アメリカ合衆国建国の歴史 その85 ユートピア社会主義とトクヴィル

工業化の進展により、何千人もの労働者が、制御できない景気循環の浮沈や雇用者の寛大さに依存するようになります。当時は「多くの人々の生活が少数の人々の手に委ねられている」といわれました。階級間の不均衡が拡大し、経済学者たちの行動に拍車がかかります。ある者は資本主義の永続性を認めながらも、労働組合を通じて従業員の交渉力を高めようとしました。また、私企業のモデルを否定し、競争路線ではなく協調路線での社会の再編成に目を向ける者もでてきました。フーリエ主義(Fourierism)やユートピア社会主義(Utopian socialism)がそうです。

労働改革者の一人、ジョージ・エヴァンス(George Evance)は、労働者の供給量を減らすことによって賃金を上げることを提案します。一部の労働者には公有地から切りとった無料の農場、「ホームスティード」(homesteads)を与えるという提案です。知識人党に属する移民規制の闘士たちの中にも、生粋のアメリカ人の雇用を守るという目的を持っている者がいました。また、シルベスター・グラハム (Sylvester Graham) が提唱した健康的な食生活や、アメリア・ブルーマー(Amelia

Seneca Falls Convention

Bloomer)が提唱した良識ある女性の服装など、周辺問題に焦点を当てた改革者もいました。彼らはいずれもこうした小さな一歩が、人間全体のより合理的で優しい行動へとつながると考えていたのです。

農業改革のような現実的なものから、世界平和のようなユートピア的なものまで、どのような改革運動であれ、アメリカの広大な世界にメッセージを広める手法は似ていました。1841年、トクヴィル(Tocqueville)がアメリカは民主主義が鍵であると指摘したメッセージが広まり、支持者を獲得するために任意の組織が結成されていきます。教会に所属している場合でも、これらの団体は牧師ではなく、専門家が指導するのが普通であり、弁護士の数が際立って多かったようです。次に、こうした団体の新聞による宣伝については、少額の資本と労働で簡単に行うことができました。ある評論家が指摘したように、ほとんどすべてのアメリカ人が、社会の普遍的な改善のための計画をポケットに入れていたといわれ、他のすべてのアメリカ人もそれを知っていたようでした。

セネカ・フォールズ大会

このような運動のうち、2つの運動は南北戦争の時代を超えてもその勢いを保っていました。一つは節酒運動で、モラリズム、効率性、健康といった永続的な価値を呼び起こすものです。飲酒は、過度に摂取するとアルコール依存症になり、社会的コストが発生し、生産性が低下し、身体に害を及ぼす罪と見なされていました。1848年のセネカ・フォールズ大会(Seneca Falls Convention)で初めて全米に知られるようになった女性の権利運動は、男女の役割分担の正当性という普遍的な考えを主張し、根強く浸透していきます。