今日まで伝承されている話芸の落語や講談。演者が一人で何役も演じ、語りのほかは身振りや手振りのみで物語を進める独特な形式の芸能である。使うのはといえば、扇子や手拭だけ。舞台には座布団があるだけである。たまに音曲が流れてくるのもあるが、それは例外。ほとんど演者が工夫を凝らして、演目に登場するモノや人を表現する独演である。表情や視線も大事な仕草となる。扇子と手拭を使い、食べる、飲む、寝る、歩く、酔っぱらうなどを座布団に座って演じる。
古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に「落ち」のあるものを「落とし噺」という。これが「落語」の本来の呼称であったが、のちに発展を遂げた「人情噺」や「怪談噺」と明確に区別する必要から「滑稽噺」の呼称が生まれた。今日でも、落語の演目のなかで圧倒的多数を占めるのが滑稽噺である。滑稽噺は「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別されるといわれる。「片棒」という演目は冨を築いた旦那が三人の息子の誰に跡を継がせるかという展開で、困ってしまうという噺である。日常性と非日常性が見事に溶け合っている。
人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子や夫婦など人の情愛に主眼が置かれている。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目である。人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではない。「子別れ」や「文七元結」、「芝浜」などの演目はそうだ。
「落とし噺」や「人情噺」が一般に語り中心で上演されるのが「素噺」である。鳴り物や道具などを使わない。「怪談噺」のような芝居がかったものに音曲を利用するのもある。特に幽霊が出てくるような噺は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。怪談噺は、笑いで「サゲ」をつけるという落語の定型からはずれるのもある。
「サゲ」の特徴だが、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させるしめである。それ故に「サゲ」は演者の創作性が出るところが聴衆にとって興味深い。「千早振る」という百人一首を題材としたパロディ調の演目もそうだ。演者が最も神経を使うところではないかと思うのである。