ウィスコンシンで会った人々 その33 実験計画の重要性

「教育の営み」ということを我々はしばしば使う。それは、過去の経験とか経験則にそって帰納的推測を信じているからである。どういうことかというと、「どうしてそのような指導法を使うのか」と問われると、「過去にいつも同じようにうまく働いた」とか「同じような結果がでた」と主張して同じ事を繰り返す。だが、将来もうまく働くと期待させるには、どのような根拠が必要なのかを問わなければならない。

我々の日常の行動は、こうした過去の行動の延長がほとんどといってもよい。学校でも大学でも企業でもそうだ。だが新しい試みはそこに何らかの見通しや予測が働き、よりよい結果や成果を期待する。そして検証という課題が待っている。これが面倒なためにどうしても繰り返しという道を選びがちになる。過去の経験と結果に拘泥していては、新し発想は生まれにくい。

ウィスコンシン大学での勉強に戻る。大学院では実験などの検証方法を学んだ。検証といってもいかに信頼しうるデータを収集するか、そのための実験計画はどうあるべきか、いかに誤差を減らすとかばらつかせるか、人の行動変容と意図した実験やカウンセリングではどのような落とし穴があるか、それにはどう対応するかなどのことである。例えば、特に子供の著しい成熟、家庭の状況、例えば両親の療育態度、子供の健康状態、大人であれば経済的な貧富や周りの交友関係があるやなしや、などが行動にいろいろと影響していくる。こうした誤差を生みやすい要因にいかに対応するかなどである。こうした授業は実験計画という科目であった。

ところで最近友人から問い合わせがあった。卒論で「部活をしている学生」と「部活をしていない学生」の間で「寂寥感」は違うかどうかを調べるには、どのような統計手法を使ったらよいかというものであった。この問いには簡単に答えるのは難しい。学生には、部活の他に毎月の経済状態とかアルバイト、健康状態、友人関係、都会か地方とかの出身、指導教官との関係、学業成績、自尊心などといった要因がある。通常、こうした要因は変数と呼ばれ「寂寥感」に影響してくるとも考えられる。今の学生のスマホを使ったSNSの利用は、部活よりも寂寥感とか孤立感を癒す要因となっているかもしれない。

「寂寥感」とか「自己効力感」などを調査するには、上述したような被験者とか調査対象者の環境から生じる属性である変数を考慮しなければならない。そのためには、テーマに関連するような調査項目や設問など精査しておくことが大事なのである。実験計画とか調査計画がしっかりしていれば、あとは統計処理に任せるだけだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その32 大学のシーラカンス

統計上の検定にはいろいろと思い出がある。大学にいた頃の話である。そのほとんどは、「どんな検定を使ったらよいですか?」という類である。実はこうした相談は一番困惑する。大学の教員にはさまざまな人がいて、院生や学生に修論や卒論の課題を出したりする。院生のほうから「これこれしかじかの研究をしたい」という申し出もある。筆者は、その研究課題をどうして選んだのか、誰かの役に立つのかを考えさせることにした。こちらが思いもよらない素晴らしい提案をする者もいる。例えば「筋ジストフィー児の自己効力感の向上」といったテーマである。

大学では、他の指導教官が筆者を指定して院生を修論の相談に来させることがあった。そんなときは、まんざらでもないという気分になる。自分の専門分野でない問いを院生が持ち込んできたときは、筆者も知り合いの他の教官に相談するのがよいと助言して送りだす。大学にはいろいろな専門分野の人間がいるので、院生はそうした資源を活用できる特典がある。だが中には、他の教官の指導や助言を避ける者もいる。閥があるからだ。院生の囲い込みのようなことをしていては、院生が不幸である。

大学はさまざまな専門性を持った者の集団である。古い者は辞めていき、新しい血が注がれる。新陳代謝が多いのが大学だ。だが、シーラカンス(coelacanth)のような者もときにはいる。長く勤めれば勤めるほど同じ出身大学の後輩が集まり大学での発言権が高まる。差配のような存在となる。そして名誉教授などという箔が貰える。このとき研究業績などは考慮されない。これが国立大学法人の特徴である。

