旅は道連れ世は情け その7 スカンクに注意

車には色々な思い出があります。日本ではあまり経験しないようなエピソードを紹介します。

野生の動物が多いのがアメリカ大陸です。自然保護、動物保護が厳しいところです。インターステイト(Interstate: IS)などの高速道路には「鹿注意」の標識があちこちに立っています。

長男からきいた話です。彼が運転し友達とミルウオーキーでのアイスホッケーの試合を観に行った帰り、IS90を運転中に鹿を轢いてしまいました。飛び出してきた鹿を避けきれなかったそうです。車の前部は大破。この場合、鹿を持ち帰ることはできますが、道路脇にひきづり、帰ってきたといっていました。

冬場、厳しい寒さを避けるためにあらいぐま(racoon)やスカンク(skunk)はいろいろなところを寝蔵にします。大学の職員宿舎の管理室で夜勤のアルバイトをしていたときです。学生は平日の夜と週末に雇われて応急措置に対応します。例えば、台所のシンクやトイレが詰まったとか、鍵を落として入れないので開けて欲しいといったことです。子育て中の院生が多いので、子供が玩具をトイレに流してつまらせるのです。

ある時、車のエンジン部分に潜んでいたスカンクがファンに巻き込まれ車が動かないという電話が事務室にきました。出掛けてみるとスカンクの残骸とともに、もの凄い匂いが駐車場に漂っています。手の出しようがありません。こうなったらいくら洗車してもなんの効果もありません。後日、持ち主は廃車にしたことをききました。業者も大変だったろうと察します。

走っているとときどき轢かれたスカンクを見かけます。窓をすぐ閉めなければいけません。あの匂いは近寄りがたいほど強烈なのです。

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旅は道連れ世は情け その6 北投温泉と美空ひばり

台北市内からMETROで50分ほどのところに北投温泉があります。この温泉は、台湾有数の湯治場です。明治38年に地質学者岡本要八郎が微量のラジウムを含む「北投石」という鉱石を発見します。瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で見つけたとあります。今は天然記念物で採掘が禁止されているそうです。

北投温泉は、天然のラジウム泉として知られています。また硫黄の成分も多く、町には硫黄の臭気が漂っています。北海道登別温泉のような雰囲気です。この温泉に浸かりたいとかねがね考えていました。

途中METRO内で、家内と下車する駅のことを思案していると、前に座っているお年寄りが日本語で「北投温泉はあと三つ目です、瀧乃湯がいいですよ」と教えてくれました。小学生のとき、世田谷区から派遣されていた日本人の女性教師に教えを受けたとか。毎年、この恩師を招いて同窓会を開いているということに感じ入りました。親切で礼儀正しい方でした。

瀧乃湯は銭湯の気分です。台湾に現存する浴場の中では最古の一つだそうで、脱衣場は浴槽の隅にあり扉の仕切りはありません。また洗い場には水道水が出るシャワーがありますが温水は出ません。本当に素朴な湯治場の気分です。

帰りにブラブラ散歩していると、歌謡曲が流れてきました。聞き耳をたてると美空ひばりの歌です。数人の老人がラジカセを中心に歌っているのです。そして持っているひばりのカセットテープ集を見せてくれました。美空ひばりが湯治場の北投温泉でも人気があるのは、首肯できました。

img_2北投温泉、瀧乃湯ffa1a640aeb5a40d24655fdf4f22ccfd

旅は道連れ世は情け その5 孫文と国立國父紀念館

台湾は私の好きな国の一つです。温暖な気候のせいか、人々の表情が柔和なような気がします。他のアジアの国々と比べ、街全体に清潔感があります。「中華民国」が台湾の国名です。

孫文という偉大な思想家、政治家は今も台湾でも尊敬の的になっています。国立國父紀念館に行くとそれが現れています。孫文は一般的に「孫中山」と呼ばれています。1時間毎に行われる紀念館での衛兵の交代はみものです。衛兵交代は蒋介石の顕彰施設である中正紀念堂や忠烈祠でも行われます。國父紀念館を囲むのが静かな中山公園です。

孫文が1905年に発表した中国革命の基本理念には「三民主義」と「五族共和」があります。「三民主義」とは、民族主義、民権主義、民生主義のことです。現在の台湾政府の基本理念となっています。五族共和は、漢の周辺の五族との宥和を意味します。中国革命の父、近代革命の先達ともよばれる所以です。海峡をはさんで本土と台湾の両国で尊敬されているのが孫文です。

孫文は偉大な革命家ともいわれます。国共合作やソ連との提携も実現します。モスクワ中山大学の設立も成果の一環です。この大学は日本や海外列強の植民地支配に対する独立運動と人材育成のためです。後に蒋介石は毛沢東とも手を組みます。

