ウィスコンシンで会った人々 その85 放蕩息子噺 「唐茄子屋政談」

落語にはいろいろな人物が登場する。だが地噺にでてくる人物は別として、あまり真面目で正直者はでてこないことになっている。真面目な者は話芸によって描くには難しい人物なのだろうと察する。

放蕩息子には二種類いるようだ。自堕落で遊びまくり最後は身を持ち崩す者。「お天道様と米の飯はついてくる」というお定まりの捨て台詞を吐く。だが「米の飯はついてこない。」空腹で満たされない人生、家畜にも劣る惨めさ、誰も助けてくれる者のない孤独を味わう。

もう一種類は、放縦の限りを尽くすが、やがて悔い改めまっとうな暮らしに戻る者である。新約聖書ルカの福音書15章にも放蕩息子と父親の話がある。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」。共通しているのは、現実からの逃避。この現実というのはどこにいっても必ず陰のようについてくる。それに直面し決断するか否かが問われる。

空け/虚けといった放蕩息子のほとんどは商家の若旦那。官許の吉原で道楽をして勘当される。紹介する演目は「唐茄子屋政談」。若旦那の徳三郎。吉原の花魁に入れ浸りで家の金を湯水のように使う。親父も放っておけず、 親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

「勘当けっこう!」捨て台詞を残して徳三郎は家を飛び出る。その足で花魁のところに転がり込み相談するが金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、叔母の家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。 まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。

土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。つくづく生きているのが嫌になり、身投げの「名所」で知られた吾妻橋から飛び込もうとすると通りかかったのが、本所の達磨横丁で大家をしている叔父。止めようとして顔を見ると甥の徳三郎。

叔父 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな!」
徳三郎 「アワワ、、、助けてください」
叔父 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
徳三郎 「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
叔父 「ざまあみやがれ!」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺す。翌朝叔父は唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。「今日からこれを売るんだ」格好悪いとごねる徳三郎を 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 と叱りつけ、天秤棒を担がせると送りだす。徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ動けない。

見かねた近所の長屋の衆が同情し、 住人に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。田原町の田んぼに来かかると、 吉原の明かりがぼんやりと見える。後悔と回心の念が広がる。

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ウィスコンシンで会った人々 その84 心中噺 「品川心中」

心中の別称は情死。広辞苑によると「相愛の男女が一緒に自殺すること」とある。落語にも心中の演目がいくつかあるが、心中を遂げられない、どたばたした劇が展開されることが多いようだ。真剣に思いつめた男女ではない。「品川心中」もそうである。

江戸時代、品川は岡場所。道中奉行から500人の飯盛り女を置くことが許されていた。実際にはその数倍がいたらしい。品川は海のそば、東海道の宿場であった。幕末、品川の女郎屋は尊皇攘夷や倒幕を目指す志士の集まりの場としても栄えた。初代英国領事館が開設されたのも品川。海という地の利が働いたと思われる。今も江戸時代と変わらぬ道幅が「旧東海道」として残っている。

今回紹介するのは「品川心中」である。品川の筆頭女郎に「お染」がいる。歳も歳となりそろそろ「紋日」という移り代え、客寄せの集まりをしなければならない。「紋日」は自分がするのではなく、馴染みの客がしてくれる風習であった。そこでスポンサーを探すが誰も返事をくれない。勝ち気なお染は恥をかくくらいなら死のうと決心する。一人で死ぬのも情けない、誰か心中につきあってくれる者がないかを探すのである。

あれこれと客を物色する。女房子や祖父母がいない者といった心中の条件に合うのが中々いない。そこに貸本屋の金蔵に白羽の矢がとまり、手紙を書く。早速金蔵がやってきて二人は心中の約束をする。金蔵は世話になっている親分にこの世の暇乞いをする。遠い西のほうへ旅に出るという。帰ってくるのは盆の13日とか、頓珍漢なことを言う。

いざ心中の夜、お染に急かされるが金蔵はカミソリで首を切るのを嫌がる。「喉元は急所だからいけねェ」などと喚く。仕方なく二人は桟橋へ行く。風邪をひいているといってためらう金蔵をお染は突き落とす。お染も飛び込もうとするとき、店の若い衆が「紋日の金ができた、、」と知らせにくる。お染は海に向かって「ねェ金さん、あたし金ができたの。死ぬのを少し見合わせるね。いずれあの世でお目に掛かりますから、、、ここで失礼します。」失礼極まりない、、、

