アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その133「Sooners」と抜けがけ

注目

 1887年の夏、ミシシッピ川西岸地域では不作と高騰した地価の崩壊により経済的・精神的不況が襲い、共和党は政治的災難に見舞われることになります。西部ブームは1870年代後半に始まり、ミシシッピ川を越えた未開拓の農地への移住の流れは、アイオワやミネソタのそれまで未開拓だった地域への入植を促します。開拓地は文字通りロッキー山脈 (Rocky Mountains)の東側の大平原へと押しやられていくのです。

 西部開拓は、この地域に敷設された鉄道によって促進されます。また、平原地帯の主要作物である小麦の価格と海外市場にも支えられました。1877年から1886年までの10年間、平原の農民は異常なまでの降雨に恵まれ、気候条件が変わり、平原に十分な降雨をもたらすために雨帯が西に移動したと多くの人が考えるようになります。ともあれ、平原に十分な雨量がもたらされるようになりました。このような幻想に誘われ、入植者たちは農場を整備するために借金を重ねます。小さな町の政治家たちは飛躍的な発展を夢見て、やがて必要となると思われる公共施設の建設のために公債発行を許可していくのです。

 その夢が崩れ去ったのは1887年のことです。この年は、1月に平原が猛吹雪に見舞われ、数千頭の牛が死に、放牧地での牧畜業は壊滅的な打撃を受けます。翌年の夏は乾燥した暑い夏となり、農作物は不作となり、さらに小麦の価格が下落し始めました。1887年の乾燥した夏を皮切りに、10年周期で少雨と猛暑が続くようになります。1887年の秋には、平原からの移住が始まり、5年後にはかつて農業が盛んだったカンザス州西部やネブラスカ州の地域は、ほぼ過疎化していきます。平原の東側の農業地帯は、直接の被害は少なかったのですが、農家は農産物価格の下落に苦しめられます。

 平原の惨状に苦悩と挫折を感じつつも、肥沃な土地への誘惑は強いものでした。1889年4月、現在のオクラホマ州中央部に入植地が開かれると、10万人ともいわれる熱心な入植者たちが殺到し、所有の特権を求めて家屋を建てていてきます。

 オクラホマ州では、1889年に白人の入植が許可される直前に、スーナー(sooners)と呼ばれる抜けがけ移住者が殺到し土地を占拠します。州のニックネームは今日も〈抜け駆けの州:Sooner State〉となっています。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その23 自給から「居座り」へ

ニューイングランドの気候と地形の厳しさの中で、人々の経済的自立への道は貿易、船舶、漁業、または手工業へと向かいました。しかし、キリスト教に関連した第一世代の宗教的な入植者が亡くなると、個人経営による自給農業への渇望はますます強くなりました。その過程で、タウンシップによる土地の共同所有は、小さく割り当てられた家族の庭や、中世のコミュニティのスタイルである一般的な放牧地と果樹園を経営しながら、徐々にフェンスで囲んだ農場を持つようになりました。

利用可能な土地が提供され、それによって自分の生き方を求めることは魅力的なことでした。土地の所有という特権が市民に与えられたため、革命が始まる直前になると、非常に多くの男性入植者が選挙権を獲得していきました。

Sooners

奴隷制はタバコなどの作物の大規模栽培の屋台骨となり、南部植民地で最も堅固に根づいていきました。同時に、小さな面積の土地しか持たない白人もそれらのコロニーに住んでいました。さらに、小規模な奴隷制が北部に移植され、黒人は主に家事労働や未熟練労働に就くことになりました。アメリカでは自由と奴隷制の境界線はまだはっきりと描かれていませんでした。

抜け駆けする開拓者

不安定ながら、土地を取得するための一つの方法は、単に「居座る」ことでした。 入植地の西端では、植民地の管理者は、海岸郡の所有者に役に立つ不法占拠者を警察の権限を使用して追放することはできませんでした。 不法占拠者は、自分たちを無法者と見なすどころか、大きな危険と困難を伴う新しい土地を開拓するための仕事をしていると信じていました。こうして土地に居座ることは、アメリカの初期の歴史を通して西部開拓の恒常的な姿となりました。