛や支配から訣別し、信徒の立場から聖書に基づく信仰を確立しようとしたノックスらの考え方と、それに共鳴した者たちによって新たな教会を設立しようとする運動でもあった。

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      Patrick Hamilton

北海道とスコットランド その22  宗教改革の聖書的根拠

前回、ルターが主張した信仰義認、すなわち人が救われるのは、その人の功徳でも免罪符でもなく信仰であり、その信仰の基盤は聖書にあるということに触れた。スコットランドの長老派教会もそれを受け継ぎ、現在の教会制度を維持している。

さて、この信仰義認はなかなか手強い思想である。それは、人は思いと言葉と行いとによって存在するものであり、自由な意志を授かっているからである。だが、生まれながらにしてその意志は薄弱なのである。なんとかして善行をして義とされたい、罪をおかさないようにしたい。こうした葛藤を抱え続けながら生きなければならない。

ルターは聖職者として、また神学者として同じような精神の苦しみ経てきた。それは、自分がいかなる行為によってこうした状態を克服できるかを模索する苦しみであったようである。しかし、彼はそうした葛藤が己の行為によって解決できるということをいわば諦めるのである。そして、罪深い人間の救いが聖書の教えのなかにあることにたどり着く。こうした結論を次のような聖書の解釈から導くのである。

第一は、エペソ人への手紙(Letter to the Ephesians)2章8節-9節である。そこには次のようにある。
▼「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。」

第二は、ローマ人への手紙(Letter to the Romans)1章17節である。
▼「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

人間は善行でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、徹底的に聖書の教えの原点にかえることを説くのである。

このような信条はローマカトリック教会からは、教会の権威を失墜させるまやかしの神学であると断定され、ルターは異端者として破門される。そして1521年にヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)にルターが召喚され尋問が始まる。

尋問の場面について、Wikipediaには次のようにある。「ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは自説の撤回を拒絶する。”聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。自分は聖書に則る。それ以上のことはできない。神よ、助け給え”(“Here I stand. I can do no other.”)」

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北海道とスコットランド その21  宗教改革とマルチン・ルター

ルターは、罪の赦しが教会の権威によってなされること、そのために免罪符を買い求めることで救われるということに大いなる疑義を呈する。ルターはそれを質問状としてヴィッテンベルク(Wittenberg)城教会門に貼ったのが「95か条の論題(意見書)(The Ninety-Five Theses)」である。1517年のことである。これが宗教改革の発端とされている。この意見書とはカトリック教会への連判状のことであった。

免罪符を求めることによって罪は果たしてあがなわれるのか? ルターはそれに対して、人が救われるのは、その人の功徳でも業でも免罪符でもなく信仰によるのだ、と主張する。少し難しい言葉ではあるが、信仰義認(Justification by faith)である。そして信仰の基礎は聖書にあると説くのである。ローマカトリック教会は教皇を頂点とし、選ばれた司祭によって組織されていた。それに対してルターは、教会制度とは万人が司祭である共同体であるべきだ、という革命的な提言をするのである。

ルターは、いかなる信仰の問題に関して疑問を投げかけたかである。それは一言でいえば人間の罪からの救いはいかにして可能であるかということである。それには次の五つの信条にのみ(solas)あると主張する。▼第一は、「聖書によってのみ、 Sola Scriptura (by Scripture only)」、▼次に「恩寵によってのみ、Sola gratia(by grace only)」、▼さらに「信仰によってのみ、Sola fide(by faith only)」、▼「キリストによってのみ。 Solus Christus(by Christ only)」、▼そして最後に「神の栄光によってのみ、 Soli Deo gloria(by God glory only)」という宣言であった。このように、教会の権威や威光ではなく、徹底的に聖書の教えという原点に立ち返ることをルターは主張したのである。

