心に残る一冊 その56 「月と6ペンス」

「月と6ペンス」の作家はサマーセット・モーム(Somerset Maugham)。原題は「The Moon and Sixpence」 です。まずはこの小説のストーリーです。ロンドンの一株式仲買人であるストリックランド(Charles Strickland)という平凡な家庭人が主人公です。この四十男が突然ものに憑かれたように、自分は絵を描くのだと言い出し、妻子を棄てて出奔します。いろいろな徘徊を重ねて、やがて太平洋タヒチ島(Tahiti)にわたり、最後はライ病(leprosy)にかかりながら、会心の大作を残して亡くなります。

次のような情景があります。ライ病に罹ったストリックランドは自分が納得する果物の絵を描きます。側には、現地人の娘のアタ(Ata)がかいがいしく寄り添います。当時この辺の島では隔離ということが厳しく行われていなかったので、ライ病患者は自分が望めば、自由に居住することが許されていたようです。

「俺は山の中に入る」 ストリックランドはいった。
するとアタは、さっと立ち上がって、彼と向かい合った。

「ほかのものは、行きたけりや、行かせていいけど、わたしはあんたを放したりはしないわ。あんたは私の男で、わたしはあんたの女だもの。あんたがわたしをおいて行くのなら、わたし、家の裏にあるあの木で首を吊ってしまう。神様に誓ってもいいわ。」

一瞬、ストリックランドの剛毅さがぐらつき、両の目が涙で一杯になり頬を伝わって流れます。

主人公ストリックランドの遍歴からは、人は決して首尾一貫した存在ではないこと、善人と思われる者も、実はとんでもない悪の因子を秘めていること、逆に悪人であってもどうにかすると珠玉のような善の要素をもっているのだということが語られます。表から見ただけでは人間はわからない存在であることをモームはストリックランドを通して言わせています。