大学に学閥があるというは、今も昔も変わらない。シーラカンスのようなものだ。これを打破しようと文科省は大学に特徴を持たせようと大学を競わせ、競争的研究費をあてがい、組織の統廃合を進めようとしている。閥に入れなかったからといって少々ひがむのであるが、大学の発展のためには交付金の配分にメリハリをつけ、組織にメスというカツを入れることは悪いことではないと考える一人である。

design_img_f_1406180_s 北海道大学古河記念講堂 北大古河記念講堂

ウィスコンシンで会った人々 その31 「確からしい知識」と人間の行動

ウィスコンシンの大学院へ進んで驚いたことはいろいろある。その第一は実験計画や推測統計の授業内容が濃く、その知識の習得を調べる試験が厳しいということである。もう一つの驚きは、科学的方法という科目を履修しなければならないことであった。

筆者の所属したのは行動障害学科(Department of Behavioral Disabilitis)といった文字通り人間の行動を基本にして、様々な行動の形態や特徴をとらえ、それを変容させたり発展させることを目指して科目が設定されていた。その方法は応用行動分析とか行動療法という手法に現れている。

こうした研究分野は行動科学と呼ばれる。行動科学はなかな手強い学問である。人間の自由、その生と死、人間と環境、天賦の才能、思考や認知、知識と実在、価値と道徳、など哲学的ともされる課題や問いを扱うからである。以前、このブログで帰納推理ということを話題にしたことがある。そして「確からしい知識」とか「確実に起こりうる見込み」といった現象のことに触れた。

行動科学の本来の仕事は、経験から得た知見を仮説としてそれを検定するという演繹的なテストのことだとも述べた。集めた事例を吟味してそれを一般化にいたる合理的な方法を見いだそうとする。そのためには観察や調査、そして実験に耐えられるかどうかの合理的な方法を求めるのである。

帰納推理とは特殊から一般を推論する方法である。観察や実験から科学の法則を導き出す方法ともいえる。この方法の特徴は演繹推理と異なり、絶対確実な推理ではないという点である。何十回、何百回の観察や実験によって確かめられたといっても、あるとき別な方法によって意外な結果が表れるかもしれないのである。

従って、科学の知識とは確実ではない推論を積み重ねて構成されるものだから、確実な知識ではない、「確からしい知識」といわれる。ある事が起こり得る「見込み」である蓋然性ということが、人間界の現象、特に人間の行動上の特徴といえそうである。

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ウィスコンシンで会った人々 その30 Intermission その二 沖縄独立論の後退

「沖縄独立論」は、琉球王国時代の豊かな文化や芸術、土着の宗教や言語などにその起源があると考えられる。南方との交易によって琉球にはいろいろな文化ももたらされた。特に最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。琉歌や組踊りも独特である。他方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用いた。

琉球の独自性は、多くの文化人といわれる人々によって研究されてきた。「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷の沖縄研究は、沖縄の言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。彼の後継者といわれたのが外間守善で、生涯を琉球文学や文化研究に捧げた。比嘉春潮もまた沖縄史の研究者であり沖縄の独立を主張した社会運動家である。仲宗根政善はひめゆり学徒隊の引率教官。そして戦後は琉球方言の研究や沖縄の教育行政にあたる。

琉球・沖縄の独自性を沖縄の人々に再認識させようと挺身したのが川平朝申である。川平を含む前述の平良牧師ら多くの知識人は、当初はアメリカの施政権下からの独立を目指していた。本土復帰が決まるとことによって琉球は沖縄県となり、日本への統合が始まる。やがて沖縄民族(ウチナンチュ)の独自性や精神、文化が揺らぐことの危機意識が高まり、「反復帰」の声が地元の新聞論調にみられるようになる。

復帰後、本土からヒト、モノ、カネ、そして制度が怒とうのように押し寄せ、日本政府という権力の凄さ、恐ろしさが県民によって理解され始める。「これは夢ではないか」と錯覚するような大変化であった。だが時は既に遅し。「反復帰」の精神は運動しての高まりを生むことはなかった。沖縄の一部の人々であるが、唯一日本からの独立という途方もない発想をすることに筆者は畏敬の念を抱く。

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ウィスコンシンで会った人々 その29 Intermission その一 沖縄独立論の序章

筆者にとって琉球での7年間の生活は誠に稔り多いものだったと述懐している。アメリカの施政権、本土復帰の両方を経験しいろいろなことを考える機会となった。本土にいては決して考えられないような独立と復帰の意義を教えられたからである。

