最近の政治状況の中では、いろいろなフレーズが飛び交っています。こうしたフレーズは、迷言とか妄言とも呼ばれ、揶揄や笑いを呼んでいることに気がつきます。この有様は政情が不安であることの一つの証です。揶揄の中心にあるのは一国の総理大臣です。国際会議でスマホをいじったり、各国の首相がやってきたとき座ったまま握手をするとか、新人議員に10万円の商品券を配り、それを追求されて「自分を見失っていたところがあった」「世間の感覚と乖離があった」「そういう政治なのかい、という思いを抱かせてしまった」などの発言です。このような国会における答弁は「ひねくれたわんぱく小僧の言い訳」と批判されています。そして、こうした総理大臣の発言や態度は「小児病的」だと揶揄されるのです。
このような小児病化状態を危惧したのは、オランダの哲学者のヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga)です。彼は著書「ホモ・ルーデンス」(Homo ludens)(遊ぶ人)の中で、こうした小児病化状態を」ピュエリリズム( Puerilisme–小児病)」と呼びます。Puerilismeという言葉は、ラテン語の「puer(少年)」に由来します。これを、日本では「文化的小児病」と訳されています。この単語を使ったのは評論家で東大教授であった西部邁です。著書「虚無の構造」の七章「言葉について-失語の時代」で「言葉の小児病化」についての記述があります。「文化的小児病」は、生理的小児病とは何の関係もなく、あくまで文化的な幼稚症のことを指しています。
ホイジンガは1933年にライデン大学学長就任演説をします。その演説は「文化における遊びと真面目の限界について」というものです。「ホモ・ルーデンス」でのルーデンス(Homo ludens)という概念はラテン語の「遊び」概念です。「ホモ・サピエンス」(Homo sapience)」「知恵のある」という概念を結び付けられています。この著作の第五章は遊びと戦争、敵に対する礼節、儀式と戦術、第七章は遊びと知識、競技と知識、そして第十章の芸術のもつ遊びの形式という箇所に注目していきます。
ホイジンガは、社会に蔓延する小児病的な特徴を指摘しています。その小児病性を総理大臣の発言に照らして考察してみます。一国のトップである者の発言がいかに稚拙であるかがわかってきそうです。
1 ユーモアの感覚の欠如:
「お土産代合計の150万円はポケットマネーからの支出」「総理の仕事は天命である」「政治家は信念を持ち、嘘をつかないことが大切です」
2 反感を秘めた言葉、ときには愛情を込めた言葉に対しても、誇張的な反応の仕方をすること:
「そういう政治なのかい、という思いを抱かせてしまった」
3 物事にたちまち同意してしまうこと:
「世間の感覚と乖離があった」「政治家は、信念を持ち、嘘をつかないことが大切です」
4 他人に悪意ある意図や動機があったのだろうと邪推して、それを押しつけてしまうこと:
「デモはテロ行為と本質的に変わらない」「集団的自衛権は、戦争をしかけられる確率を低くするための知恵」
5 他人の思想に寛容でないこと:
「総理の仕事は天命である」「絶叫デモはテロ行為と変わらない」
6 褒めたり、非難するとき、途方もなく誇大化すること:
「懇親会も先の総選挙の慰労を兼ねたプライベートなもの」「嘘を言ってまで当選するくらいなら、落ちたほうがいい」
7 自己愛や集団意識に媚びる幻想に取り憑かれやすいこと;
「自分を見失っていたところがあった」「ゆっくり物事を考えたり、自分の自由になる時間が少し欲しい」
本来ならば、文化的小児病はヨーロッパやアメリカ、日本など成熟した国々において取り上げられてはじめて、なるほどと理解されます。揶揄とやユーモアは、成人した国民の間で通用するからです。文化的小児病は、二つの側面があります。一つは、まじめで重要な言動と目されながら、それが全く空疎な遊びとしての性格を帯びている場合です。もう一つは、確かに遊びと目されてはいるのですが、その言動の態様からして、真の遊びとしての性格を失っている場合です。
ホイジンガは、こうした小児病的特徴の多くは過去の各時代の中にもおびただしく見出されるとし、ある種普遍的だといいます。さらにこの症状は今日のあらゆる場に広まり、それが膨れあがって大きなうねりと化したり、エンタテインメント化し、残酷さと結びついたりしている、と警告するのです。「遊び」の文化的小児病の特徴はマスメディアによって担われているとし、政治、娯楽、スポーツ、そして家庭が、叩いたり追いかけたりして体を張った演技ーースラップスティック・ショウ(slapstick show)(ドタバタ芸)となっているというのです。
1918年にホイジンガはアメリカ紀行を綴った「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」という本を書いています。ホイジンガはこの旅行体験をふまえて、アメリカにはピュエリリズムの特徴に関する「文明、哲学、人間関係、公の言論、社会的価値など、ありとあらゆる種類の検討材料」が揃っていると観察します。「ヨーロッパでは子どもっぽいといわれることが、アメリカではナイーヴ〔素朴〕なことである場合がたくさんあると観察し、真のナイーヴさはピュエリリズムの非難を免れるというのです。まだまだ、アメリカには「遊び」の真面目さ、厳粛さ、神聖さを伴ったフェアなものが見られると主張します。遊びには秩序(ルール)を守る心の余裕が必要であるが、アメリカにその余裕が見られるというのです。この見方には異論もあろうかと思われます。
ホイジンガの提案する「遊び」の形式的な特徴は次のようなものです。
1 自由な行為: 強制されたり命令された遊びは遊びではない。自発的な行為でなければならない
