日本にやって来て活躍した外国人 その十二  ジェームス・ヘボン 

明治時代、宣教師で医者として活躍したヘボン(James C. Hepburn) は、ヘップバーンと呼ばれるべき人です。当時の人は、親しみをこめてか聞き違えて「ヘボン」と呼んだのだろうと察します。ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)で生まれ、やがてプリンストン大学(Princeton University)で修士号を、その後1836年にペンシルヴァニア大学(University of Pennsylvania)で医学博士号を取得し、クリニックを開業します。

ヘボンは長老派教会(Presbyterian Mission)の医学宣教師として中国を目指します。しかし、阿片戦争(Opium War)などにより上海などの街は閉ざされて外国人の入国ができなくなります。シンガポールで2年間布教活動を行い、1845年にニューヨークに戻り再び医院を開業します。1859年に長崎に到着するや横浜に居を移し、1861年4月、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始します。横浜近代医学の歴史が始まったといわれます。ヘボンはアメリカ公使のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)のお抱え医師ともなります。

妻クララ(Clara)とともにヘボン塾(Hepburn School)を開設します。この学校はやがて明治学院大学へと発展していきます。ヘボン塾からは、ジャーナリストで政治家となる沼間守一、洋学者で軍人となる古屋佐久左衛門、第20代内閣総理大臣となる高橋是清らが育っていきます。日本語の英語辞典を作るという功績も残します。

ヘボンの専門は脳外科であったようですが、当時眼病が多かった横浜などはその治療で名声を博したようです。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれ、横浜市立大学はその功績を称えています。ヘボン塾の卒業生らによってフェリス女学院の母体ができることになります。

日本にやって来て活躍した外国人 その十一 ウイリアム・クラーク

北海道開拓の歴史で、「この人をおいて他になし」といわれるのがウイリアム・クラーク(William S. Clark)です。北海道開拓時代に活躍した「お雇い外国人」の1人です。札幌農学校の初代教頭でもありました。北海道の人々、道産子は「クラーク博士」と親しみと尊敬を込めて呼んでいます。

マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)の第三代学長であったクラーク博士は、1876年7月に来日します。この農科大学は、現在はマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)と改称されています。日本に滞在していたのは1877年4月までの約8ヶ月と短い期間でありました。その間、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラム(Liberal Arts)を導入します。キリスト教を土台としたピューリタン教育(Puritanや、英語での自然科学教育を行うのです。

現在のマサチューセッツ大学アマースト校

ウィリストン神学校(Williston Seminary)で基礎教育(Liberal Arts)を受け、1844年にアマースト大学に入学します。そこでギリシア文字協会(Phi Beta Kappa)と呼ばれる教育・法律・医学などの専門職に就くことを目的とする団体会員となります。1848年に同大学卒業後、1850年までウィリストン神学校で化学を教えます。化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学(Georg-August-Universität Göttingen)へ留学し、1852年に同大学で化学の博士号を取得します。

帰国後、クラーク博士は母校アマースト大学で教鞭をとります。同大学初の日本人留学生に、後に同志社大学の創始者となる新島襄がいました。明治政府は、新島襄の紹介により、クラーク博士に札幌農学校教頭として招聘するのです。赴任したのは1876年7月でありました。

当時の札幌農学校

クラーク博士はマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入します。明治政府は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十 鑑真

中国、唐代の高僧、鑑真の日本に与えた影響について振り返ります。世界大百科事典によりますと、14歳で出家し洛陽の都長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、やがて江南第一の大師と称されていきます。742年の第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、鑑真は渡日を決意します。5回の渡航の試みの後、753年に6回目にして沖縄を経由して南さつまに漂着します。このとき一緒に航海していた吉備真備も唐より帰国します。

平城京に到着した鑑真は、聖武上皇や孝謙天皇らから歓待を受けたといわれます。鑑真が行ったのは、戒律を伝えることでした。戒律とは、僧が守るべき仏教の大切なきまりです。生き物を殺さないこと、物をぬすまないことといった戒律です。鑑真は、戒律を守らせることで、仏教を正しく理解する多くの僧を育てていきます。この仏教の宗派は律宗と呼ばれます。戒律の研究と実践を行うのです。