琉球の歴史だが、その独立は三度潰えた経緯がある。第一は1879年に沖縄県令として前肥前鹿島藩主が兵隊を連れて赴任したいわゆる琉球処分の始まり、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の本土復帰である。

琉球は1429年以来、明と清の冊封使を受け入れながらも、独立を保っていた。だが清の影響が衰退し明治政府の樹立とともに日本の治世下に入る。そして1945年の民政府による統治が始まる。

1952年に琉球政府が創設される。だが、長である行政主席は民政府によって任命された。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官アンガー(Ferdinand Unger)の赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされる。「アンガー氏をして最後の弁務官とさせしめたまえ」という祈りは人々に衝撃を与えたといわれる。1968年に民政府は行政主席を公選とすることを発表した。それによって当選したのが後に初代の沖縄県知事となる屋良朝苗である。

1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期である。琉球からB52をはじめとする戦闘部隊や兵站部隊が送られた。その間アメリカ軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本と復帰の運動が広まった。1970年12月のコザ暴動はその典型である。アメリカ兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ちである。しかし、本土復帰と沖縄の独立は相反する精神の葛藤となることがやがて鮮明となっていく。

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ウィスコンシンで会った人々 その28 Intermission 琉球とランチョンミート

筆者は1970年3月にに幼児教育を始めるようにとの辞令もらい家族と一緒に琉球へ出かけた。パスポートとわずかのドルを持参し予防注射を受けた。そして1972年5月15日に那覇で本土復帰の日を迎えた。丁度雨がしとしとと降る日であった。5月15日は長男の誕生日でもある。

今年は沖縄戦の終結から70年の節目。1945年6月23日に旧日本軍の組織的戦闘が終結したことにちなみ、当時の琉球政府及び沖縄県が定めた記念日が慰霊の日である。

樺太に生まれ、北海道で暮らし、東京で勉強し、琉球に渡った。どこもそれぞれに思い出がある。琉球に着いたとき青い空、赤いデイゴやハイビスカスの花、紅型の美しさが眩しかった。幼児教育はルーテル教会活動の一環として始まった。そこでいろいろな人々と出会う。沖縄戦のとき、琉球気象台に勤めていて糸満の摩文仁に逃げる途中弾丸を足にうけて助かったという国吉昇氏である。彼は後日私のウィスコンシン大学への留学を支援してくれた恩師である。

教会にはハンセン氏病で治癒された信徒もおられた。名護の北、屋我地にある国立療養所沖縄愛楽園という施設で長らく生活された方である。日本聖公会も愛楽園で患者やその家族を支援するさまざまな活動をしていた。信徒の方の家を訪問したときである。お菓子とお茶がだされたが菓子はどうしても手をだすことができなかった。暇してから途中で手を洗った。この情けない行為は今もひきづっている。

話題はランチョンミート(luncheon meat)である。琉球で始めて出会った食べ物の缶詰である。この缶詰にはたくさんの種類があった。なぜこのような缶詰が琉球に多いのかがやがてわかった。沖縄戦が終結し、米軍がこの缶詰を持ち込んだのである。戦争当時、ランチョンミートは戦場携行食のレーション(ration)であったようだ。

ランチョンミートの缶詰をみると、アメリカやオランダ製のものが目立った。特にアメリカのホーメル(Hormel)とデンマークのチューリップ(TULIP)社のものが有名であった。琉球ではポークとかポークランチョンミートと呼ばれていた。ホーメル社のランチョンミートはもともとHormel Spiced Hamとよばれていた。それがやがてスパム(SPAM)という名前として日本でも知られるようになる。

琉球でランチョンミートを食したときは、実に美味しい肉だな、と思った。琉球ではスライスして炒めものに使っていた。琉球の味噌汁やソーキそばにも入っていた。ゴーヤチャンプルーの味はランチョンミートからでる油と出汁のようだ。こんな美味しいものはそれまで食べたことがなかった。琉球で始めて口にしたステーキも思い出だが、ランチョンミートのほうが何倍も美味しいと感じた。

その後、ハワイにでかけたとき海苔でまいたおにぎりに出会った。なんとその上にランチョンミートが載せられていた。琉球もハワイもかつてはアメリカの施政権下にあった。ランチョンミートが人気があるのは戦場携行食、レーションの名残であろうと納得したのである。