カトリック教会は長い伝統と権威を有する教会であるが故に、こうしたルターの提言は異端であると断罪し弾圧を加え、血なまぐさい宗教闘争が始まるのである。

138267896807925369225_4496-131004-042  神はわが櫓Martin-Luther-Here-I-Stand マルチン・ルター

北海道とスコットランド その19 スコットランド人の宗教 その2 John KnoxとJames Hepburn

スコットランド信条では、信徒や会衆がキリストの教えを伝える使命があるとし、誰もがあまねく祭司であるという立場をとる。万人祭司ということである。そこから会衆から選ばれたもの、長老による合議によって教会を運営する教会制度を取り入れるのである。こうした教会制度の理論的な指導者が前稿で紹介したノックス(John Knox)であった。

スコットランド信条であるが、神学的にはカルヴァン主義であるといわれる。Wikipediaでは、「すべての上にある神の主権を強調し、それに依ってキリスト者は実践する」とある。カルヴァン主義とはローマカトリック教会を改革し、新しい教会を樹立するという神学である。改革派教会とか長老派教会の思想的基盤である。カルヴァンは「聖書のみ」ということを強調したのに対し、ルターは「信仰のみ」ということを強調した。だが、互いに相反する教義ではなく聖書解釈の違いであり、二人の宗教改革の精神は共通していた。

やがて日本に最初の長老派の教会ができる。1877年に横浜に設立された日本基督一致教会である。その後、伝道者であり神学者であった植村正久が指導者として教会を発展させていく。米国長老派教会系医療伝道宣教師で医師であったジェームス・ヘップバーン(James Hepburn)も教会の発展に大きな貢献をする。ヘップバーンの祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)である。しかし、ヘップバーンは日本人向けに「ヘボン」という名前を使った。そのために日本ではヘボンが広く知られている。ヘボンは英学塾「ヘボン塾」をつくり、それが明治学院大学へと発展していく。横浜のフェリス女学院大学もヘボン夫人が開いた家塾から始まった。興味深いことに、ヘボン式ローマ字の創始者としても知られている。

医師でもあったヘボンは横浜で医療活動を行った。横浜近代医療の歴史はこの活動に始まる。その功績を残すために、横浜市金沢区にある市立大学医学科講義棟の多目的ホールは、ヘボンホールと名付けられている。
James_Curtis_Hepburn James Hepburn romaji01 ヘボン式ローマ字john-knox  John Knox

北海道とスコットランド その18 スコットランド人の宗教 その1 長老派教会と宗教改革

仏教にいろいろな派があるように、キリスト教にもさまざまな教派(synod)がある。教派とは集まり(assembly)とか集会(meeting)という意味である。誰が教義をどこで広く宣布したかによっていくつもの組織ができた。そのため教派によって教義や強調点が違う。ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会、聖公会など微妙に教義や典礼が違う。

スコットランドの教会は伝統的に長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会は新教の一つ、カトリックと相対する一派である。聖職者と信徒の代表である長老とが共同で教会を運営する仕組みである。長老は会衆によって選ばれた教会役員といってもよい。この制度は、各教区や各地の教会の代表が地域ごと、地方ごと、そして国全体で集まりその合議によって自律的に教会を運営していくというものである。長老とは年寄りのことではない。

本日10月31日は宗教改革記念日といわれる。神学者でもない自分だが、学んできた宗教改革の歴史を語ると長くなる。要は、それまで長い間、世界の政治と宗教を支配していたローマカトリック教会やローマ教皇が伝統的に保持してきた神学に異議を唱え、そこから新しい教会運動が起こった日である。その中心はマルチン・ルター(Martin Luther)であり、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)である。スコットランド人の信仰はこの宗教改革に依るところ大きい。

スコットランドの宗教改革に最も貢献したのはジョン・ノックス(John Knox)といわれる。1560年にスコットランド議会は、それまでのカトリック教会とそれを支える法を無効とし、カルヴァン主義(Calvinism)を基調とする信仰告白であるスコットランド信条(Scottish Confession)を採択した。スコットランドの信仰告白とは、キリストが唯一の教会の頭であり、「信仰義認」、そして万人祭司というものである。善行によって神は人を義とするというのではなく、信仰によってのみ人は義とされるというのが信仰義認である。

