心に残る一冊 その134 「虚空遍歴」 その六 おけい

あるとき、冲也は箱根の気賀湯という湯治場にでかけ仕事をしようとします。そこにある藤屋という宿に泊まります。藤屋は大きな構えで平屋造ながら座敷も多い宿です。母屋と離れがあり、その庭に山から引いた水が溢れています。

宿にあがって三味線を取り出し調子を合わせ、静かに爪だきでふしをたどり始めます。五節ほどひいて、あとへ戻りまた初めからやり直します。今度は六節まで進み、その六節目を弾き直したのでまた元からやり直します。五節から六節めにかかると手がぴたりと停まってしまいます。
「くそっ、、」

そのとき、外で口三味線が聞こえます。彼は全身を硬くし、眼をつむったまま外からきこえてくるその口三味線の声に耳をすませます。自分の中の扉が開き、そこから広く伸びる自由な空間が見えるように感じます。彼は注意深く、そのふしを頭の中でためしてから三味線の糸に当ててみます。
「これだ、、」彼は昂奮します。
「これだ、これだ、これが捜していたふしだ、これで間違いなく伸びるぞ、、、」

冲也は三味線を下に置いて立ち窓の所へ行って障子をあけます。
庭には一人の女が立っています。
「失礼ですが、」冲也は窓から呼びかけます。
「いまの口三味線はあなたでしか、、」
女は傘の中でそっと頭を下げます。

「いまそちらへゆきます」と冲也は云います。
「ここで詳しいことは申せませんが、、いまのあなたの口三味線でひじょうに助かりました」
「失礼ですがあれはなにかの唄にあるふしですか、」
「ええ、、」
「綾瀬の月という端唄のかえ手です」
「綾瀬の月、、、端唄ですって、」

「あなたの三味線を聞いているうちに思い出して、つい知らず口から出てしまったんです」
「ご堪忍して下さいまし、」

この女は「おけい」という芸妓で、さる老旗本の囲い者のようです。おけいは芸者の頃から江戸で冲也節に惹かれていた女でした。箱根での出会いは運命的なものと冲也も感じたのですが、旗本に嫉妬されて、その家来から冲也は執拗に命を狙われることになります。