心に残る一冊 その144 「やぶからし」 その一 入婿十万両

山本周五郎の作品の一つ、「やぶからし」を紹介することにします。讃岐多度津の京極藩に矢走源兵衛という槍奉行がいます。婿に迎えているのが一人娘、不由の良人である矢走淺二郎です。不由は京極藩随一の男勝りの才智容色をそなえています。

淺二郎は大坂の唐物売買商、難波屋宗右衛門の倅です。巨万の富者として知られていました。諸藩はいずれも財政難で逼迫しています。京極藩も例外でありません。淺二郎が京極藩に婿としてやってきたのは藩の財政事情があったのです。藩の財政を短期間に立て直す秘命を帯びて、見識の高い不由と祝言を挙げたにも関わらず不由は臥床を共にしません。

家中の若侍たちは、讃岐多度津の京極藩随一の娘、不由を横取りされたと怒り淺二郎に嫌がらせをするのです。出ては家中の侍に嘲笑され、入っては不由の卑めを受けるのです。
「なんだ、商人上がりの算盤才子が、、」
「あんな生白い奴に御槍奉行の跡が継がせるとは四国武士の恥辱だ」
こう云いながら嫌がらせが続きます。

ある時、淺二郎は三人の若い家中に襲われます。
「新参なれば遠慮しているのに、おのれを知らぬ無道者、、さあ参れ!」
日頃の柔和さとはがらりと変わった態度です。大きく見ひらいた双眸には犯しがたい威力と殺気が閃めいています。たまたま所用で通った不由ははからずも思いがけない淺二郎の姿を発見します。

淺二郎は恩師である岡田寒泉という人の示唆によって、京極家の家譜を閲覧して調べます。そこで京極家の家臣だった淺二郎の先祖が、唐物売買を始めるにあたり、藩祖から拝領した五千両を資本としたのが難波屋の巨富を積み上げるもとになったことを家譜から見つけます。淺二郎はその家譜を持って、ただちに生家に赴き十万両を藩家に献上させるのです。こうして藩の財政再建の目処をつけます。役目を果たした淺二郎は、槍奉行の矢走源兵衛に暇乞いをします。

「これにてお召し出しに与りましたお役目をどうやら果たしました、私を離別して頂きとう存じます」
「お嬢さまは清浄無垢にござりまする」
「殿にもお暇を願っております」
「ご承知くださいまするな」

淺二郎が立とうとするとき、不由が「お待ち下さい」と云って入ってきます。
「様子は次の間で伺いました、大坂へお帰りあそばすとのことでございますが、それならわたしもとお伴れくださいませ」
「、、、それはなぜでござるか、」
「わたしは貴方様の妻、妻は良人に従うのが道でござりまする、、、」
「それに貴方さまはわたしが清浄無垢と仰せられましたが、わたしはもはや身籠もっております」
「なにを仰せられる」淺二郎は呆れて「ご当家に参って以来、一夜たりとも閨を共にせぬこと、ご承知のはずではないか、」

彼の男らしさを知った不由は、不束を詫びて良人の膝に泣き伏します。