Luther Martin Luther

john-calvin  Jean Cavin

北海道とスコットランド その17 Intermission NO.3

日本人にはそれぞれ外国との相性というものがあるのではないか。相性とは憧れのようなものである。その憧れに強調されるのは、徹底した個人主義とか文化や伝統の深さとか、人々の考えの奥行き、さらに自然の素朴さであったりする。

カリフォルニアやニューヨークの自由さや競争の厳しさに共感する者もいる。ノーベル賞受賞者で青色発光ダイオードLEDの実用化に成功した教授がそうである。彼にはカリフォルニアの風土との相性が良かったのだろうと察する。

北欧の白夜やフィヨルド、ドイツの森に魅了される人、アフリカの朝の美しさ、アラブ人の義理堅さを指摘する人、韓国人の道徳への志向性にうなずく人、ロシアは好きではないが、ロシア人の底抜けの親切さや懐の深さに感じ入る人もいる。その他、理由はないが、なぜか相性が合う、波長が合うというかウマが合うこともある。こうしてみると人と国との間にも相性のようなものが確かにあるのは間違いない。

日本人がスコットランドに惹かれる理由っていろいろある。それは相性に近いものではないか。ある人にはタータン(tartan)やキルト(kilt)であったり、スコットランドのスピリットと呼ばれるウイスキーであったり、ゴルフでいえばセント・アンドルーズ(St. Andrews)であったり、小説であればウォルター・スコット(Walter Scott)の「アイヴァンホー(Ivanhoe)」、さらに詩であればロバート・バーンズ(Robert Burns) の「故郷の空」や「蛍の光」の歌詞や旋律であるかもしれない。

いろいろな資料、特に文化事典やキリスト教事典をとおしてスコットランドのことを調べている。だが、確かな洞察を得るには誠に不十分であることを認めざるをえない。また、短時間の旅から旅による経験でも、洞察にいたるには極めて足りない。本来なら定住して定点観測しなければものにならない。腰を落ち着ければおのずと周りの良さや醜さ、その背景やからくりがわかってくる。「スコットランドとはかくかくしかじか、、」などと託宣するのは実に危ういことだと気をつけている。文化を知るには時間をかけること、人との付き合いが大事であることを努々忘れてはならないとも思っている。

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北海道とスコットランド その16  なぜスコットランド人が日本へ来たのか その3

イギリスの日本への関わりの続きである。日英同盟の締結は日本が世界の舞台に登場するきっかけとなった事件であった。それに先だつ激動の足跡を調べてみる。

1862年にはイギリス書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)が来日する。彼の日本滞在は通詞としての1862年から1883年と駐日公使としての1895年から1900年に及ぶ。外交官としてその活躍は明治政府からも一目置かれたといわれる。

1862年に薩摩藩士によりイギリス人が殺害される横浜鶴見での生麦事件が起きる。イギリス公使代理のエドワード・ニール(Edward Neale)は、幕府との賠償や処罰などの交渉にあたる。1863年には井上聞多、伊藤俊輔、後の井上馨、伊藤博文など長州藩士5名が藩命としてイギリスへ留学する。サトウはグラバーらと共にそうした橋渡しもする。1863年には薩英戦争が起きる。この戦争の終結により英国が薩摩藩に接近することになる。

続いて1864年に下関戦争が勃発する。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠する。そして1868年の明治維新である。その年、明治新政府軍と旧幕府軍とで戊辰戦争が起きる。いわば日本の内戦である。そのとき、イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は戊辰戦争で中立を装いながら、実質的に明治新政府を支援する。パークスは幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務める。

その間、1872年には岩倉使節団によるアメリカやイギリス訪問がある。この一行はイギリスには4か月滞在したという。この使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして後年津田塾大学を作った津田梅子らも加わる。