金蔵は桟橋の柱に捉まり、一晩中仰向けに浮いている。ところが品川は遠浅。見ると膝までしか水がない。金蔵は欺された自分にも呆れる。

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ウィスコンシンで会った人々 その83 清貧さと人情噺 「井戸の茶碗」

清廉さ、清明さ、正直さに溢れる人情噺がある。貧しいながら人それぞれの矜持を誇りとする姿は、奥深い笑いをもたらしてくれる。善意に少しも臭さがなく爽やかな話がある。その代表的なものの一つが「井戸の茶碗」という演目である。

茗荷谷に住む紙屑屋で正直者の清兵衛。いつものように流し歩いている。なりは粗末ながら上品な娘に声をかけられる。招かれて裏長屋へ行くと、その父親、千代田卜斎から、くずの他に時代のついた仏像を二百文で引き取ってもらいたいと頼まれる。仏像に目利きがない清兵衛は断るが、結局二百文で引き取り、それ以上で売れた場合は、儲けの半分を持ってくると約束する。

仏像を籠に入れ、街を流していると、若い勤番の高木佐久左衛門に声をかけられる。「カラカラと音がするから、腹籠ごもりの仏像だ。縁起が良い」と言い、清兵衛からその仏像を三百文で買い上げる。

佐久左衛門が仏像を磨いていると、台座がはがれ中から五十両もの小判が出てくる。佐久左衛門は「仏像は買ったが、中の五十両まで買った覚えはない。金で金が買えるわけがない。仏像を売るくらいであるから暮らし向きも逼迫しておられよう。元の持ち主に返したい」といって屑屋の清兵衛探しを始める。

ようやく清兵衛を探し出す。佐久左衛門から事の顛末を聞き、清兵衛は卜斎の元へ五十両を持っていく。卜斎は五十両を前にして、「仏像を売ってしまったのだから、中から何が出てきても私のものではない」と受け取らない。

清兵衛は佐久左衛門へ五十両を持って帰るが、こちらでも受け取るわけにはいかないと突っ返され、困り果ててしまう。裏長屋の家主が仲介役に入り、「千代田様へ二十両、高木様へ二十両、苦労した清兵衛へ十両でどうだろう」と提案する。

しかし、卜斎はこれを断り受け取らない。「二十両の形に何か高木様へ渡したらどうだろうか」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、卜斎は二十両を受け取る。

この美談が細川家で話題になり、佐久左衛門が殿様へお目通りを許される。殿様は茶碗も見てみたいと言われる。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨き、殿様へ差し出した。すると、側に仕えていた目利きが「青井戸の茶碗」という新羅か高句麗の産で、一国一城に値すると鑑定する。殿様はその茶碗を三百両で買い上げる。

「このまま千代田様へ返しても絶対に受け取らないであろうから、半分の百五十両を届けて欲しい」と佐久左衛門は清兵衛に頼む。しかし清兵衛は断るが、しぶしぶ卜斎に百五十両を持っていく。卜斎はまたも受け取るわけにはいかないと断る。困り果てた清兵衛を見て、「今までのいきさつで高木様がどのような方かはよく分かっておる。娘は貧しくとも女一通りの事は仕込んである。この娘を嫁にめとって下さるのであれば、支度金として受け取る」と言う。

清兵衛は佐久左衛門の元へ帰り経緯を伝えると、千代田氏の娘であればまずまちがいはないだろうと、嫁にもらうことを決める。

清兵衛 「今は裏長屋で粗末ななりをしている娘ですが、こちらへ連れてきて一生懸命磨けば、見違えるようにおなりですよ」
佐久左衛門 「いや磨くのはよそう、また小判が出るといけない」

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ウィスコンシンで会った人々 その82 親子噺 「抜け雀」

