心に残る一冊 その83  「菊千代抄」 家訓

「菊千代抄」という山本周五郎の作品の紹介です。菊千代は巻野越後守貞良の第一子として生まれます。貞良は筋目のよい譜代大名の出で、寺社奉行をつとめていました。巻野家には古くから初めに女子が生まれたらそれを男として育てるという家訓のようなものがありました。そうすれば必ずあとに男子が産まれるということで、これまでにもそうした例が実際にあり、そのまま継承されてきました。当時貴族や大名の中にはこういう類の家風は稀ではなかったようです。

菊千代の母は病身でごくたまにしか菊千代は会いません。身の回りの世話には松尾という乳母がします。父は菊千代が乳母の手に抱かれているのを見ながらしきりに酒を呑み、3、4歳になると膳を並べさせ、「さああ若、ひとつまいろう」などとまじめな顔で杯を持たせたりします。

  菊千代の遊び相手はみな男の子です。自分の体に異常なところがあるということを初めに知ったのは6歳の夏です。乳母の松尾が側を離れた隙をみて誰かが池の魚を捕まえようといいだします。そして裾をまくって魚をおいまわします。菊千代の前に立った一人が突然叫びます。
「やあ、菊さまのおちんぼはこわれてらあ、」

池畔にいた一人が袴をつけたまま池にはいってきて、「なにを云うのか、おまえは悪い奴だ、」と暴言を口にした者を突き飛ばし、菊千代の肩を抱いて池から助け上げます。そこに松尾が走ってきます。菊千代は泣きながら松尾にとびつき、みんなの眼から逃げるように館にかけだしていきます。池から菊千代を助け上げたのは、八歳の椙村半三郎です。

半三郎は面長で眉のはっきしりしたおとなしい子でした。松尾は菊千代に対して体に異常はないこと、もしそうであれば侍医が診ていることなどいろいろ説明してくれます。然し、その時受けた恐怖のような感情は消えません。池の中の出来ごと以来、菊千代は半三郎が好きになり、なにをするにも彼でなければ気が済まず、少しも側を離しませんでした。

父との会話で菊千代は云います。
「本当に男のままでいられるのですか?」
「若が望みさえすれば造作もないことだ、」父が云います。
「、、、でもあとに弟が生まれましたら?」
「巻野家を継ぐのではない。分封するのだ、」
父はそういって菊千代に云ってきかせるのです。分封とは所領の内から適当な禄高を分けてもらい、相応の家来を持って生涯独立した領主となることだと菊千代に説明します。

ある夜、菊千代は乳母の松尾にききます。
「若が女だということを知っているのは誰と誰だ、、、」 父と亡くなった母、侍医と取り上げた老女、国許の両家老、その他知っているものはないことを菊千代にきかせるのです。その時、6歳の夏で池で魚を追い回していたとき、「若さまの、、、、、はこわれている」と誰かが叫んだのを思いだします。菊千代は半三郎を想い浮かべます。彼は知っている、生かしておけない、とも思うのです。それまで常に半三郎と相撲をとり、柔術の稽古をし、組み合っては倒れ押さえこまれてきたのです。彼一人を相手に選んできたのです。(続く)