日本はさらにイギリスとの関係の強化につとめる。そこには両国には共通の懸念、ロシアの拡張主義政策があった。この懸念が両国を結びつけていく。1902年に日英同盟ができる。1904年には日露戦争が勃発する。このとき戦費の調達のためにイギリスの銀行などが日本国債を購入するなど、日本はイギリスから支援を受けることとなった。1911年には日英通商航海条約の改正がなされ、条約上の不平等が解消される。さらに1914年には日英同盟に基づき、日本も第一次大戦に参加し、巡洋艦を地中海に派遣する。その年、ドイツの租借地であった清の青島をイギリス軍とともに占領する。

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    Ernest Satow          津田梅子

北海道とスコットランド その15 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その2

今でも、日本からみるとスコットランドとかアイルランドは地の果てにあると思える。昔スコットランド人らも「日本に行かないか」と誘われたとすると、日本というところはどこにあるのか、辺境なところでないかと思ったに違いない。

幕末から明治維新の前後は、イギリス人の外交官の活躍が光る。維新政府との良好な関係を発展させるために、こうした外交官の働きはめざましいものがある。それらは初代イギリス駐日総領事ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)、書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)、公使ハリー・パークス(Harry Parkes)、公使代理エドワード・ニール(Edward Neale)である。オルコックは軍医でもあった。

こうした外交官らの尽力によって幕末の志士がイギリスに渡り、当時のイギリスの発展ぶりや科学技術、軍隊組織、イギリス憲法、王室制度などを学んで帰国する。イギリスの制度を取り入れたことの一つは、1870年に兵制改革により大日本帝国海軍が成立し、イギリス海軍を模範とした組織整備を進めたことである。イギリス海軍顧問団団長として来日したアーチボルド・ダグラス(Archibald  Douglas)は日本の海軍兵学校教育の基礎を築いた。日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍備拡張政策を進める。1902年に戦艦三笠がイギリスで造られたのもイギリス海軍の影響である。明治政府の近代化政策とイギリス外交が折り合い、イギリスの先端技術を取り入れることによって明治政府は殖産興業に拍車がかかったといえる。

こうした外交を仲介したのが日本に滞在していたイギリスの政商とか実業家である。その中で最も活躍したのがトーマス・グラバーであることは既に述べてきた。もう一人、イギリスとの関係の樹立に貢献した人物にスコットランド人のアレキザンダー・シャンド(Alexander Shand)がいる。22歳の若さで当時、Chartered Mercantile of India, London & Chinaという貿易会社の一員として1866年に横浜にやってくる。維新政府は1872年に国立銀行条例をつくり、国立銀行の設置が決まる。シャンドはやがて大蔵太輔であった井上馨と雇用契約を結び、大蔵省紙幣頭付書記官になる。岩倉使節団に加わった木戸孝允と知遇を得たりする。

シャンドは帰国後、シティにあるアライアンス銀行(Bank of Alliance)やパース銀行(Bank of Perth)の支配人となる。彼は日本からの訪問客や留学生を手厚く世話したといわれる。日露戦争中は、日銀副総裁だった高橋是清のロンドンでの起債を仲介し、イギリスの銀行による国債引き受けなど、戦費調達の成功に導く。忘れてはならないスコットランド人の一人だと思うのである。

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                      Alexander Shand

北海道とスコットランド その14 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その1

今回は、スコットランド人が何故日本にやってきたかである。決して偶然のでき事ではなく、そこには理由があるはずである。地味に恵まれているとはいえない耕作地、少ない人口、樹木が育ちにくい丘陵、、そうした風土から多くの冒険家や科学者、冒険家、経済学者が生まれた。そして海外へと渡っていく。だがスコットランドからすれば日本は辺境の地、辺鄙な地であったろうと察する。

スコットランド人は宗教や教育に熱心であった。宗教であるが、スコットランドは伝統的に新教の長老派教会(Presbyterian Church)である。上からの押しつけを嫌い、男女の違いを超えて自分たちで指導者を選ぶいわば草の根的な教会制度である。国王や女王が教会を支配する国教会のイングランドとは大きく異なる。そのため両者の間でたびたび宗教戦争が起こった。