鑑真により伝えられた戒律思想は,東大寺、薬師寺(下野)、観世音寺(筑前)において僧侶に戒律を授ける壇(三戒壇)の成立によって授戒制度が整備され,天平仏教に点睛を加えたといわれます。仏に帰依する人を育てる、弟子を育てる、後継者を育てるという信念は多くの人々に受け入れられたのです。

唐招提寺金堂

759年。鑑真は、さらに僧を育てるため、戒律の根本道場唐招提寺を都に開きます。律宗の総本山となります。僧の修行の場だった講堂をはじめ、仏像が並ぶ金堂などは、奈良時代に作られた貴重な建物として世界遺産に登録されています。国宝となっている鑑真和上像は、わが国に現存する最古の肖像彫刻といわれます。「招提」とは私寺という意味だそうです。唐招提寺の金堂は2000年から「平成の大修理」が行われ、2009年11月に落慶行事が行われました。

日本にやって来て活躍した外国人 その九 トーマス・グラバー

幕末から明治初期にかけ、日本の産業革命の推進に寄与した人物の1人に、長崎で活躍したスコットランド人貿易商トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)がいます。世界文化遺産の対象となった長崎の「旧グラバー住宅」、小菅修船場跡、高島炭坑などはグラバーが設立や建設にかかわったものです。

Thomas B. Glover

グラバーが持ち込んだ西洋からの最新技術、招かれた技術者や専門家によって、日本の造船、製鉄、石炭産業分野の近代化は急速に加速していきます。商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船技術を持ち込みます。日本人が技術者として育っていくのは、グラバーらの尽力によることが多かったようです。わずか50年あまりで日本は世界有数の近代産業国家に変身していきます。日本の産業化中興の祖(Founding father of Japan’s economic growth)と言われることもあります。

長崎観光の人気スポットとなっている「グラバー園」には、居留地時代のレトロな洋館が建っています。グラバーが長崎港や長崎製鉄所を見下ろす高台に「旧グラバー住宅」を建てたのは1863年です。木造のL字型バンガローで、扇型屋根、それにコロニアル風の大型窓などが特徴です。最初の和洋折衷建築で現存する最古の洋風木造建築となっています。

グラバー園

グラバーは流暢な日本語を操り、薩摩藩の依頼で外国船輸入の斡旋にかかわったことから、薩摩、長州、土佐などの西南雄藩への船舶、武器、黒色火薬などの密貿易を行いました。グラバーは討幕派を支援し、密貿易だけでなく、当時の国禁を犯して薩長両藩の武士たちの海外渡航に協力します。

Tsuru Glover

1863年に横浜から長州藩の5人の若者の英国渡航を手助けます。この5人は、初代首相の伊藤博文、初代外相の井上馨、日本工業の祖、山尾庸三、造幣局長となった遠藤謹助、鉄道庁長官となった井上勝です。1865年には、やがて大阪経済界に君臨する五代友厚が率いる薩摩藩士19人の訪英も手助けするのです。こうした海外渡航によって明治の政界や経済界に指導者が育っていきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その八 ウィリアム・アダムス

1598年6月、イギリス人ウィリアム・アダムス(William Adams)は、オランダのロッテルダムを出港したガレオン(Galleon)船五隻の船団の一隻リーフデ号(De Liefde)に航海士として、「新航路発見」の航海に出ます。ガレオン船とは大型の帆走の砲艦のことです。船団は大西洋を南下し、南アメリカの先端、マジェラン海峡(Strait of Magellan)を通過し太平洋に出ます。

嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみでした。22カ月に及ぶ長い航海の末に、アダムスの乗ったリーフデ号は、日本の豊後の臼杵に漂着します。リーフデ号には船長クワケルナック(Jacob Quackernack)やヤン・ヨーステン(Jan Josten)がいました。

アダムスらは、やがて徳川家康に謁見します。家康はリーフデ号が日本に運んできた19門の大砲をはじめとする武器・弾薬を使い、日本を統一することができると考えに違いありません。後に大砲が威力を発揮したのが大阪夏の陣です。家康はアダムスらリーフデ号の乗員の話を聞くことで、南蛮諸国の勢力図や優れた技術ばかりか、ポルトガル人などの南蛮人の目論見や企ても知ることになります。