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ウィスコンシンで会った人々 その27 囲碁の基本 その三 大局観

囲碁では大局観ということがよく云われる。どんな戦術をたてるかとか、盤全体と部分を見渡すとか、石の強弱を判断するとか、といった判断力として使われる。だが云うや易くで、この奥義がわかれば今頃六段や七段になっているはずだ。

囲碁にはいろいろな格言というか味わい深いフレーズがある。ご存じ「岡目八目」もそうだ。対局者本人たちは気がつかないことでも、端で見ている第三者のほうが分かるという意味だ。傍観していても八目も先まで手を見越すという意味のようだ。目とは碁盤の目を指す。岡は「傍」という意味である。

「カス石は捨てよ」とは、用済みの石は積極的に捨てて、先手を取れという意味だ。局面をリードするには先手がとることだ大事なのである。カス石は捨石(すていし)とか、おとりとも呼ばれる。石を犠牲にすることで全体として利益を得ることという意味でもある。

「模様の接点逃がすべからず」というのもある。模様は厚みとも呼ばれ地を大きく囲うことである。盤上には自分と相手の石の接点がある。
お互いの模様の交わるところは価値の大きい手であるから、逃してはならないのである。

「分からない時は手を抜け」というのもある。打っていると、どこが大事かがわからないことがある。着手が分からないという場合だ。そのときは手を抜いて、状況を見渡してまた戻って考えてみよ、という意味である。迷って打つ手は得てして悪手になることが多いことの教訓である。

難しいのが「後手の先手」 という格言だ。この意味は、まずは後手になってもいいから自らの形を整えて、相手が手を抜いたら、その不備な点を咎めることが大事だということである。対局中はどうしても「先手は媚薬」という誘惑に駆られる手を打ちがちになる。あとでそれを後悔するというのがこの格言である。媚薬とはよくいったものだ。

格言にはまだまだ沢山あるが、筆者にとって痛い目にあったことの多いものを選んでみた。大局観が最も難しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その26 囲碁の基本 その二 競り合いの強さ

このところ囲碁界では、中国や韓国の棋手の強さが報じられている。それだけに囲碁の盟主ともいえる日本の棋手に対する期待が大きい。中国や韓国の選手の強さは競り合いの強さとか、石の強さということにあるらしい。日本の棋手は石の形や効率を重視しがちで、サッカーでいう球際の強さではないが、厳しい石の競り合いはあまり得意でないというのだ。筆者には通暁していない高みの話題だが、、

囲碁の戦法には実利と厚みがある。自分の地となり、相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼ぶ。この確定地優先の戦法を実利重視という。一般に、相手の石が生きることが困難なところ、つまり自分の地になりやすいところと、模様の広さという大きな地になる可能性の大きさとの間にはトレードオフ(trade-off)の関係がある。

しかし、確定地ばかり作っていると周りが相手の石で囲まれ大模様ができることになる。勢力が強くなると、これをたやすく破ることは難しい。こうした戦法は厚み重視という。厚みの碁では相手は大抵の場合、厚みの中に打ち込んでくる。いわば敵の陣地に落下傘部隊を投下するようなものである。しかし、この場合は厚みという勢力によって相当逃げ回り、追い詰められることを覚悟しなければならない。

厚みとは大まかに囲っている地域であり、模様ともいわれる。囲碁の進行と共に、攻めと守りという景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させる打ち込みだが、生きてしまえば、そこは自分の地となり、相手の陣地は小さくなる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を譲り合う、「フリカワリ」という戦法もある。こちらが地を取れば、相手にも地をあげる、というトレードオフである。この時、どちらが得をするかで「フリカワリ」をするかどうかを判断する。

目前の利得を重視するのが実利重視、将来の利得を考えるのが厚み重視。経営に喩えれば、短期と長期の見通しやバランスに似たところがある。この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて重要であり、また難しさの奥義でもある。

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ウィスコンシンで会った人々 その25 囲碁の基本 その一 特徴

ウィスコンシンと囲碁。タイトルと内容がちぐはぐではある。留学時代にウィスコンシン大学の学生会館–Memorial Unionで囲碁を楽しんでいる中国人や韓国人の姿をよく見かけたことを数日前に紹介した。当時こちらは貧乏院生。ゆっくり立ち止まって観戦するわけにはいかなかった。その頃、囲碁を打っていればもっと強くなったかもしれないと納得はしている。