アメリカやオーストラリア、ニュージーランドには、イングランドに抵抗した政治犯が流罪された祖先を有する者が多いといわれる。幸い行き着いた土地は肥沃で自由に満ちていた。それが伝統的に実学を重視するスコットランド人に海外への雄飛や移民への刺激を与えた。スコットランド人の日本への渡航と活躍は、徳川幕府と明治維新前後の歴史にそれが如実に描かれている。

日本とイギリスの関係は1840年のアヘン戦争に遡る。この戦争でイギリスが清朝に勝利し香港を獲得する。その結果に驚く幕府は、1825年に出していた異国船打払令を撤廃することになる。その後、遭難した船に限り補給を認めるという「文化の薪水給与令」を出す。1854年10月には、日英和親条約が調印される。翌1858年8月には日英修好通商条約が結ばれる。これも不平等条約の典型で、例えば関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な内容となった。この条約により、長崎英語伝習所が設立され英語通訳である通詞が養成される。

1859年7月、初代駐日公使ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)により高輪の東禅寺に英国公使館が開設される。その年、ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)の代理人としてスコットランド人のトーマス・グラバー(Thomas Glover)が長崎へ来日し、その後幕末や明治政府と財界とに深く関わることになる。

pccross  Presbyterial Emblemtozenji  東禅寺

北海道とスコットランド その13  スコットランド人と「炎のランナー」

1924年のパリ・オリンピックの陸上競技での出場を目指す二人の青年を描いた映画「炎のランナー」を観た読者も多いだろう。主人公は、実在のスコットランド人である。原題は「Chariots of Fire」で1981年に製作された。

その一人は、スコットランド人で聖職者を目指し、神の教えを伝えようとする青年である。彼の名はエリック・リデル(Eric Liddell)。もう一人はユダヤ人青年で弁護士を志望しているハロルド・エブラハムス(Harald Abrahams)。二人とも俊足をかわれ、オリンピックでは短距離走者として出場する。

リデルは、400メートル予選が始まる日曜日が安息日であるという理由で棄権しようとする。他の種目でメダルを獲得した友人が別な予選枠をリデルに譲る。そしてリデルは見事に優勝する。

やがてリデルは選手生活を辞し、宣教師となって中国での布教活動に従事する。丁度日本が日中戦争に突入する頃である。ところが日本軍の捕虜となってしまう。リデルは収容所で会った宣教師の子供に「敵を赦すことの大切さ」を教える。その少年はやがて、かつての敵国、日本に宣教師として赴任する。中国や日本に宣教師団を送ったのは長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会の歴史は宗教改革を絡めて後日取り上げる。

この映画が撮られた場所はスコットランドの海岸や田舎である。全英オープンで有名なセント・アンドルーズ(St. Andrews)やスコットランド最古の大学であるセント・アンドルーズ大学(University of St. Andrews)が登場する。ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)であるウィリアム王子(Prince Williams)とケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)であるキャサリン(Princess Catherine)も卒業した由緒ある大学といわれる。

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北海道とスコットランド その12  「埴生の宿」

このところ朝ドラ「マッサン」ではイギリスの民謡が流れている。その一つ、「埴生の宿」は耳慣れていて郷愁を湛えている。この歌は日本の唱歌で「楽しきわが家」として紹介されている。作曲したのはイングランド出身のヘンリー・ビショップ(Henry R. Bishop)である。

「埴生の宿」の原名は「Home! Sweet Home!」となっている。「埴生の宿」がなぜ唱歌で「楽しきわが家」という訳題がついたのかはわからない。「楽しきわが家」では元の歌詞の意味が伝わってこない。

埴生の宿も わが宿 玉の装い 羨まじ 、、、、

「埴生の宿」とは,床も畳もなく土間が剥き出しのままの家のことである。誠にもって貧しく粗末な家である。日本も農村は素朴な家が残っている。今は古民家と呼ばれるようだが、生活が農業と一体化していて土と共にある姿が浮かぶ。イギリスもそうだったようだ。

古語では,「たのし」にも「たのもし」にも「富んでいる」、という意味があるそうである。生活が貧しく、家が粗末であっても、家族とともにある生活で心は富む、家庭ほど大切な所はないということが歌われる。Sweetとは「甘い」とか「楽しい」ではなく「優しく包み込んでくれる」という意味である。

Home, home, sweet, sweet home,
   There’s no place like home.