革命と独立に至る運動で、孫文の行動は日和見的であるという見方も一部にあったようです。原理原則の欠如といった理由で批判されるのです。ですがこうした批判は、複雑な国内事情や権力争いのゆえにやむを得なかったとする見解が一般的です。孫文の業績が偉大であったことは誰もが認めるところ、中国本土や台湾で尊敬を一心に集めるのはそのためです。

日本と孫文の関係ですが、1913年から数年間日本に亡命もします。そして欧米列強の帝国主義に対して東洋の王道とか平和の思想を説き、日中の友好を訴えたことでも知られています。

8a9b3bb1e49c966c57b491764fe3063d  国立國父紀念館sonbun 孫文記念館

旅は道連れ世は情け その4 大学生活の開始

U-Haulを引っ張ってジョージアからようやくウィスコンシンに着きました。ウィスコンシン大学の構内に入ると、落ち着いた煉瓦色の建物、古城のような体育館、博物館や図書館、大学カフェテリアなどがありました。そのとき、「果たしてついていけるのだろうか、、」という不安に襲われました。大学の雰囲気があまりにピリピリし、威圧感があったからです。ですが物思いに耽る場合ではありませんでした。

大学院の授業といっても詰め込みです。授業にでても半分くらいしか理解できません。思い切って留学生の相談室に行きました。そこで「授業中のノートテーキングでは単語を書き並べ、授業後にすぐ文章化するように」というアドバイスでした。記憶が鮮明なうちに筆記する方法です。

授業では、休む院生はほとんどいません。授業前に教官は教室にいて学生を待っています。休講もありません。ただ一度だけ、ある冬の夜間授業のとき、教官が教室にやってきて「今夜は調子がわるいので休ませて欲しい」というのがあっただけです。これが最初で最後の休講です。

最初の中間試験があり、結果は教官室のドアに学生番号が掲示されました。自分の点数をみてガツンと頭をなぐられたような気分になりました。試験なんてたいしたことがないだろうとたかをくったのが間違いでした。完全な落第点でした。試験問題は、マルバツ、多肢選択、単語の記入、エッセイから構成されていました。このような問題形式に全く慣れていませんでした。授業中に教官が講義した内容が問題としてでることを知りました。それからは試験前にはノートを何度も読み直し暗記に務めました。

半年くらい経ってからようやく自信のようなものが生まれてきました。とにかく時間をかけて読み、書くことに心掛けました。小論文の作成を支援する大学のサービスも頻繁に利用しては英文を添削してもらいました。一対一で添削してくれるのは英文科の院生です。論文書きのコツをここで学んだのは後々に役に立ちました。学生の支援が手厚いことに感じ入りました。このような論文書きの支援は、学んだ北海道大学でも立教大学でも、兵庫教育大学でもありませんでした。

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旅は道連れ世は情け その3 車がスピンしたとき

1979年のウィスコンシンの真冬、零下20度の日が何日もありました。マリブを運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト(Interstate: IS)とUSハイウエイ(US Highway)の二種類があります。両方とも日本の高速道路にあたります。高速料金はありません。両方ともは四車線で雑草と芝の広い中央分離帯があります。

当時、ISの制限速度は65マイル、USのほうは55マイル位です。USを走っていたとき、突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転してその場を離れることができました。後続車がいたら大変なことでした。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。交通局のようなところは、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度が下がって路上が凍結するのです。昼間気温が上がり、夜は零下に下がるので溶けた雪は凍るのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリにはありません。

第四はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

厳冬の時、野外に長く駐車しておくとバッテリーの能力が極端に低下します。”Battery is dead.”と呼ぶ状態です。ですからバッテリー・チャージャー・ケーブルを持参しておくことも大事です。零下が続くときは、夜は車からバッテリー外して翌朝に戻して運転することもありました。

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旅は道連れ世は情け その2 「U-Haul」と野宿

1978年8月に語学研修で過ごしたジョージア州(Georgia)からウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison)まで、僅かの家財をU-Haulに積んで家族と移動しました。車はジョージアにいたとき、ルーテル教会の牧師から譲り受けたシボレーはマリブ(Chevrolet Malibu)という連結器のついた六気筒のセダンでした。車体の屋根は押してもびくともしません。「タンク」という愛称で呼ばれていました。この牧師はかつて宣教師として足立区での勤労青少年の伝道にあたっておられました。梅島、西新井、竹の塚、草加あたりが伝道の中心でした。

マディソンへの途中、テネシー州南東部にあるチャタヌガ(Chattanooga)という街を通りました。なぜか「チャタヌガ・チュー・チュー」(Chattanooga Choo Choo)というグレン・ミラー(Glenn Miller)の楽曲を思い出しました。”Choo Choo Train”とは、「汽車ぽっぽ」という意味です。その後ニール・セダカ(Neil Sedaka)も「恋の片道切符」(One Way Ticket)という曲で”Choo Choo Train”を歌っていました。この曲も流行りました。