親子の情を謳った噺も落語の大事な話題となっている。「抜け雀」はその代表作といえる。絵師の親子と芸の秀逸さの話でもある。

旅の途中、若い男が小田原宿に差し掛かる。風体が貧相なせいか、呼び込みの声がかからない。ようやく小さな旅籠の主人に声をかけられ投宿することになる。この男、朝昼晩一升ずつの酒を飲み、昼間はただ寝るだけ。旅籠のかみさんが困って、内金をもらってこいと気弱な亭主の尻をたたく。ところがこの男一銭も持ち合わせていない。主人がきくと、自分は絵師だという。旦那は看板描きと勘違いする。そして「宿値賃のかたに絵を描いてやろうか」と新しい衝立に目をとめる。

衝立に描いたのは五羽の雀。宿の主人はそれを見て
 主人 「これはなんです?」
 侍  「お前の眉の下にあるのはなにか、、」
 主人 「眼です。」
 侍  「これが見えないくらいなら銀紙をはっておけ!」

そして、五羽で五両だと説明する。この衝立は、今度宿賃を払うまで誰にも売るではないと言い聞かせて出立する。

翌日、掃除をしようと二階に上がると雀の鳴き声がする。窓を開けると衝立から雀が飛び出していく。暫くすると、雀が衝立に戻ってくる。この話がひろまり、大勢の客が雀を見ようと押し寄せる。ある大名がこの衝立に二千両の値をつける。

やがて人品の良さそうな侍がやってくる。この男、かつて雀を描いた絵師であった。衝立に鳥籠が描かれ雀は元気にしている。主人から、「ある老人がきて鳥籠と止まり木がないと雀は死んでしまうといって、それを付け加えていった」というのである。それを聞いた侍、
「ご壮健でなによりです。不幸の段、お許しを」
と衝立の前にひれ伏す。きいてみると、鳥籠と止まり木を描いたのは絵師の父親であるという。
 侍 「俺は未熟で、不幸者だ、、」
 主人 「どうして?」
 侍 「衝立を見よ、俺は親父をかごかきにした。」
親子揃って名絵師という噺である。
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もう一席、「親子酒」。ある商家に共に酒好きな大旦那と若旦那の親子がいる。息子の酒癖が非常に悪いということで、父親が心配し、「お前だけに酒を止めろとは言わない。共に禁酒をしよう」と話をする。 息子も承知し、しばらくは何事もなかった。2週間ほど経つと、他に楽しみのない父親は酒が恋しくなる。息子が出かけていたある晩、女房に頼み込み、遂に一杯、二杯、三杯とせびって飲み始める。甘露、甘露と独酌の挙げ句ベロンベロンになる。

気分が良くなっているところへ、息子が帰ってくる。慌てて場を取り繕い、父親は「酔っている姿など見せない」と、息子を迎えるが、帰ってきた息子も同様にしたたかに酔い上機嫌であった。 呆れた父親が「何故酔っているんだ」と問うと、「出入り先の旦那に相手をさせられました。酒は止められませんね」などと言う。父親は
「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合をやってしまう。

父親、女房に向かい、
「婆さん、こいつの顔はさっきからいくつにも見える。こんな化け物に身代は渡せない!」
すると息子は、
「俺だって、こんなグルグル回る天井の家なんていりませんよ!」

親子で酒を呑むのが一番幸せな時である。筆者にも父親と一緒に杯を傾けた大切な光景が浮かんでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その81 寿司屋噺

「転失気」の話題の後に食べ物の噺で、ちと憚るが読んでいただきたい。まあ、食事と「転失気」は因果関係があるのでどうしても落語の演題からはずせない。

古典落語にはいろいろな食べ物が登場する。寿司、鰻、秋刀魚、鯉の洗い、蕎麦、蒲鉾、うどん、雑炊、納豆、卵焼き、おから、おでん、湯豆腐、冷奴、煮付け、天ぷら、たくあん、さらに饅頭や羊かん、せんべいまで登場する。新作落語とか創作落語にもいろいろな食べ物がでてくる。だが「寿司」は「鰻」と並ぶダントツの人気といえよう。江戸といえば寿司。江戸の郷土料理といわれきた。