「埴生の宿」の旋律を聞く度に思い起こすのが二つの映画の場面だ。一つは『ビルマの竪琴』である。1946年から数年の間、竹山道雄が執筆した作品である。市川崑が監督し1956年に上映された。竪琴を弾く水島上等兵が主人公である。水島を演じたのは安井昌二である。1985年にも同じ映画が作られた。水島を演じたのは中井貴一である。日本人捕虜がビルマからの帰国を前に、「埴生の宿」を歌う。そこに竪琴を持った仏僧が現れ伴奏を弾く。かつての水島上等兵だ。

「埴生の宿」が歌われたもう一つの映画は、壺井栄作の『二十四の瞳』である。木下恵介が監督し1954年に上映された。小学校の大石先生を演じたのは高峰秀子であった。戦争が終わって教え子が集まり、大石先生を囲む同窓会が開かれる。盲目になった生徒が、かつての12人の友達の写真を見つめながら一人ひとりを指さして大石先生に説明する。戦争の爪痕が皆の心に深く残る。

132861245019013205138 ビルマの竪琴twentyfoureyes66sss 二十四の瞳

北海道とスコットランド その11  スコットランド人の活躍は続く その4 エドモンド・モレル

エドモンド・モレル(Edmund Morel)1876年にお雇い外国人として来日。主として官設鉄道工場の監督(Locomotive Superintendent)などを歴任して、1897年まで在勤したスコットランド人である。スコットランド人は伝統的に職を求めて海外に渡った。中世では傭兵として大陸に渡り現地化した。18、19世紀の移民運動の中で学識と技術を有して海外に進出する。モレルもその一人であった。

明治の初頭、イギリスの駐日公使であったハリー・パークス(Harry Parkes)の推薦によって日本にやってきた。そして工部省に雇われる。その働きを評価され技師長である建築師長に任命される。さらに工部卿であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また大蔵卿であった大隈重信とは協議のうえで、日本の鉄道の線路幅を今の狭軌に定めている。

1872年に日本最初の鉄道は新橋と桜木町の間に造られた。枕木はもともと鉄製にする予定であったが、森林資源の豊富な日本の木材を使うことにしたのもモレルである。さすがに線路と機関車はイギリスから輸入した。このように国内の天然資源を活用することによって、産業の育成に貢献することになったといわれる。鉄道関係の技術者の養成にも熱心だったという。

モレルは来日前から結核で苦しんでいたといわれる。最初の鉄道開通記念行事の後、間もなく彼は横浜で亡くなる。中区山手にある外国人墓地内はモレルの墓所となっている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。新橋日比谷口に蒸気機関車が展示されているのもモレルを記念するからである。「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

こうしたスコットランドの技術者から薫陶を受けた弟子らがやがてスコットランドに留学し、世界最新の技術を誇った機械、造船、鉄道、電信、土木などの科学技術を習得し、その後の日本の近代化に貢献していく。

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北海道とスコットランド その10  スコットランド人の活躍は続く その3 ヘンリー・フォールズ

明治政府が外国人を雇い入れた中で多い職業が医師である。西洋医学の採用によって医療技術者を養成しようとしたことは誰もが得心できる。ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)もその一人である。グラスゴー大学(University of Glasgow)で医学を修める。彼は同時に宣教師でもあった。

フォールズはスコットランドから1874年に来日する。彼を送り出したのはスコットランド長老派教会(Scotland Presbyterian Church)である。1875年に楽善会という視覚障害者の訓盲事業団体の設立に加わり、1879年にジョシュア・コンドル(Josiah Conder)が来日後初めて設計した訓盲院を造る。訓盲院はその官立東京盲学校、そして筑波大学附属盲学校へと発展する。

