【話の泉ー笑い】 その四十七 パントマイム その7 手話とマイム

今回で【話の泉ー笑い】はお終いです。言葉がなかった太古、人々は狩りをするとき、動物の真似をし、身振り手振りで追い詰めたはずです。赤児も母親には体で表現し意思を伝えます

ローマ時代、ルキウス・アンドロニクス(Lucius Andronics)という劇作家・詩人がいました。アンドロニクスは各地で自作の戯曲を演じていましたが、アンコールに応じ過ぎて声が枯れてしまい,奴隷に代わりに歌わせ、自身は体で演じそれが大いに受けてたそうです。Wikipediaによりますと、アンドロニクスは、古代ギリシャの文芸作品をラテン語に翻訳し、古代ローマの劇作及びラテン文学の父と呼ばれます。

中世の後期には、カトリック教会の司祭らは、大勢の文盲の民衆のために、体を使って聖書の教えを伝えたともいわれます。当時、礼拝はすべてラテン語で執り行われ、聖書の朗読もラテン語だったので、会衆は理解できなかったからです。印刷技術も未発達なので、聖書は民衆に流布しませんでした。

最後に、手話とパントマイムの類似点や相違点など触れてこのシリーズを終わります。以下の文章は、酒井邦嘉著の「言語の脳科学」 (中公新書)より引用しました。話題とした「笑い」から少しずれています。

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『ジェスチャーやパントマイムは、送り手がメッセージを身振りで表現して、受け手が視覚を通して理解するという点では手話と共通している。手話では、音声言語以上に、視覚的な情報を加えることが多い。例えば「山田さん」という名前だけでなく、顔の輪郭や太っているかどうかなどの目に見える特徴を豊富に織り込みながら話題にするのが普通である。パントマイムがうまければ、その人の歩き方などの癖を真似することで、手話を使いこなす人らしい、具体的な表現ができるだろう。しかし、手話とパントマイムでは、伝えられるメッセージだけではなく、伝え方そのものが根本的に違う。

パントマイムでは、顔の表情や頭の動きは主に感情を表現することに使われる。他方、日本手話では、手の動きと合わせて、顔の表情や口の形、うなずきなどの頭の動きを同時に使うのが普通である。これは、副詞としての意味を付け加えたり、例えば、「懸命に」、「気楽に」など文節の切れ目や疑問文などの文法的な働きを持たせることができる。

手話は手しか使わないと思ったらそれは大きな誤解である。手を使わない動作を巧みにブレンドすることで、手話ではパントマイムよりも遙かに抽象的なことまで正確に表現できる。』

【話の泉ー笑い】 その四十六 パントマイム その6 その芸術

笑いの芸術、パントマイムのまとめです。「声を用いず身体の動きや顔の表情のみを表現手段とする芸術」がパントマイムです。黙劇とか無言劇です。古代ギリシャで生まれた「ものまね」を中心とした座興的な雑芸と呼ばれました。パントマイムの起源は古代ローマのパントミムス(pantomimus)に求めるのが定説のようです。ギリシャ時代は雑劇といわれましたが「ものまね,身振り」的な要素が強調され、1つの芸能のジャンルとなりました。

紀元後からおよそ5世紀の初めに至るまで、ものまねが卑俗であるとしてキリスト教会からの「道徳的な非難」や名帝といわれたトラヤヌス皇帝(Emperor Marcus Trajan)による禁止令にもかかわらず、古代ローマ人には大いに愛好されたといわれます。ローマ帝国の解体以降は、いわば1つの芸術ジャンルとしては消滅しますが、実体としては種々の雑芸や笑劇の中にその要素が吸収され、西欧演劇の一底流として中世・ルネッサンス期から近代へと生き続けることになります。

ジェスチャー(NHK)

本稿で既に述べましたが、イタリアのコンメディア・デッラルテという旅芸人一座の中にパントマイムの要素を色濃く見ることができます。17、18世紀にフランス宮廷などで行われた神話を題材とする仮面舞踏劇もパントーム(pantomime)と呼ばれています。