江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。東京湾の魚介の豊富さが売り物であった。白魚もとれたという。アサリや海苔もとれた。遠浅の干潟を抱えた天然の漁場だったのが江戸前の海、東京湾である。加えて近隣の野田からは、生魚に合う濃口醤油が運ばれていた。

「寿司屋水滸伝」は握りずしを中心とした寿司屋での噺である。ある寿司屋で、唯一の寿司職人がやめると言い出す。亭主は洋食を修行したが、父の店を継ぐために帰ってきた男。粋な寿司商売にはあわない気質であった。再三の説得にもかかわらず、職人はやめてしまう。仕方なく、自分で寿司を握るが、包丁の使い方もままならない。客がそれをみて、「魚を切るなんて素人でも出来る」というと、別の客がその男をたしなめ、自分でトロを切ってみせる。素晴らしい腕前、「トロ切りの政」というプロだ。そしてこの店で働くことになる。

別の客からイカの刺身を注文されるが、政はトロしか切れないというので、客から文句が。そこへ出てきたのが「イカ切りの鉄」という男。この男も雇うことになる。このようにして、それぞれのプロを雇っているうちに厨房が狭くなってしまう。

しかし、長く続かず寿司屋は廃業。洋食屋をはじめる。ある日、カツカレーの注文。客から、「油がきれてなくて肉も固い」との文句。こんなカツカレーに金は払えないとも言い出す。聞けば客は「トンカツの秀」というプロ。逆に金を請求する始末。亭主は「そんな金まで請求した人ははじめだ。何でそんな。」「だから言ったろ、金よこせってんだよ」「トンカツの秀さん、、、そんな。ああ〜なるほど、カツアゲがうまいわけだ」

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ウィスコンシンで会った人々 その80 言葉遊び噺 「転失気」

言葉遊びというか下ネタ噺の演目である。医者が言う単語の意味がわからないのに、博学多識を自負する和尚を笑う演目である。小僧とのやりとりが絶妙だ。物事を婉曲に表現する粋な言葉を知らないで、赤恥をかくという内容だ。

体調のすぐれない寺の和尚が、往診に訪れた医師から「てんしき」があるかないかを尋ねられる。和尚は「てんしき」が何かわからず、「あったような、ないような、、」と答えてその場をとり繕う。そこに小僧の珍念を呼んで、それとなく尋ねることでなんとか「てんしき」について知ろうとする。

和尚 これ、珍念や、、、
珍念 へぇ、お呼びでございますか?
和尚 ん、今、先生がお見舞いをしてくださいましたな、
珍念 へぇ
和尚 あの折「テンシキはございますか?」と、お尋ねでしたな
珍念 へ、聞ぃておりました
和尚 で、珍念、テンシキを存知おるか?
珍念 知りません
和尚 知りません?確か、前に教えたはずじゃろ
珍念 忘れました、教えてください!

和尚は「ここで『てんしき』について教えてもよいが、それではお前のためにならない」とうそぶき、珍念を医師宅へ調合薬を取りに向かわせる。ついでに近所を回って「てんしきを借りてくる」ように命じる。

ところが聞く人がみな知ったかぶりをして雑貨屋は「珍念さん、棚の上から落ちて割れてしまった」、石屋は「鼠がでてきて壊したので味噌汁の実にして食べてしまった」など、ちんぷんかんぷんな説明をするため、「てんしき」が何であるのか珍念にはわからない。珍念が医者に聞くと、「放屁」「おなら」「屁」だという。それでもわからない珍念に医師は説明する。「てんしき」は「転失気」で、「気を転(まろ)め失う」と中国の医書に出てくるという。珍念納得し、和尚も雑貨屋も石屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたことが分かる。

寺に戻った珍念、和尚に仕返しをしようと、「てんしきとは盃のことでした」と話す。和尚も「その通りだ、盃のことだ!”呑酒器”と書くのだ、よく覚えておけ!」と相変わらず知ったかぶり。そして大団円が待っている。

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ウィスコンシンで会った人々 その79 童の知恵噺 「真田小僧」

以前、「佐々木政談」という演目を紹介した。お白洲遊びをしている子供達の頓智に感心した南町奉行佐々木信濃守と賢しいガキとのやりとである。このガキはやがて近習に取り立てたられるという目出度い噺であった。白洲とは江戸時代の法廷。下段に「砂利敷」が設けられ、原告や被告が座る。砂利が白かったかどうかは不明ではある。