さらに1882年、東京築地に築地病院を開設する。布教とともに医療活動や医学生の養成に当たった。築地病院はその後、聖路加国際病院となる。主としてコレラなどの伝染病の予防や治療に当たったといわれる。

さらに、大森貝塚の発見者であるエドワード・モース(Edward Morse)とともに各地の貝塚の発掘に従事した。そこで、指紋の特徴に気がつきそれが終生変わることのないものであること、指紋によって個人の識別ができることをまとめ、イギリスの科学誌「ネイチャー」に発表する。この研究は警察関係者に特に注目された。その功績を称え1961年に聖路加国際病院の一角に「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」記念碑がつくられた。

指紋の研究と実用的な応用ではイギリスでは多くの論争が続いたようである。だが日本では指紋が犯罪の解明に役立つことを早くから知られ応用されてきた。これもフォールズの貢献といえる。

henryfaulds   Henry Faulds
src_11938480  楽善会

北海道とスコットランド その9  スコットランド人の活躍は続く その2 ジェームズ・マードック

明治政府が最も力を入れたのが人材の養成である。その中心はなんといっても東京帝国大学をはじめ、他の帝国大学の基礎をつくることだったのではないか。

スコットランド生まれのジェームズ・マードック(James Murdoch)第一高等学校(一高)の英語と歴史の教師として迎えられる。一高では1889年から4年間教鞭をとる。

教え子の一人に夏目金之助、後の漱石がいる。漱石は英語が嫌いな学生だったといわれる。だが、マードックを「僕の先生」と呼ぶほどだったという。他の生徒からも敬慕されていたといわれる。漱石は1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学となる)英文科に入学する。

マードックは1894年から1897年まで金沢の第四高等学校で英語を教えた。 1899年には東京に戻り、高等商業学校で、現在の一橋大学で経済史を教えた。その後、鹿児島の第七高等学校に移る。1903年に、「初期における外交関係の日本史ー15421651) 」を刊行する。語学の才に長けたマードックはこの本をラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語に自らが訳している。

1917年に、かねてから滞在していたオーストラリアに戻る。王立軍学校(Royal Military College)やシドニー大学(University of Sydney)で日本語を教える。そして終身雇用の教授となる。オーストラリアは当時、白豪主義(White Australia Policy)を掲げていた。オーストラリアは移住制限法などを日本に課していた。それに対して日本はロンドンとシドニーの在外公館を通じて抗議を行ったほどである。白人至上主義の強硬論が豪政府や議会でも根強かったが、マードックはそうしたオーストラリアの国策に批判的であった。

8c317bd5078c80a9ff64adcb9d067137 白豪主義反対デモasahi010101 多民族社会記事

北海道とスコットランド その8  スコットランド人の活躍は続く その1 トマス・グラバー

長崎にあるグラバー園は第一級の観光地である。なんといっても眺めが良く、建物も非日常的なたたずまいである。その館を建てたトマス・グラバー(Thomas Glover)もまたスコットランド人である。

グラバーは上海にあったスコットランド系の会社ジャディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)で働く。マセソン商会は、上海を拠点にしてアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を得た。それは「アヘン戦争」に深く関わっていた。21歳で来日しやがてマセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」をつくる。

当時、イギリスは世界の貿易をめぐり、フランスとのし烈なライバル関係にあった。徳川幕府を支援していたフランスとの角逐である。「グラバー商会」は、当時船舶、武器弾薬、機械の輸入、さらに茶や貝類、絹織物の輸出で利益をあげていた。亀山社中とも取引があった。製茶工場を造ったり、肥前藩とで高島炭鉱開発に着手するなど商取引を広げていく。薩摩、長州、土佐ら討幕派の雄藩を支援し、日本の近代史の幕開けに貢献する。グラバーは、やがて生麦事件をきっかけに起こった薩英戦争などで悪化した関係修復や強化にも奔走する。