囲碁には他のゲームと同様に大事な戦略がある。この知的な作業が一番大事であり、最も難しいことである。囲碁を打つ上でのいくつかの特徴を取り上げる。布石、石の形、定石、石の働き、厚みなどである。

【布石】
序盤での石の配置のことである。中盤や後半の戦いのためにあらかじめ備えることである。基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためである。隅は二辺を囲めば地となり、その分効率がよいとされる。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合、打ち手である棋手の趣向といわれる。北海道旭川出身の山下敬吾九段がよく打った。

【石の形】
囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから生まれるる効率の良い石の配置とか必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することが上達につながるといわれる。石の形を習得することで棋力を積み重ねることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」とか「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」、「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。

【定石】
布石の段階で双方が最善手を打つことでできる石の配置をいう。両者が最善を尽くしている状況では、部分的には互角になる石の姿、あるいは応酬のことである。だが定石はあくまでも「部分的」に互角ということであり、他の部分の配石次第では、定石どおりに打っても悪い結果になることがある。初中級者が定石の手順を丸暗記して悪い結果になることを「定石を覚えて二子弱くなり」などと揶揄される。ただ単に定石を覚えただけではいけない。ここが囲碁の難しいところだ。

【石の働き】
囲碁は互いに着手する回数は同じである。その過程でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかの知的ゲームである。石を効率よく打つと地を得やすくなる。この石の効率ことを「石の働き」と言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。前述した愚形や凝り形と呼ばれる展開は、総じて石の効率も石の働きも悪い。石の働きは将来の地の大きさに響いてくる。

強い棋手が盤上を見ると、愚形や凝り形になったほうは負け、と即座に判断するという。石の効率が悪いと勝つことは難しいようだ。囲碁は石の働きや効率を競い合うゲームといえる。

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ウィスコンシンで会った人々 その24  囲碁クラブ開設チラシの配布

住んでいる八王子の家の近くに二つの小学校がある。そのうちの一つには、「放課後子ども育成事業」で囲碁クラブがないことを知った。そこで学校へ出掛け校長や教頭と会い、囲碁クラブの開設を申し出た。費用はかからないこと、ボランティアが担当すること、囲碁をするのは子どもの発達によいこと、などを熱い思いで語ってきた。その甲斐もあってか、保護者全員に開設案内のチラシを配布し回収するところこまでこぎつけた。

このチラシは、次のように誠しやかなことをうたっている。

【囲碁とは】
黒石と白石を盤上の交点ならどこに打ってもよい自由なルールで「かたち」を創り上げていくのが囲碁です。

【囲碁の効用】
子どもの人格育成を助けるのが囲碁です。囲碁は集中力が身につき、創造力を育み、発想が豊かになる頭脳ゲームです。囲碁は考える力を向上させることができます。

【囲碁で教えること】
子どもに囲碁の楽しさやスリル、囲碁のルール、囲碁をうつときの礼儀や態度などを教えます。礼に始まり礼に終わるのが囲碁です。対局のマナーが身につきます。

筆者はチラシの内容で悦に入っているが、その通りに子どもが変容するかは保障していない。偏に指導し援助するボランティアの資質や力量にかかっている。小学生には九路盤か十三路盤を使う。普通大人が使う十九路盤では広すぎる。九路盤とは九掛ける九、八十一の交点を使う。でもかなりの広さである。

囲碁には黒石と白石をどこに置いてもよいというルールがある。それによって「かたち」を作り上げていく。囲碁はこちらが打てば、相手も打つという交互のゲームだ。相手が考えているときはじっと待たなければならない。その間自分の打つ手を考える。次に自分はどのような意図や作戦によって石を盤上に置くかを考える。ここが思案のしどころだ。

「かたち」によって陣取りをするのが囲碁である。攻めては守り、陣地を広げようとする。むやみに堅い相手の陣地に入ると召し捕られる。攻めてばかりいると石が孤立し弱くなり、自陣が荒れる。石の強弱によって戦況は変わる。子どもにはこのような変化は少し難しすぎるが、どうすれば陣地を守れるか、あるいは広げられるか、相手の石を取れるかの心得が備わってくる。

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