2 仮構の世界: 日常生活の枠外にある。仕事や学業に結びつけてはいけない。
3 場所的、時間的な限定性をもつ: 定められた時間と場所の範囲内で行われ終わる。一過的な行為とする。
4 秩序を創造する: 規則(ルール)を厳守する。規則が犯されると遊びは成り立たない。
5 秘密をもつ: 小さな秘密を作ることで魅力を高める。私的な行為であり、誰にも干渉されたり助言されることはない。
ホイジンガの提案する「遊び」の機能面からの特徴は次のようなものです。
1 なにかを求めての戦い: スポーツ、チェスなどの競争でスリルや目眩を楽しむ。
2 なにかを表す演技: ごっこ遊び、音楽や演劇などで自由な創造を楽しむ。
ついでですが、フランスの文芸批評家で社会学者であるロジェ・カイヨワ(Roger Caillois) は、遊びを「競争」、「偶然」、「模擬」、「眩暈」の4つの要素に分類しています。カイヨワはこれらを「基本範疇」と呼び、遊びの多様性を分析するのです。それぞれの遊びは〔遊戯=原初的なもの〕のレベルから〔競技=組織的・制度的なもの〕へと進化していくと考えます。カイヨワはもちろんながらホイジンガの著作を知っていたことが伺えます。カイヨワは、戦時中は反ナチ文書の執筆者・編集者としてラテン・アメリカ(Latin America)におけるナチズム(Nazism)の浸潤と戦った経歴があります。カイヨワとホイジンガは、反ファシズム(Antifascism)などの左翼的政治活動に関わることで共通しています。
ホイジンガは、二つの機能を有する遊びには「祭祀」という性質があると主張します。祭祀とは宗教的儀式のことであり、そこには「聖的な感覚」や「厳格な規則」が存在し、それが人々を魅了するというのです。この意味は難しいのですが、キリスト教会の礼拝に出席すると荘厳さの中に恍惚のような気分を味わうことがあります。宗教的儀式の中から「厳格な規則」、つまり静粛さ、賛美歌斉唱、聖書朗読といった典礼が消え失せてしまったら、それは宗教的なものではなく、単なるお祭り騒ぎになってしまうだろうとも指摘するのです。
「真の遊び」について、ここでは「非日常的な時間と空間で厳密なルールの下に行われるあそび」と理解しておくことにします。ホイジンガはナチスが勃興する1930〜40年代のヨーロッパのことを書いているわけですが、ナチスのおおげさな「ガチョウ足行進」のような歩調にみられるような動作は、空しい遊びとしかいいようのないものだ、と断言するのです。彼はナチス批判を行った廉で、オランダに侵攻したナチスドイツによって強制収容所に収監された経験があります。同じ制服に身を包んだ兵隊が一糸乱れぬ行進をする光景は、おもちゃの兵隊を並べて楽しむ幼児的な悦びではないかとも観察するのです。
子どもが遊んだおもちゃの兵隊や戦車の代わりに本物を前にして、壇上のヒトラー(Adolf Hitler)もムッソリーニ(Benito Mussolini) もほのかな笑みを浮かべて引見する写真があります。独裁者には晴れ晴れしく気持ちが高揚したでしょうが、「ガチョウ足行進は、空しい贋(まがいもの)の遊びとしかいいようがない」とホイジンガはナチズムを断罪するのです。
スポーツについてのホイジンガの考察です。スポーツは「遊び」です。たかがスポーツなのに勝ち負けで泣いたり怒ったり癇癪を起こす幼児のような反応は、遊びの堕落だというのです。こうした文化的小児病の典型、それは「勝負にこだわりすぎて、精神的なものをすっかり隅に押しこめてしまう」とも主張します。「聖なるもの」や「聖的な感覚」が薄れ、スポーツニュースも歪んだ内容となり、「遊びとまじめの混淆」する姿であるというのです。
こうした精神状態は「集団組織の画一化作用のみによってもたらされるのではなく、技術の発展それ自体が文化的小児病をつくりだしている」とホイジンガは言います。当時普及しつつあったラジオのことに触れて、彼は次のように指摘します。「ラジオという機器を通じて一つの大陸を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生が彼のほうにやってくる。」
ホイジンガの眼に映った1930年代末のヨーロッパ、それは「一つの高度で豊かな文明が、発生的にみて疑念の余地なく低劣で未組織の他の文明に次第次第に席を譲り渡していく事態であったというのです。「遊びとまじめの混淆」の結果、日本に限らず世界に広がる光景を見ればよく分かるはずです。ラジオはテレビになり、テレビはインターネットへとテクノロジーは発展してきましたが、その技術の発展によって人間は果たして成熟していくだろうかと疑問を投げかけているようです。
子どもっぽいことと呼んで当然のことなのに、一総理大臣のような高度のまじめさを装う姿は、まるでひねくれたわんぱく小僧の発言としか評価の下しようがありません。こうした政治家の発言や演説は別に珍しくもなく、また今に限ったことでもありません。
ホイジンガが回避しようとした大衆化の道は今も延長されているようです。たとえば「大衆目当ての宣伝の作りだす流行の行き過ぎた滑稽な繰り返しの道を我々は歩いている」と主張します。遊びが日常生活のなかに侵入し、それにつれ遊びのルールは、曖昧になり、今やスマホのボタンを押しながら、現代人はこの機器やインターネットを玩具として遊んでいるのは、ホイジンガや西部邁がいう「文化的小児病」の姿かもしれません。
参考文献
「ホモ・ルーデンス」 ヨハン・ホイジンガ 講談社学術文庫、2018
「虚無の構造」 西部邁 中央公論新社、2013
「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」Johan Huizinga Harper & Row、1972
「遊びと人間」 ロジェ・カイヨワ 岩波書店、1970