グラバーは商売だけでなく、長州や薩摩の志士を国禁をおかしてイギリスに留学させる。その中に井上馨や伊藤博文らがいた。グラバーは商人ではあったが、先進国の傲慢や優越感にとらわれなかったといわれる。日本文化の良さや利点を学び、それに溶け込もうとした柔軟な精神をもっていたともいわれる。そうした精神構造や適応性は、日本の近代化に参加したスコットランド人に共通した特性といわれる。この点はさらなる検証が必要だと筆者は考える。

日本にやってきたスコットランド人の多くが日本人と結婚している。歌劇「蝶々夫人」のモデルとされるのがグラバーと結婚した談川ツルである。その経緯だが、ツルが格式の高い士族の出身であること、商人である外国人と結婚したことなどが、著者ジョン・ロング(John Luther Long)というアメリカ人小説家の目にとまったようである。西洋の男性にとっては、ゴシップのような話題であったようだ。

809_13_ Jardine Matheson Holdings9長崎市グラバー園

北海道とスコットランド その7  スコットランド人と北海道の開拓 その2 ニール・マンロー

北海道、特に道東と道北は小生が育ったところである。北海道開拓の歴史でもう一人のスコットランド人を紹介する。ニール・マンロー(Neil Munro)である。彼の業績については筆者も使った副読本で紹介されていたのを覚えている。

マンローはエジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医としてやがて日本にやってくる。医師のかたわら考古学にも関心を示す。神奈川の根岸や三ツ沢で貝塚を発掘している。アマチュア考古学者であったが、日本列島における旧石器文化の存在を示唆した。1898年北海道に上陸し、そしてアイヌの文化に惹かれその理解者となっていく。アイヌの木彫りが縄文式土器の文様に酷似しているころから、縄文人はアイヌの祖先ではないかという仮説をたてる。

アイヌ研究はアイヌとの深い信頼関係に根ざしていたようだ。アイヌと一緒に生活し、その文化に深く傾倒していく。晩年は平取町二風谷に長く住みそこで医療活動をする。アイヌの悲惨な境遇に接し、貧困が飲酒と怠惰に原因すると考え、生活の改善策として果樹栽培や畑作、牧畜をアイヌに奨励する。

マンローは晩年になると、国際情勢の緊張によりスパイの嫌疑がかかったこともあったようだ。だがアイヌなど地元の人々はマンローの人柄や研究への情熱に尊敬の念を抱いていた。マンローの葬儀は、アイヌの人の古式にそって執り行われたといわれる。彼が蒐集したアイヌ民具などのコレクションはエディンバラにあるスコットランド国立美術館(The National Galleries of Scotland)に収蔵されているという。

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北海道とスコットランド その6  スコットランド人と北海道の開拓 その1 エドウィン・ダン

北海道開拓の歴史にもスコットランド人が貢献したことを忘れてはならない。その一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)である。

ダンもまた明治期のお雇い外国人の一人。獣医師であり畜産や肉の加工などで多くの弟子を養成したといわれる。ダンの両親はスコットランド人で、アメリカのオハイオ州に移民しそこで酪農を始める。同州オックスフォード市(Oxford)にあるマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学ぶ。

1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結び北海道にやってくる。技術指導者として、また獣医として畜産状の技術指導にあたる。札幌西部に牧羊場を、真駒内に牧牛場を開設し、バター、チーズ、練乳の製造およびハムやソーセージの加工技術を指導した。

競走馬の養成にも力を注ぎ、日高の新冠牧場では最高千数百頭もの馬が飼育されたといわれる。種馬や種羊を積極的に輸入し、品種改良や増産にあたった。日高地方がやがて日本における競走馬の主要な産地となっていく。

彼の功績を称える「エドウィン・ダン記念公園」が札幌の中心のやや南の真駒内にある。その中に記念館もある。札幌付近がスコットランドの風土と気候に類似していることから、酪農や食肉加工の地として相応しいこともダンの技術力が発揮できたとも考えられる。

hitsujigaoka  羊ヶ丘展望台Edwin-Dun エドウィン・ダン記念館

北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