19世紀になるとパントマイムは、演劇史の中で全盛期を迎えます。フランスにおいうてピエロに扮した芸人の芸として発達します。その後、エティーヌ・ドクルー(Etinne Docroux)やバロー、マルソーに受け継がれていきます。パントマイムは、音声言語を排除するので、舞台芸術として実践することは、戯曲上演と比べてかなり少ないのが実際です。それでも演劇表現の中で占める普遍性によって、今日でも俳優訓練や養成の一手段として世界各国で重視され、人々に笑いや感動を与え続けています。

【話の泉ー笑い】 その四十五 パントマイム その5 映画「ユダヤ孤児を救った芸術家」

マルセル・マルソーはユダヤ人でした。ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、ユダヤ人であることを隠すために姓を「Mangel」から「Marceau」に名前を変えたようです。彼の父はゲシュタポ(Gestapo)によって捕らえられ、1944年にアウシュビッツ強制収容所(Auschwitz Concentration Camp)で亡くなります。若いとき、マルソーは第二次大戦中にナチと協力関係にあったフランス政権に立ち向かうべく、レジスタンス運動に身を投じます。彼はフラン語、英語、ドイツ語に堪能だったようで、一時、連合軍第三軍のジョージ・パットン(General George Patton’s Third Army)の連絡将校として働いたとあります。

沈黙のレジスタンス

このマルソーの実体験を映画化したのが「沈黙のレジスタンス–ユダヤ孤児を救った芸術家」という作品です。第二次世界大戦が激化するなか、彼は兄のアランらとでナチに親を殺されたユダヤ人の子どもたち123人の世話をします。悲しみと緊張に包まれた子どもたちにパントマイムで笑顔を取り戻させます。それでもナチの勢力は日に日に増大し、1942年、遂にドイツ軍がフランス全土を占領します。マルソーらは、険しく危険なアルプスの山を越えて、子どもたちを安全なスイスへと逃がそうとします。

マルセル・マルソー

「戦時中だからこそ、子ども達を笑わせたい」「真の抵抗とは人を殺すことではなく、命を繋ぐこと」と映画の中でマルソーは言います。「芸術とは、見えないものを見えるようにし、見えるものを見えないようにする」とも言います。この考え方はまさに彼のアートそのものであり、彼が子ども達を救おうとしたシーンにも表れています。

【話の泉ー笑い】 その四十四 パントマイム その4 マルセル・マルソー

1998年に日本でも公演したことのあるマルセル・マルソーのことです。彼は、パントマイムという芸術形式における第一人者で、近代パントマイムの歴史で最も有名な演者の一人といわれます。マルソーは、5歳のとき母に連れられてチャーリー・チャップリンの無声映画を見たことがきっかけで俳優を志したと回想しています。やがて演劇や身体を使ったパフォーマンスを学びます。

Marcel Marceau

ちなみに映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis)のバチスト役(Baptiste)で世界的に有名になるジャン・ルイ・バローは、マイム研究家であったエチエンヌ・ドゥクルー(Etienne Decroux)の生徒でした。マルソーはバローが立ち上げた劇団に参加しますが、バローが映画を中心とした活動になり、マルソーはパントマイムを追求するためにバローから離れます。マルソーはこの劇団のパントマイムのバチストで演じた道化役で好感触を得たことを弾みに、最初の無言劇(mimodrame)『プラクシテレスと黄金の魚–Praxitele and the Golden Fish』をサラ・ベルナール劇場(Sarah Bernhardt Theater)という所で公演し高い評価を得るのです。

Marcel-Marceau

1947年には、マルソーの代名詞ともいえるキャラクター「Bip」を名乗ります。「Bip」は白く塗られた顔、よれよれのシルクハット、帽子に力なく飾られた花、ストライプのシャツなどはパントマイムの一般的なイメージとして認知されるほど、大衆にアピールします。言葉を発せず体ひとつで表現されるそのパフォーマンスは高い評価を受け、とりわけ有名な『若さ、成熟、老年そして死』(Youth, Maturity, Old Age, and Death)と呼ばれているパフォーマンスは有名となります。このパフォーマンスについて、評論家は「彼は小説家が何冊書いても表現しきれない世界を2分で表現してしまう」と言ったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十三 パントマイム その3 道化役とピエロ

