アメリカ合衆国建国の歴史 その6 メリーランドにおけるコロニー

ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社組織ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)は、1632年に王室から土地の付与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の付与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary’s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、洗練されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず、不安な状態でした。

State of Maryland

コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモアは、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。土地政策に執着していましたが、ボルチモアはおおむね善良で公正な管理者でした。

Annapolis

しかし、ウィリアム3世(William III)とメアリー2世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。 1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。