囲碁にまつわる言葉 その18 【御城碁】

「ボケ防止のための啓発囲碁大会」は後に「活きいき囲碁大会」に改名されます。ボケ防止大会は4月より毎週のように、寿同好会の持ち回りで開かれます。さぞかし、参加申し込みの受付や対戦組み合わせなどで忙しかったろうと察します。それ以上に大会会場に碁盤や碁石を運ぶ手間も大変だったはずです。八王子市、八王子教育委員会、日本棋院の他に、町会総連合会、住民協議会などの後援を得て大会を開いています。この後援を得る努力にも敬服します。

京都、寂光寺

—–【御城碁】——–
江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局が「碁城碁」です。寛永3年とありますから1626年頃に始まり、毎年1回、2、3局が打たれ、1864年に中止となるまでの230年余りに渡って続いた御前対局です。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとって最も真剣な対局でありました。また碁によって禄を受けている本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露することの意味もあり、寺社奉行の呼び出しによる形式で行われたようです。実際に将軍が必ず観戦したかどうかは分かりませんが、老中などが列席したこともあったようです。

御城碁は数日に及び、対局者は外出を禁じられました。外出によって仲間による対局の検討がなされるのを避けるためです。その後「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉が生まれたといわれます。徳川家康も碁を好み、文禄から慶長にかけて京都や周辺の碁打ちや将棋指しをしばしば招くようになったようです。また時に御所である禁裏に出掛けることもあったという記録があります。

日海–本因坊算砂

本因坊秀策は「碁聖」の名でも知られていますが、「碁聖」と呼ばれる棋士がもう一人います。第四世本因坊道策がその人です。段位制やを整え、優秀な弟子を数多く育てるなど、元禄時代の囲碁の興隆を支えたといわれます。