今回紹介するのは「真田小僧」という演目である。こましゃくれた子供が父親から小遣いをせびるためにあの手この手のゴマすり、それでもダメだと分るとおっかさんが父親の留守に男を家に入れたと浮気を匂わせる。その男は白い服をきてサングラスを掛け白い杖をついているというのだ。父親はすっかり欺され、小遣いを渡す。それを受け取ると、「その人はただの按摩さんでした」と言って逃げ出す。

湯から戻ってきた女房に父親が息子に銭を巻き上げられた話をする。知恵のあるのは結構だが、どうせなら真田昌幸の息子、真田幸村のように知恵で父親の絶体絶命のピンチを救うような息子になって欲しい、といって真田六文銭の旗印の由来を語る。

最初の銭を使い果たして玄関に潜んでいた子供は父親の話を一度で覚えて披露する。六文銭とはどういうものか、と父親に尋ねる。父親は銭を6枚並べて説明し始めるが、息子はその銭をかっさらって家から飛び出す。その子に向かって父親が「何に使うのか?」と聞くと息子は「焼き芋を買うんだ」と答える。そこで父親は「あいつも薩摩に落ちた、」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その78 童噺 「子別れ」

古典落語の大作に「子別れ」がある。酒呑み、女房、子供、大工、弔い、神田、長屋、浮気、吉原、女郎、鰻、元の鞘、鎹等々、落語の全ての舞台が揃っている。

神田大工町の長屋に熊五郎が女房、一人息子の亀と暮らしている。腕の良い大工職人なのだが、大酒呑みである。山谷でのある弔いの帰り、その足で精進落だと吉原で遊ぶ。そして数日後長屋に戻ってくる。おかみさんは黙々と手仕事をしている。決まりの悪い熊五郎、そっと入っていくのだが、黙っていたおかみさんが「どこでお浮かれになりましたか?」「お相方の顔も覚えていないですか?」などと嫌みを言う。熊五郎は女郎の惚気話をし始める。とうとう堪忍袋の緒が切れて、おかみさんは離縁状を渡して亀坊と家をでていく。

しばらく女郎と暮らすのだが、金の切れ目が縁の切れ目。さすがに情けなる。そして心機一転。それからは人が変わったように働き出す。別れた女房は近くの長屋で仕立物の内職をして暮らしている。それから三年。

熊五郎は旦那と歩いているとき、亀坊とばったり会う。そして勉強のたしにと五十銭を手渡す。母親にはこのことを云わないようにと念を押し、翌日鰻を一緒に食べる約束をする。母親がまだ一人でいることも知る。亀坊の額に傷があるのを見て、問いただすと母親に仕事をくれる旦那の息子が意地悪して叩いたのだという。熊五郎、抗議もできない自分が情けない。我慢をするように言って聞かせる。

長屋に戻った亀坊の手に五十銭があるのを母親が見つける。なにか悪い料簡でも起こしたのではないかと疑る。亀坊はしばらくがんばり通すのだが、遂に白状する。そして熊五郎がいい身なりをして大工として働いていることも喋る。ぐうたらだった亭主が再婚もせず真面目になったことを聞いた母親の内心は揺れる。

熊五郎と亀坊は一緒に鰻屋に入る。そこに気がきでない母親もやってくる。二人はしばし気まずい会話を交わすのだが、お互いまだ一人身であることを漏らす。

熊坊 「父ちゃん、長屋に戻ってくれよ、、」
熊五郎 「言いにくいのだが、、元の鞘に戻らないか、、」
女房 「異存なんかあるものですか、、この子のためにも」
女房 「、、昔から子は鎹といいますから」

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ウィスコンシンで会った人々 その77 左甚五郎利勝噺 

落語に「竹の水仙」というのがある。「三井の大黒」、「ねずみ」とともに、伝説的な彫刻職人技を真剣に、また可笑しく取り上げている。天下の宮大工として名高い左甚五郎利勝。左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。もう一つの説は、彫り物を彫らせたら右に出るものがいないというので、それなら左にしようと名前を与えたという説である。日光東照宮の眠り猫を彫ったといわれる。宮大工の名声をほしいままにした人物である。