インディアナ州(Indiana)の小さな街で車の調子が悪くなりました。トレーラーを引っ張るとエンジンに無理がかかります。とくにトランスミッションはそうです。修理屋にきくと部品は明日にしか来ないというのです。仕方なく修理屋に許可を得て工場の隣で野宿することにしました。

修理屋はガソリンスタンドを経営しています。幸い水をもらったり手洗いを使うことができました。夏の盛りでしたので、クーラーボックスからハムと野菜やチーズでサンドイッチを作って一夜を過ごしました。夜パトカーがやってきました。事情を話しましたが不安な一夜を過ごしました。2泊3日の初めての大陸横断のような旅でした。

Chevrolet_Chevelle_Malibu_350_coupe  Chevrolet, Malibumaxresdefault   Hillary’s Tent

旅は道連れ世は情け その1 「U-Haul」と「You haul」

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人生は旅に喩えられます。目的があるようでないような、行き先が定かで定かでないようなのが人生です。生きることとは、その目的や行き先を探す旅ということです。これから私の可笑しくも苦しかった旅の話を披露します。暫く旅にお付き合いのほどを。

U-Haul。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。移動が好きなアメリカ人にはU-Haulは馴染みのものです。引越の際は、貸しトラックか自家用車につける荷物運搬車(トレーラー)に家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Haulです。Haulとは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語であります。

U-Haulの大きさは様々です。今もU-Haulをとりつける連結器がついた中型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Haulの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。

大型のU-Haulは自分で運転して家財を運びます。運転手が一人ですむという案配です。U-Haulをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Haullは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Haulは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Haulは切っても切り離せません。「お前が引っ張っていく」という考えがU-Haulの発展にみられます。これが俗語にある、”Do It Yourself Fan.”(自分でやれることは自分でする)にあたります。

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「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

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「幸せとはなにか」 その18 杉原千畝氏のことー日本のオスカー・シンドラー

現在、外務省が保管する杉原千畝氏がビザ発給者の名を記したリスト「杉原リスト」には 通過ビザを発行した2,100名以上のユダヤ人の名前があるといわれる。公式記録から大勢の人が抜けているとうことがわかり、杉原氏が実際にビザを発給したユダヤ人は6,000人にものぼるといわれている。戦後、杉原氏がユダヤ人から「日本のオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)」といわれた所以である。

話柄を変えるが、「シンドラーのリスト(Schindler’s List)」という映画が1994年にスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)によって作られる。オスカー・シンドラーのユダヤ人救済を描いたものだ。シンドラーはナチス党の党員ではあった。ポーランドのクラカウ(Krakau)の町へやってきて、潰れた工場を買い取って“軍需工場”であるほうろう容器工場の経営を始める。ポーランド占領のドイツ軍から特別の格付けを受けたのである。

シンドラーは、手練手管を使いこの工場では労働者が生産ラインに不可欠だと主張する。このようにして、強制収容所へ移送される危険が迫ったユダヤ人を雇用することができた。有能なユダヤ人会計士アイザック・シュターン(Isaac Stern)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れるという筋書きである。

さて、杉原千畝氏のその後に関してである。外務省の訓令に反し、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。そのため戦後、訓令違反ということで外務省を辞めざるをえなくなった。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という述懐が残っている。2000年、当時の外務大臣河野洋平の演説によって、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復がなされた。戦後55年も経ってからのことである。

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「幸せとはなにか」 その17 杉原千畝氏のことー通過ビザの発給

ナチス・ドイツは、1940年にベルギー(Belgium)、チエッコ(Czech)、デンマーク(Denmark)、フランス(France)、オランダ(Holand)、ルクセンブルグ(Luxembourg)、ノルウェー(Norway)、ポーランド(Porland)、を占領しソ連との戦を始めようとしていた。リトアニア在住のユダヤ人の脱出は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路であった。

日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要であった。幸いリトアニアにあったオランダ領事館は、カリブ海にあるオランダの植民地キュラソー(Curasao)行きのビザの発給を始める。「キュラソー・ビザ」をとったユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日といわれる。日独伊三国間条約が結ばれる直前である。ヨーロッパ各国はナチス・ドイツに占領され、そこを経由することは絶望だったからである。リトアニアにまだ残っていた日本領事館で通過ビザを取ろうとした。日本経由で脱出しようとしたのである。

ユダヤ人が日本へ行くために、ソ連国内通過がどうして可能だったかである。Wikipediaによると当時ソ連は共産党の支配とされていたが、実際には裏の組織である国家保安省、後の国家保安委員会:KGBが支配していたとされる。そして国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だったという事情が働いていた。

領事代理の杉原氏のビザ発行に対する打診に外務省は「ビザ発給拒否」と回答する。杉原氏はソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。そして発給を決意する。”I did it my way.”を実行した稀有の外交官であり人道主義者であった。

map_lithuania sugihara 杉原千畝氏