コンメディア・デッラルテが衰退すると、その遺産を取り入れた道化芝居がフランスで発達していきます。現在の道化役(ピエロ: pierrot)のイメージ、白塗りでちょっととぼけたキャラクターは、この時期のフランスの道化芝居から生まれたものといわれます。その後、時代の流れとともに19世紀後半にはこのような道化芝居も衰退していきますが、その流れを取り入れたジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)などが身体技法としてのパントマイムを洗練させていきます。やがてバローの生徒として、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)が登場します。マルソーは後に「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれ、今日のマイムの大衆化に大きな貢献をしたといわれます。そしてパントマイムを「沈黙の芸術–Art of Silence」として確立するのです。

Street Performance

ピエロとかクラウン(Clown)は、西洋の道化役のことです。原型はイタリアの即興喜劇コメディア・デッラルテの、のろまでずうずうしい居候の道化役ペドロリーノ(Pedrolino)です。17世紀後半にパリのイタリア人劇団によってフランス化され、白いだぶだぶの衣装を着て顔を白塗りにし、円錐形の帽子,黒い仮面、鳥の嘴のような大きい鼻を持ちシルクハットを被った小柄な老紳士プルチネラ(Pulcinella) が登場します。おそらくペドロリーノの後身であるピエロ〈悲しき道化〉だったようです。

Performer and Children

ピエロは、男子名ピエール(Pierre) の愛称を名のって、歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸などのボードビル (vaudeville)やバレエで活躍します。19世紀にはボヘミヤ(Bohemia) 出身のパントマイムの名優ドビュロー(De Bureauがこの役柄をさらに洗練して、まぬけだが繊細なロマンチストで恋に悩み哀愁に満ちたピエロ像を完成していきます。またサーカスでは、より活動的な役柄であるプルチネッラ (Pulcinella)や即興劇のアルレッキーノ(Arlecchino)の要素が加えられ、イギリスのクラウンとも混ざり合って、ひだ付きの襟飾りと目や口の周りの赤い化粧が強調された道化師となります。そのいずれもが多くの作家や画家の題材にもなり、笑いのキャラクターとして定着していきます。

【話の泉ー笑い】 その四十二 パントマイム その2 コンメディア・デッラルテ

現代のパントマイムといえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)の無声映画を思い浮かべます。サイレント作品「街の灯:City Lights」は、盲目の女性との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなったことは、すでにこのシリーズで紹介しました。丁度トーキーの波が押し寄せる頃です。英語圏においては、パントマイムという単語は、主にクリスマスに子ども向けに演じられるコメディ要素の強い伝統的演劇を指すようです。

City Lights

今日私たちが知っているパントマイムに強い影響を与えたものとして、ルネサンス期(Renaissance)のイタリアの即興喜劇で起こったコンメディア・デッラルテ(Commedia dell’arte) が引用されています。デッラルテとは、今で言う旅芸人一座のことです。ヨーロッパ全土を放浪し大道芸を行ったといわれます。ヨーロッパの各地を訪れるのですから、言語の壁を乗り越える必要がありました。そうしてパントマイムの技法が洗練されていったようです。

Limelight

コンメディア・デッラルテは観客を楽しませるために様々な手段を使ったようです。演技は誇張され、やがてラッツィ(Razzi)と呼ばれる独特の笑いのテクニックも編み出されていきます。時にはパントマイムやジャグリング、アクロバットなどの身体表現も交えて演じられます。仮面を使用する即興演劇の一形態で、演じる内容の多くは時代や社会の風刺喜劇が中心であったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十一 パントマイム その1 その語源

話の泉は、パントマイムという「沈黙の芸術–笑い」へと展開していきます。週末、ヨーロッパやアメリカの大都会の繁華街を歩くと、必ずといってもよいほど大道芸(ストリートパフォーマンス;street performance) に出会います。ジャグリング(juggling)もそうです。台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態で黙劇とか無言劇とも呼ばれる「パントマイム」(pantomime)も見かけます。

大道芸人

パントマイムでは、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現します。特異な服装や化粧をして全く身じろぎをしないパフォーマンスにも会い、子ども達を驚かせたり喜ばせたりします。

パントマイムの語源をWikipediaから引用します。パントマイムとは「全てを真似る人」「役者」を意味する古典ギリシア語 「pantomimos」とあります。古代ギリシアの頃のパントマイムは、演劇の一演目という扱いだったようで、今とは違い仮面舞踏に近いものだったといわれます。