「竹の水仙」のあらすじである。京へ下る途中、左甚五郎は名前を隠して、三島宿の旅籠に寄る。旅籠の主は佐平。ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。たまりかねた佐平に追い立てを食うが、甚五郎、平然としたもので、ある日中庭から手頃な竹を一本切ってくると、それから自分の部屋に籠もってなにやら作り始める。

心配した佐平が様子を見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。たまげた佐平に、甚五郎、「この水仙は昼三度夜三度、水を替えると翌朝不思議があらわれる」「売るときは町人なら五十両、侍なら百両。びた一文負けてはならない」と託ける。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開き、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。そこに通った殿様の目にとまり、三太夫にこの水仙を買い求めるよう指示する。だが三太夫、「たかが水仙が百両とは無礼!たわけ!」といって佐平を面罵する。戻ってきた三太夫に殿は、「竹の水仙を買えないようなら切腹を申しつける!」と言い渡す。それからどたばた劇が始まる。

もう一席。「ねずみ」も彫り物師の噺である。奥州仙台の宿場町。左甚五郎が、宿引きの子供に誘われて「ねずみ屋」という鄙びた宿に泊まる。そこは腰の立たないような宇兵衛と十二歳の子供の二人だけでやっているという貧しい宿だった。

向かいには虎屋という旅籠がある。かつては宇兵衛のものだったが、追い出され今の物置小屋を宿としねずみ屋としている。物置に棲んでいたネズミにちなんだという。これを聞いた左甚五郎は、木片でねずみを彫り上げ、繁盛を願ってそれを店先に置いて帰っていった。するとなんとその木彫りネズミがまるで本物のネズミのように自分で動き回りはじめる。

この噂が広まるやいなや、ねずみ屋に泊まればご利益があるとして部屋に収まり切らないほどの客が入る。それを苦々しく眺めていた虎屋は別の職人に虎の木彫りを彫らせる。そしてねずみと虎の彫り物対決となる。

工匠の代名詞、左甚五郎の一席である。

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ウィスコンシンで会った人々 その76 匠噺 「三井の大黒」

江戸の古い地図を見ると「神田八丁堀」がある。町人によって鎌倉河岸東端から本町通りと神田の境に堀の長さが約八丁の堀が掘られ,浜町を経て江戸の湊と結んだ。約800m位である。神田と日本橋との境界となっていた堀である。現在は、中央区京橋付近となっている。東京駅八重洲口より東に歩き、宝町、八丁堀を過ぎると浜町堀となって隅田川に入る。この神田八丁堀によって江戸城や数々の大名屋敷をつないだ商行為が盛んになり、神田の職人町が隆盛した。今も鎌倉橋や竜閑橋や日本橋魚市場の跡がある。

「三井の大黒」という演目に匠が登場する。神田八丁堀で大工作業をしているところに半てんを着た男が現れる。そして江戸の大工仕事がやわい、下手だとけちをつける。男は怒った大工たちから寄ってたかって袋だたきにされる。棟梁の政五郎が仲裁して男にたずねると、西の国からきた番匠だ、という。番匠とは大工のこと。男は気に入られ、棟梁の居候となる。この男はぼうっとしたところがあって、箱根を越えるとき自分の名前を忘れたという。そこで若い大工たちに「ポン州」というあだ名を与えられた。「ポン州か。わしゃ、一度ポン州になりたかった。」

板を削る下働きを担当することになったポン州は、みっちりとカンナを砥いだ。ようやく削った2枚の板を重ねると、板はぴったりと重なり、若い大工が力を込めても一向にはがれない。大工達はおかしな仕事をするものだと呆れる。

上方に帰る前に、政五郎は歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと勧める。素直に応じたポン州は二階で食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かを作る。数日後、ポン州は小僧に手紙を持たせてどこかに使いにやらせ、「湯に行ってくる」と出かける。そこに三井の使いという者が訪ねてきて、政五郎に「こちらに左甚五郎利勝様がおいでとか、、、」といって大黒様を頂戴にやってくる。政五郎はようやく得心する。

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