船大工としての経験をも買われ、家康の命により120トンの洋式帆船を日本で初めて建造します。こうしてアダムスは、家康の信頼を得ていき、やがて外交顧問として取りたてられます。江戸日本橋按針町屋敷を与えられます。家康が亡くなると、幕府は交易を長崎県平戸のみに制限し、鎖国体制を敷きます。そのためアダムスは不遇となり横須賀の逸見を離れ平戸へ向かいます。オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになります。

安針塚横須賀

日本にやって来て活躍した外国人 その七 ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(Jan Josten)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として、航海長ウイリアム・アダムス(William Adams)らとともに実権を握っていた徳川家康にヨーロッパ事情を伝えた人物です。家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになります。

そして朱印状を与えられて活躍する貿易商でもあったようです。中部ベトナム、タイマライ半島、中部カンボジア、北ベトナムなど各地に手広く貿易を営んでいきます。1614年オランダ商館が平戸に開設されてから,幕府と商館の仲介役としても活躍します。砲術顧問として、土地や屋敷を与えられ、日本人女性とも結婚します。与えられた土地は、ヤン・ヨーステンの名前から八代州海岸と呼ばれ、現在の東京都中央区八重洲の名の由来となっています。

ポルトガル人との貿易が豊臣氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、オラン人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウィリアム・アダムスらを召し抱えたようです。

日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発展します。

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されているといわれます。

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。

日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三 ザビエルと琵琶法師ロレンソ

サビエルは山口の街角では毎日二回説教し、神の福音を説いていきます。集まった者から宗教以外の色々の質問にも答えたいわれます。サビエルは修道院でいろいろな学問を修めていたので、自然界のこと、例えば地球の形、太陽の動き、雷や稲妻、雪、雨等の天文や気象に関するもの、自然科学に関する問いに答えたようです。

布教を通して有力な信者を得ていきます。そのうちでも盲人の琵琶法師は最も知られています。山口の街角でザビエルに出会い、自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、やがてロレンソ(Lorenzo)という洗礼名を受けます。ロレンソは後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも福音を説き、やがて高山右近等の名高いキリシタン大名を得ていきます。サビエルの生涯で、ロレンソなどの弟子を育てた山口での伝道活動は最も充実していたようです。

山口ザビエル記念聖堂

1551年11月に鹿児島のベルナルド(Bernard)、マテオ(Matthew)、ジュアン(Juan)、アントニオ(Antonio)という洗礼を受けた日本人青年4人を同行させ、ザビエルはトーレス(Tores)神父とフェルナンデス(Fernandez)修道士らを残して日本を離れます。神父というのはトリック教会の司祭で、修道士とは清貧や貞潔、服従の誓いをたてた者です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二 フランシスコ・ザビエル

「日本史において活躍した外国人?」といえばどうしてもフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)を第一番に挙げたくなります。天文18年といえば1549年ですが、我が国に最初にキリスト教を伝えたことで知られています。ザビエルはスペイン人宣教師です。私は津和野を訪ねてから山口市に立ち寄ったことがあります。ザビエルのことを少し学んでいたからです。山口サビエル記念聖堂を訪ね、そこで観光客を案内していたスペインからの神父さんと会話したのを思い出します。

Ignacio Lopez de Loyola

ポルトガル王ジョアン3世(Joao III)は、イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)がイエズス会(Society of Jesus or Jesuit)という新修道会を創設したことを知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣するようにロヨラに依頼します。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲス(Simon Rodríguez)です。こうしてザビエルは東方伝道の命を受けインドのゴア (Goa)に派遣されます。ザビエル最初に日本に上陸したのは鹿児島です。

Francisco de Xavier
大内義隆

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え1551年4月下旬、周防に向かいます。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは一行を盛装させて、守護大名、大内義隆に謁見し珍しい文物を献上します。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めます。

大内義隆は、廃寺となっていた山口の大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えます。これが日本最初の常設の教会堂となります。南蛮寺の第一号のようなものです。ザビエルはこの大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったとあります。日本で初めてのクリスマス行事もここで行われたと記録にあります。現在の山口カトリック教会サビエル記念聖堂の落成献堂式は1952年1月、1991年9月に焼失しますが、1998年4月に再建されます。