「泣き笑いして我がピエロ」(堀口大学)

パントマイムをする人を、パントマイミスト(pantomimist)、マイマー(mimer)、パントマイマー(pantomime)などと呼びます。英語圏ではマイムアーティスト(mime artist)という呼びかたもあるくらいです。イギリスでは18世紀以降、台詞のある滑稽劇として独特の発展を遂げ、クリスマスの風物詩となるくらい人気がでます。

【話の泉ー笑い】 その四十 真打ち「話の泉」 その5 「二十の扉」

「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、ゲーム性をとことん追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

司会者の藤倉修一

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。

レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

二十の扉

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、とことんゲーム性を追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。

【話の泉ー笑い】 その三十九 「話の泉」 その4 司会者

放送番組に欠かせないのが司会者です。特にトーク番組はそうです。徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、1946年から1964年の間にかけて、タレントとしての才能も高い人気地位を保ちます。

第1回の放送では徳川夢声が司会を担当します。出場者は、サトウハチロー、中野五郎、中野好夫、堀内敬三でした。徳川夢声はもとより自他共に認める鉄道ファンであり、「話の泉」での共演者からは「彼のモノ知りは非常に本格的なのである」と評されたようです。多くの著名人とのインタビューを通して博識が育まれたようです。司会者と回答者、丁々発止のやりとりが聴衆者に受け入れられます。ということは、この番組は「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、回答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったとわれます。

中野好夫

徳川夢声は、最初は無声映画の弁士で知られるようになります。しかし、トーキー映画の登場により活弁の仕事が無くなると、ラジオやテレビの司会者・俳優・作家として活躍し、持ち前のユーモアと博識で人々に愛されます。特に吉川英治作「宮本武蔵」の朗読で国民的人気を得ます。

回答メンバーは、自他ともに「雑学」という知識の持ち主と自負?していたようです。「話の泉」のメンバーは諸事に詳しいことが要求されます。そこで「偏学」という用語も使われてきます。メンバーの人々自らもその知識は偏っていると認め、大学教授のようないわゆる学者バカを「偏学」というべきだ、と広言してやまないような文化人です。

堀内敬三


徳川夢声の後を引き継いだ司会者が和田信賢です。一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を高め、司会者としての人気は絶頂期を迎えます。後に不世出の名アナウンサーと呼ばれるほどでした。その後は高橋圭三らが担当します。 回答者には、堀内敬三、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、大田黒元雄、春山行夫といった当時の知識人・著名人たちです。彼らの当意即妙のユーモアを加えるところに、その知性の高さを聴衆者に感じさせたものです。

【話の泉ー笑い】 その三十八 「話の泉」 その3 知的な推理ゲーム

「話の泉」は、わが国のクイズ番組の嚆矢であり、知的な推理ゲームとして定着し18年間873回続きます。ラジオが全盛期の頃です。そこには、クイズ番組を面白くする要素がありました「話の泉」に含まれる構成要件は次のようなものです。
1 リスナーを巻き込む    本番組の場合は問題投稿・公開放送とする
2 クイズをしている人を見せる   本番組では解答者と司会者の軽妙なトークをいれる
3 難問奇問を選定する   問題のジャンル調整しリアクションのとりやすい問題を選ぶ
4 名司会者を配置する   回答を引き出す助けもする

話の泉-公開放送

今、思えば現在ではわざわざ指摘する必要がないくらい当たり前な構成要件です。ですがテレビと違いラジオ番組ですから、リスナーがイメージを形成するような質問と応答であることが大事でした。聴覚からの情報によって、いかにして笑いを形成するかに関して番組製作者と司会者は苦労したことと察します。

問題は全国から募集し、集まった問題を番組製作者らがしぼります。公開録音の前日に司会者と番組製作者でそこからが13通位を選びます。一般常識、文芸、スポーツ、音楽、科学、社会、地理、歴史など、あらゆる分野に平等に行きわたるように按配したようです。放送されるクイズ問題に正確を期するために、事実関係を確認する「ウラ取り」をしたかどうかです。今のように正確さや厳密さが求められることからすると、放送直前に「ウラ取り」するというのは考証が不足するという懸念が浮かびます。